第五話 苦情
マチルダは学園に着くと、化粧室へ向かい、ハンドサインを作る。
「おタイム」
その一言で周囲のざわめきは消え、時が止まったことが分かった。マチルダは警戒しながらあの悪漢の登場を待ったが、彼の姿は見当たらない。
(おかしいわね。昨日は瞬時に来てくれたのに)
きょろきょろしながら、化粧室内を探索し、マチルダが入り口のドアを開けた時だった。
ドアの外に悪漢が腕を組んで立っていた。
「『お』は付けんでよろ……うぉっ⁉」
男はマチルダの右ストレートをすれすれで躱し、後ろへ退いた。
「今度は一体なんなんだ⁉」
「なぜ、化粧室の前に?」
「昨日は化粧室に入ったら暴行を受けたからな。今度は入らずにいたんだ。それなのに娘、なぜ拳を振るう?」
「入り口に張り付かれたら、それはそれでイヤ」
「我儘かっ! おぬしが別の場所を選べば良いだろう!」
「化粧室の方がソファもテーブルもあって、ちょうどいいのです。それに今は人もいませんしね」
マチルダはそう言うと、ソファに座り、男を隣に招いた。
「それで、今度は何の用だ? 昨日のように、お試しで時を止めたのではあるまい?」
男はどかりとソファに腰を下ろすと偉そうに足を組んで、頬杖をついた。
「用も何もなんですか、これは⁉ ストレージ」
自分の手に収まった本をテーブルに叩きつけるように置くと、男はそれを一瞥してマチルダへ視線を戻す。
「昨日、我がおぬしに与えた攻略本だが?」
「攻略本だが? じゃありません! このプライバシーもへったくれもない本は、一体何を徹底攻略するつもりで作った本なのですか⁉」
「うむ、よくぞ聞いてくれた!」
男はテーブルに置かれた本を手に取り、学園の三年間の流れを記したページを開く。
「特異点であるリタ・ロバーツの話はしたな? その娘が運命の人と結ばれる道筋、未来を記したものだ」
「未来……予言書のようなものということですか?」
「そうだ。我は神だからな。三年くらいならば、この程度の未来観測など容易いこと。運命の男達を確実に射止める、男心を攻略すべく一冊にまとめたのだ!」
得意げに胸を張っているが、やっていることはプライベートの覗き見である。神にモラルを解いたところで意味はないのかもしれないが。
「おぬしには立派な当て馬を演じてもらわねばならぬからな。これをよく読み込んでおくといい」
「読み込んでおくって……こんなプライバシーの塊を?」
「いらぬなら、返してもらってもかまわんが?」
「と、とんでもないですわ!」
王宮の見取り図まで載っている本だ。いくらこの本の製作者とはいえ、渡すわけにはいかない。
(この本には殿下の個人情報も載っているはず! この変な男の手元に置いておくことなんてできません! いくら神と名乗っていようが……)
そう思った時、ふとこの男の名前を忘れていたことを思い出す。
「そういえば、貴方の名前は何だったかしら?」
以前、名前を聞いた時は覚える気がなかったが、いざという時に名前を覚えておいても損はないだろう。最悪の場合に備え、邪神として教会に突き出すために。
「前に名乗ったばかりなのにもう忘れたのか? ダンタリオンだ。この世界の学問と芸術を司る神、ダンタリオン」
世界のと自称しているわりには、聞いたことのない名前だ。誇張しているのだろうか。
「ダンタリオン」
訝しく思いながらもマチルダが名前を口にすると、彼は一瞬きょとんとした後、満足げに頷く。
「うむ。我の事は、愛と親しみと込めてダニーと呼ぶがよい」
「神のくせに気安過ぎませんこと? 馴れ馴れしいですわ」
「おぬしはもっと、我に歩み寄れ!」
ダンタリオンは「まったく」と足を組み直し、苛立った様子で肘置きを小突いた。
「我とおぬしは、いわば協力関係のようなものだ。もう少し我に親しみを持ってもよかろう!」
「残念だけど、貴族の間では、家族や恋人、親しい柄でなければ愛称では呼び合いませんの。貴方のことは、ダンタリオンで十分ですわ」
「我が名を十分とはなんだ十分とは! チッ、もう用がないのなら、我は帰るからな!」
「あ、ちょっと!」
ダンタリオンはひどく憤慨した様子で立ち上がると、指をぱちんと弾いて姿を消した。
呆然と彼がいなくなった空間を見つめながら、マチルダは頬を掻く。
「邪魔をする方法を聞きそびれましたわ……」
また呼び出した時にでも聞けばいいだろうと自分に言い聞かせ、テーブルに置かれた攻略本を睨みつけた。
正直、あまり攻略本には頼りたくないが、彼女の恋を成就させるため、マチルダは、ひとまずリタのことを知ることから始めた。
◇
リタ・ロバーツ。
緩く波立つピンクブロンドの髪に、晴れた日の空のような瞳、顔立ちは美しいというよりも愛らしい印象がある少女。
実家はあまり裕福ではなく、父親は物心がつく前に他界。片手ほどの年齢頃から母親の仕事を手伝って働いていた。
ところがある日、母親が病死する。天涯孤独となった彼女だが、道端に倒れていた老人を助け、偶然にもそれが男爵位を持つ貴族であった。
助けられた老人は彼女をいたく気に入り、養女にしようとした。しかし、親を失って間もないリタは、出会ったばかりの老人を家族とは思うことができなかった。そこで彼女は、屋敷に住み込みで働かせてもらい、教養を身に付けさせてもらえるように頼んだのである。
彼女は幼いながらにも、親がいない子どもは教養がなければ、ロクな働き口をもらえないことを知っていたからだ。
屋敷の使用人として働くようになり、しばらくして老人は自身の生い先が短いことを気にし、自分が亡くなった後のリタのことを考え、ケテルマルクス学園への入学を後押しする。
ここでリタの偉い所は、彼女がただ老人の支援を受けるだけでなく、学費が免除された特待生の受験を決めたことだ。
元々地頭が良かったのもあったのか、彼女の努力は実り、見事特待生として入学。それも頭脳明晰と持て囃された第一王子、セオドアの成績を抜き、首席合格を果たしたのである。
「まるで物語の登場人物みたいですわ……」
攻略本に書かれた主人公紹介もとい、リタのプロフィールを読んだマチルダは、感嘆としたため息を漏らした。
ダンタリオンが帰った後もまだ時は止まっていた為、良くないことだと思いながらも、マチルダは攻略本を手に取ったのである。
「苦労なさっていたのね……」
当初の目的はより良い働き口を探し、養育してくれた老人に恩返しをするため。成績が良ければ王宮の侍女や文官になれるかもしれないと思っていたようだ。
そして、この学園で運命の人に出会い、新たなきっかけを得た彼女は未来で大躍進を遂げるというわけである。
(物事にはきっかけだなんだってダンタリオンが言っていましたけど、こう見ると本当に道筋があるのですね……)
マチルダは攻略本を片付けると、時を戻すべくハンドサインを作り「プレイ」を唱えるのだった。