第7話 港に潜む影――“銀笛の同盟”
港は、いつもより静かだった。
船大工の槌音も、荷車の軋みも、魚を焼く屋台の呼び声も、すべてが遠慮がちに鳴っているように思えた。
〈ホワイト・ウェイク〉の舷側には、白布に青い文字がいまだ結ばれている。――“灯台は名を呼ぶ。呼ばせ続けよ”。
風に揺れるたび、布は帆の一部のようにひらめいた。
私は甲板から埠頭を見下ろし、人混みの奥に潜む視線を探していた。
あの銀笛の影。
灯台の下で一音を吹き、半刻を示した者。
あれは警告だったのか、挑発だったのか。
「船長」
背後でユーグが声をかけた。
「港の酒場に、妙な噂が流れてる。――“銀笛を吹く者たちが同盟を結んだ”って」
「銀笛の同盟……」
「港の裏稼業、商会の影、王都の一部の役人。立場の違う連中が、一つの符号で繋がってるらしい」
ユーグの表情は険しい。
「符号が笛だ。半刻を意味する音色を合図に、互いの動きを調整してる」
私は拳を握った。
“半刻の空白”を突く連中が、影で組織を作っている。
それは偶然じゃない。
航路そのものを揺さぶる意思だ。
◇◇◇
港の一角にある小さな酒場。
ロザンヌの手配で、私と彼女、そしてミレイと少年シアの四人は、裏口から入った。
昼間の酒場は薄暗く、床板に塩と油の匂いが染み付いている。
客はまばらで、酔客よりも“待っている者”の気配が濃かった。
「こっちです」
店の奥から低い声がした。
現れたのは、かつて海賊をしていたという噂のある男――エルミオだった。
頬に古傷があり、片目は潰れている。
だが声は澄んでいた。
「銀笛の同盟に興味があるのか」
「興味じゃない」
私は即座に返した。
「彼らは私の航路を脅かしている。――情報を」
エルミオは笑った。
「女が港を歩く時代になったとは。だが、まあいい。笛の同盟は確かに存在する。港の荷の流れを操作し、商会の相場を弄り、時には灯台の番に小銭を握らせる」
ロザンヌが目を細めた。
「買収の証拠は?」
「証拠は残さない。だが合図は残る。――笛だ。短く吹けば“半刻”。二音なら“一刻”。音の数で時刻や相場を示す」
私は息を呑んだ。
航路を決めるものは星と風だけではない。
“人の合図”が、もう一つの潮流を作っている。
◇◇◇
その夜、港を歩いた。
ユーグと少年三人を影に散らし、私はセリーヌを伴って埠頭に立った。
夜の潮風が衣を冷やし、波の音が足元に迫る。
遠くで、かすかな笛の音がした。
ひとつ。
ふたつ。
間を置いて、またひとつ。
「……一刻半」
エルドが暗闇から呟いた。
「奴らの合図だ」
私は耳を澄ました。
音は波に乗り、街に散る。
笛を吹くのは一人ではない。
あちこちで音が重なり、港全体が見えない網で覆われているようだった。
「同盟は、港を地図のように扱ってる」
私は言った。
「笛の音で、人と貨物を動かしてる。……これは航路そのものを盗む仕組み」
セリーヌが香炉を抱きしめ、煙を吐かせた。
「煙もまた、風に乗れば合図になります。……けれど笛と違って、匂いは誤魔化せない」
その言葉に、私は閃いた。
「匂い……そうだ。笛に対抗するには、別の“合図”を使えばいい。私たち自身の“航路の言葉”を」
◇◇◇
翌日。
〈ホワイト・ウェイク〉の甲板で、私は仲間を集めた。
「銀笛の同盟は、合図で港を支配している。なら、私たちは別の合図を広げる」
「別の合図?」
少年たちが首を傾げる。
「煙、塩、そして歌だ」
私は答えた。
「煙は港に流れる。塩は舌に残る。歌は耳に残る。笛に対抗するには、彼らの“耳”より速く“心”に届くものを使う」
ミレイが笑った。
「歌なら、子どもでも覚えられるね」
「覚えさせる。市場で、港で、船で。――“航路の歌”を」
私は胸に手を置き、言葉を続けた。
「銀笛の同盟が半刻をずらすなら、私たちは歌で“正しい時”を刻む。灯台の火と同じように、歌で航路を結ぶ」
ロザンヌが珍しく口元をほころばせた。
「記録に残らない合図。だが、民の舌に残る。……賢いわ」
◇◇◇
夜。
港の広場で、少年たちが歌った。
シアが声を張り、タバルが手を叩き、リースが笛ではなく木片を叩いて拍子を取る。
歌は単純だった。
「火は消えない、白い線。半刻過ぎても、白い線」
人々が笑いながら耳に入れ、口ずさむ。
商人が真似し、子どもが遊び歌に変え、やがて酒場の酔客が合唱する。
笛の音は、その夜も鳴っていた。
けれど歌声が重なるたび、笛の合図は薄れた。
港の空気が少しずつ変わっていく。
私は広場の端で見守りながら、胸の奥で舵輪を握る感覚を確かめていた。
航路は、海だけで決まらない。
人の心で決まる。
「銀笛の同盟よ。――半刻ずらすなら、私たちは歌で戻す」
灯台の火が遠くで瞬き、歌声と重なった。
白い航跡は、まだ消えていなかった。




