SS「舷側に片足」――ユーグ視点
夜明け前の海は、刃みたいに薄い。
見張り番を交代して、俺はいつもの場所――右舷の縁に片足をかけた。甲板の木が、体重を覚えている。乗るたびに、船が少しだけ人間に寄ってくるのがわかる。
ロープの端を撚り直していたシアが顔を上げた。
「ユーグさん、なんでいつも片足だけ乗せるの?」
「全部のせると、落ちるときに戻れねえ」
「じゃあ、怖いから?」
「違う。戻る道を残すのは、前に出るための癖だ」
子どもには難しかったかもしれない。けど、いつか分かる。
断罪の夜、彼女が舵を選んだとき、俺は見ていた。城壁の影で、剣の柄を握り直して、ひと呼吸置いて、それから足を出した。あれからずっと、俺の仕事は同じだ。彼女が角度を決める。俺は、倒れかけた舵にあと半分の余裕を作る。
東が白む。
ミレイの鍋が最初の息を吐き、エルドが星筒を畳む。ロザンヌは手帳を閉じ、かわりに空の匂いを鼻で読む。セリーヌは火種を揺らさない手つきで、香炉の蓋を少し開けた。甲板は、それぞれの習慣で明るくなる。
風が一段上がった。
〈ホワイト・ウェイク〉は機嫌が良い。帆の腹がふくらみ、舳先が新しい線を欲しがっている。
彼女――アリアナが舵輪に手を置き、短く言う。「半目盛り、右」
俺は「了解」とだけ返し、舷側の足に力を移した。船が柔らかく曲がる。白い航跡が、昨日より少しだけ太い。
ふと、あの問いを思い出す。
“同じ地図を作ってくれる?”
返事は次の帰還で、と言った。時間を置いたのは、臆病だからじゃない。約束に角度をつけるには、海の線がいくつか要る。
宝物箱代わりの帆布袋から、薄い布切れを取り出す。縁に針を通して、短い字を縫う。
――地図は二人で。
縫い目は不揃いだが、船は笑わない。帆柱の影にそれを結んで、誰にも気づかれないよう舵輪のスポークへ片結びする。解こうと思えばすぐ解ける結び。けど、意志がないと解けない結び。
突然、突風。
少年たちの足がもつれ、鍋の蓋が鳴った。彼女の肩がわずかに傾く。
俺は舷側から重さを送り、舵の向こうへ“あと半分”を足す。倒れかけた線が立ち上がり、船は風を呑み込んだ。
彼女が振り返り、目だけで笑う。言葉はいらない。こういう時は特に。
歌が小さく始まる。
「火は消えない、白い線――」
港で生まれて、海で育った歌だ。名は呼ばれ、火は続く。半刻は、もう売り物じゃない。守る側の合図になった。
「なあ、ユーグさん」シアがまた訊く。「ぼくも、片足で立てるようになる?」
「なるさ」
「いつ?」
「誰かを前に出したいって思った日」
子どもは満足そうに頷き、結び目を増やしに走っていった。
俺は舷側の足をそのままに、空を仰ぐ。雲の切れ目に、薄い月が残っている。昼に消えるとしても、今は確かだ。
彼女の声が飛ぶ。「次の潮目、入り口は白泡三つの左」
「見えた」
俺は答え、いつも通り、舷側に片足を。
戻る道は残した。だから、前へ行ける。
返事はもう決まっている。文字にすると軽くなるから、今はまだ縫い付けたままでいい。
――地図は二人で。
舷側に片足。それが、俺の“はい”だ。




