第8話 交易都市の陰謀――“名を奪う契約書”
歌が港に広がって三日。
笛の音はまだ鳴り続けていたが、その響きはどこか弱々しくなっていた。
〈ホワイト・ウェイク〉の甲板に立つと、遠くから子どもの歌声が聞こえる。
「火は消えない、白い線――」
港の空気そのものが変わり始めていた。
だが、安心するには早すぎた。
新しい任務が舞い込んだのだ。
「交易都市ベルデラからの招請状です」
ロザンヌが封を切り、文を読み上げる。
「“新航路を提唱する令嬢に謁見を求む。都市連合の名において、出資の可否を協議する”」
私は目を細めた。
ベルデラ――大陸沿岸で最大の交易都市。商会が網のように張り巡らされ、王国すら逆らえないほどの財力を持つ。
そこからの“招請”。
甘い蜜のように見えるが、裏には必ず毒がある。
◇◇◇
ベルデラの城門をくぐった瞬間、空気の濃さが違うことを感じた。
香辛料の匂い、金属を打つ音、数十の言語が飛び交うざわめき。
色とりどりの布が吊るされ、果物の山が路地にあふれ、人の流れは止まることを知らない。
セリーヌは香炉を胸に抱きながら歩き、少年たちは目を輝かせて露店を眺めていた。
「ここでは名が通貨だ」
ロザンヌが低く言った。
「“誰が言ったか”が取引の基準になる。名を失えば、貨幣を失うのと同じ」
私は頷いた。
だからこそ、警戒していた。
ベルデラは“名”を最も巧妙に奪う街だ。
◇◇◇
都市連合の会館。
磨き上げられた石床に、豪奢な絨毯。壁には交易路を描いた巨大な地図が掲げられている。
その中央に、商会の長たちが並んでいた。
ひとりは金の鎖を首に掛け、ひとりは宝石の指輪を何重にもはめ、ひとりは香を焚き込めた衣を纏っていた。
代表が声を上げる。
「アリアナ・ヴァルロット。新航路を切り拓いたと聞く。我らはその“名”に投資したい」
彼は笑みを浮かべ、机に一枚の紙を置いた。
契約書だった。
「内容を読んでください」
ロザンヌが一歩前に出、文を手に取った。
目を走らせた彼女の表情が、すぐに硬くなった。
「……これは」
「どういう契約?」
私は尋ねる。
「“航路の名義を都市連合に委譲する”とある。資金提供の代わりに、航路の正式名称に彼らの名を刻む、という条文です」
背筋に冷たいものが走った。
名を奪う契約。
それは“航路そのものを奪う”ことと同じだ。
◇◇◇
私は深呼吸し、代表を見据えた。
「資金は確かに必要です。ですが、名を譲ることはできません。航路は、名によって存続するものだから」
代表は笑みを崩さなかった。
「誤解なさらず。名を奪うのではなく、名を共にするのです。我らは航路の後ろ盾となり、あなたは命を繋げる」
机の上で契約書が広がり、油の匂いを放っていた。
インクの黒が、血のように濃かった。
「拒めば?」
「資金は降りない。交易都市での入港も禁じられる。船を持つ者は、ベルデラの許しなくして海を渡れないのですよ」
脅迫だった。
都市は名を奪い、海を奪う。
その仕組みを、私は目の前に突きつけられていた。
◇◇◇
会談が終わり、宿に戻る。
仲間たちは皆、沈んでいた。
ユーグは剣を壁に立てかけ、無言で腕を組む。
エルドは星図を広げ、意味のない線を引き続けていた。
ミレイは鍋を撫でながら火を起こそうとせず、少年たちは声を潜めていた。
セリーヌだけが香炉に火を入れ、煙を立てていた。
「名は奪われません。祈りが続く限り」
その声に私は小さく笑った。
「祈りは大事。でも、この街では祈りも売り物になる」
◇◇◇
夜半。
窓の外から笛の音がした。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
――三刻。
私は身を起こし、窓を開けた。
路地の影に、黒外套の人影が立っていた。
銀の笛が月光を反射する。
影は手を上げ、紙片を投げ入れてきた。
拾い上げると、そこには短い文。
――“署名するな。名は海と共に。銅貨よりも強い”。
銀笛の同盟からの“警告”。
彼らは敵か味方か。
港を揺らす者たちが、今度は都市の陰謀を止めようとしている。
私は紙を握りしめ、決意を固めた。
名を奪わせはしない。
航路は、白い航跡と同じ。
血ではなく、名前で守る。
◇◇◇
翌朝。
再び会館へ。
契約書が机に置かれ、商会の長たちが待っていた。
私は深く息を吸い込み、言った。
「私は署名しません。資金を拒んでも構いません。――航路の名は、私たちのものです」
会館にざわめきが広がった。
代表の笑みが、初めて消えた。
「愚かだ。名を持たぬ航路は、存在しないのと同じ」
「だからこそ。名は、奪われるものではなく、呼ばれるもの。――呼ぶのは、民です」
私は振り返り、扉の外を示した。
そこには、少年たちが集めた市場の人々が立っていた。
彼らは口々に歌った。
「火は消えない、白い線――」
歌声が会館に流れ込み、契約書の黒いインクを薄めるように響いた。
商会の長たちは顔をしかめた。
だが、彼らも知っていた。
名を決めるのは、契約書よりも人の舌だ。
◇◇◇
交渉は決裂した。
だが、私は誇りを守った。
帰り道、セリーヌがそっと微笑んだ。
「あなたの航路は、歌に守られています。契約書よりも、強く」
私は頷いた。
銀笛の同盟も、都市の商会も、王都の権力も。
すべては名を奪おうとする。
だからこそ、私は名を呼ばせ続ける。
〈ホワイト・ウェイク〉。
その名を、民の舌に、星の下に、航路の先に。




