第11話 影の市場――“名を競り落とす夜”
王都の夜は、昼よりも騒がしい。
表通りでは酒場の歌声と楽団の音が重なり、裏路地では荷車がきしむ。
だが、さらにその奥――城下町の影に、もう一つの市場があるという噂があった。
そこでは、金貨でも宝石でもなく、“名”が取引される。
私たちはその噂を追っていた。
銀笛の音に導かれるように。
◇◇◇
案内役を買って出たのは、エルミオだった。
片目を潰された元海賊は、夜の路地を知り尽くしている。
「静かに歩け。あそこの石畳を踏むと音が響く。あの窓は見張りだ」
低い声で注意を飛ばしながら、彼は迷路のような路地を進む。
やがて、古い倉庫にたどり着いた。
錆びた扉をくぐると、中は広場のように開けていた。
松明が壁にかけられ、中央には円形の壇。
壇の上に羊皮紙が積まれ、周囲には覆面の商人たちが座っていた。
「――影の市場」
ロザンヌが低く呟いた。
「記録に残らない“名”の競売場。……本当に存在したのね」
◇◇◇
鐘が鳴り、競りが始まった。
「まずは東方の港の名だ! “紅の入江”と呼ばれる場所――」
競売人が叫び、商人たちが次々と札を掲げる。
名が値段で競り落とされていく。
名を得た者は、それを広め、やがて歴史に刻む。
名を失った者は、地図から消える。
私は息を詰めて見ていた。
航路とは、海を渡る線だけではない。
人の舌に乗る“名”が、本当の線を描くのだ。
◇◇◇
次に壇に載せられた羊皮紙を見て、私は凍りついた。
――“ホワイト・ウェイク”。
「……!」
ユーグが剣に手をかけた。
ミレイが鍋の蓋を握り、少年たちが声を押し殺した。
壇上の競売人が高らかに叫ぶ。
「新航路の名、“ホワイト・ウェイク”! 出資者不在のため、公開競売に付す!」
ざわめきが広がる。
覆面の商人たちが一斉に札を掲げた。
名が――奪われようとしていた。
◇◇◇
私は立ち上がり、声を張った。
「待って!」
会場が静まる。
覆面の視線が一斉に私に注がれる。
心臓が高鳴った。だが、怯むわけにはいかない。
「その名は、私たちの航路です。勝手に競売にかけることは許さない!」
競売人はにやりと笑った。
「では金貨を積め。名は金で守るものだ」
「名は金で守らない。――呼ぶことで守る!」
私は振り返り、少年たちに合図した。
シアが最初に声を張り上げる。
「火は消えない、白い線!」
タバルが続き、リースが拍子を取る。
歌声が倉庫に響いた。
観衆がざわめき、覆面の何人かが顔をしかめる。
だが中には、思わず口ずさむ者もいた。
歌は伝染する。
契約書よりも速く、金貨よりも強く。
◇◇◇
競売人が怒声を上げる。
「衛兵を呼べ!」
だがその瞬間、倉庫の奥から笛の音が響いた。
短く、ひとつ。
ふたつ。
――銀笛の同盟。
黒外套の影が現れ、覆面の商人たちを牽制する。
「その名は競売にかけられない」
低い声が響いた。
「“ホワイト・ウェイク”はすでに呼ばれている。歌によって」
会場が混乱に包まれる。
覆面の商人たちは退き、競売は中断された。
◇◇◇
倉庫を出ると、冷たい夜風が頬を打った。
私は大きく息を吐き、舵を握るように拳を握った。
「……助けられた?」
ユーグが呟く。
「銀笛の同盟は敵か味方か、まだ分からない」
私は答えた。
「けれど、確かに“名を奪う市場”を潰した。……それだけで十分」
遠くで鐘が鳴った。
王都の夜は深い。
だが、白い航跡はまだ続いている。
◇◇◇
宿に戻ると、ロザンヌが静かに記録を閉じた。
「これで確信しました。半刻を操る者は、王都の奥と市場の影を両方持つ勢力。……つまり、名と時間を同時に操る者」
「名と時間……」
私は呟いた。
「それが分かれば、正体に近づける」
窓の外、月が雲に隠れた。
銀笛の音が、またひとつ響いた。
それは脅威であり、同時に導きでもあった。
名を呼ばせ続ける限り、航路は奪われない。
私は心の奥で舵を握り直した。




