ヒロインが死んだ日
誤字脱字報告ありがとうございます。反映されるまでそこそこ時間がかかると思いますのでそれまでは脳内で補完しつつお待ちください。誤字脱字との悪縁は中々切れませんなぁ……(´・ω・`)
修道院にて過ごしていたレイチェルに一通の手紙が届いた。
それは王都で暮らす母からの手紙だった。
レイチェルは公爵家の娘だった。
王子と婚約をしていたけれど、しかし王子が真実の愛を見つけたといい、そしてその真実の愛である相手をレイチェルが嫉妬から虐めたのだと婚約破棄を突きつけてきたのだ。
レイチェルにとって、それは寝耳に水であった。
王子とは政略結婚で、愛があったか、と問われると無かったとレイチェルは答える。
王子本人に対してなんとも思っていなかったわけではないけれど、あったとしても友情だとか、将来共に国を支えていく戦友のような、そんな情でしかなかったのだ。
だからこそ、もし王子が誰かを本当に好きになったのだとして。
そうであったなら、相手が王妃として相応しいのならレイチェルは快くその立場を譲るつもりであったし、王妃としては無理でも側妃、はたまた愛妾であろうとも。
それでも構わないと思っていた。
王子が真実の愛だと宣言したのは、身分の低い娘だった。
愛妾であればどうにか……というような娘だった。
だが、その娘を王子は妃にすると頑なであった。
娘もまた、それがどれだけいばらの道であろうとも、と愛する人となら乗り越えられるとのたまった。
二人がそこまで決意をしていたのなら、とレイチェルはやっていない虐めに関しては謝罪をする必要がなかったので謝らなかったが、大勢の前で断罪と婚約破棄を突きつけられたのもあって、新たにマトモな結婚をしようにも無理だろうと思い修道院でのんびり暮らす事を選んだのである。
不出来な娘で申し訳ございません、と両親に謝罪すれば、両親はそんな事はないと慰めてくれた。
むしろ今まで苦労をかけたとすら言われてしまった。
恋に溺れる以前の王子との関係はともかく、恋に溺れた後の王子とは確かに苦労した。
こんな人だったかしら……? と思う程度には。
本来王子がやるべき公務までこちらがやる羽目になったし、本当に苦労した。
だが、もうそんなことはしなくてもいいのだ、となれば傷物令嬢だの悪役令嬢だのといった言葉はむしろどうでもよくて、それどころか肩の荷が下りた気分だった。
幸いレイチェルには年が少し離れた弟がいたので、公爵家の跡を継ぐ者に関しては問題ない。
だからこそ、レイチェルは王子と娘の事を祝福した上で王都から離れた修道院に身を寄せたのだ。
愛だけでどうにかなるのなら、それは本当に素晴らしい事ね。
どんな困難も乗り越えてみせるというのなら、是非とも頑張っていただきたいわ。
割と本心からレイチェルはそう思っていた。
王都で過ごす母からの手紙は定期的に修道院に届けられた。
茶会、夜会といった社交の場から聞こえてくる噂話。
父から聞いた城の様子。
そんなものが定期的に纏められてくる。
今回もそうだろうと思ったレイチェルはいつものように手紙を開封し、そうして目を通す。
「あら、死んだの。そう」
そして一言、読み終わった感想は自然と口からこぼれていた。
王子の真実の愛、平民だった娘。名を確か……マリーと言ったか。
どうやら彼女は死んだらしい。
それも、城の一室で首を吊って。
母はその場にいたわけでもなく、聞こえてきた噂を集めて恐らくは……といった程度にしか事情を知らない。
まぁ当然だろう。
こんな内容、事細かに知れるはずもない。
身分を超えての大恋愛、嫉妬に狂った悪女の妨害を乗り越えて、だとか演劇の題目にもなっていたはずのそれは、しかしラストは随分と呆気ないものだった。
そもそも公爵家の生まれであるレイチェルであっても、次期王妃とするにはいかがなものか……なんて陰でコソコソ言われる事はあったのだ。
能力的に不足している、というわけではない。
だが、それでもあわよくばその立場を狙う者はいた。
そういった相手は能力に難があるのでは、だとか、より美しい相手を王妃に据えるべきでは、だとか、何かを勘違いした言動が見受けられた。
だがそういった相手は大抵身分も能力も外見も、全てでなくともどれかは劣っている。
当然だ、完璧な存在などいるはずがない。
いかに完璧な令嬢だと持て囃されたレイチェルであっても、自分を完璧だなどと思った事などないのだから。
王子の婚約者として、将来の王妃として、候補として挙げられた中で、とりあえずレイチェルが一番マシだったから選ばれたに過ぎない。
だが、レイチェルよりも明らかに能力も才能も身分も血筋も何もかもが劣った、ただ王子が愛を捧げるだけの、そして自らも王子を愛しているだけの、取り柄と言えばそれくらいしかない女が王妃の座に、などと。
そんな連中がそれを良しとするはずがないのだ。
皆が皆、祝福するわけがない。
レイチェルは肩の荷が下りた、という気持ちもあっておめでとうございますと素直に祝福したけれど、周囲は違う。
表向き確かに真実の愛とは素晴らしいですね、なんて王子とマリーに向けて賛同するかのように言っていたけれど、内心で何を思っていたのかなんてとてもわかりやすい。
レイチェルと違って追い落とすのに苦労しそうにない相手だ。
自分は味方ですよという顔をして裏でいつでもマリーを引きずり落とせるように、こぞって待ち構えていたにすぎない。
あからさまにマリーと敵対するような言動をとれば、王子に泣きつかれないとも限らない。
だからこそ、周囲は殊更言動に気を使って、マリーの信頼を勝ち取った。
王子との恋愛に素敵と頬を染めて自分もそんな恋がしてみたいわ、なんて言ってマリーに憧れているかのような事を言って、二人の仲を否定はしない。
王妃としてこれから大変でしょう、困ったことがあったなら、いつでも相談に乗りますわ。
そんな風に言って、頼れる後ろ盾もないマリーの信用を得た。
だが、信じてはいけない相手を信じたならば。
待ち受けているのは地獄である。
平民がいきなり王妃になるなど、土台無理な話なのだ。
だからこそ、まずはどこかの貴族の家に養子としてマリーを迎え入れ、そこで貴族としてのマナーを学びつつ次の引受先を探す。
そうして徐々に身分を整えて、最終的に王子の妻として恥ずかしくないように……となるはずだった。
養子、といってもあちこちの貴族の家をたらい回しにするわけにもいかず、基本的に教育は城で行われていたようだけれど。
マリーの友人として、時に息抜きと称して茶会に誘った者たちの毒を、マリーは知らないうちに溜め込んだ。
優しい言葉で、柔らかな態度で。
だがもしマリーが生まれながらの高位貴族であったなら。
そこに明確な敵意が潜んでいた事に気付けただろう。
彼女らを信じてはならないと判断しただろう。そうして、やんわりと距離を取ったはずだ。
明確に敵対する意思を見せず、完全に関係を絶つでもない微妙なラインを見極めて、敵味方どちらとも言えない中立を保ったはずだ。
だがマリーにはそもそもそんな事、思いつきもしなかった。
だからこそ、知らないうちに徐々に心を蝕まれていったのかもしれない。
(いえ……)
しかしレイチェルは果たしてそうだろうか、と思い直す。
そもそも、レイチェルがやってもいない虐めとやらをやられたとのたまうような女だ。
ただ守られるだけの存在ではない。多少なりともしたたかさは持ち合わせている。
「であれば、気付いた……?」
もしそうなら、マリーはレイチェルが思っていたよりは少しだけ賢かったのかもしれない。
一見すればマリーの周囲は味方しかいないように見える。
見えるだけだ。実際は敵しかいない。
弱みを握っていつでも追い落とせるように。
彼女には王妃は荷が重いとして、我こそがと思う者たちはレイチェルが婚約者だった時以上にいるだろう。
あの手この手でレイチェルを追い落とそうとしていた者たちの思い通りにさせるつもりはなくて、レイチェルはそつなく対処していたけれど。
マリーが自分と同じようにできるはずがないのだ。
彼女は王子がいないと何もできない、と言われていた。事実である。
身分は平民。後ろ盾はない。
王子の庇護がなければ生きてはいけない。
そして王子は。
見た目だけはマリーに対して友好的な者たちの隠し潜ませた悪意に敏感に気付けるでもなく。
すっかり敵の真っ只中に愛するマリーを放り込んだも同然なのであった。
優しく見守り励ましてくれるはずの皆は、しかし少しずつ少しずつ優しさの中ににじませた毒をマリーに植え付けていった。
あんなに親切にしてもらっているのに、悪く受け取る自分が悪いのだわ、と思わせるように仕向けたに違いない。そういった方法を得意とする令嬢はいくらでもいた。
レイチェルと比べたら、赤子の手をひねるくらいに容易かっただろう。
みんな、自分たちを祝福してくれているはずなのに、この不安はなんだろう。
そんな風に思ったのかもしれない。
そうやってじわじわとマリーの精神は追い込まれていった。
そして、恐らくは気付いたのだろう。
本当の意味で祝福していたのは、レイチェルだけだったという事に。
当然だ。
マリーを取り囲む令嬢たちはあわよくばマリーを引きずりおろして自分が王妃の座に収まりたい者たちばかり。
マリーを本当の意味でお友達だと思っていたのは、きっと同じ平民の、マリーが王子と出会う以前から友であった者くらいだろう。
けれども王妃となるべき立場となってしまったマリーが、そう簡単に市井に足を運べるはずもない。
本当の意味でのお友達とは会えなくなって、その代わりに得たのはお友達の振りをしているだけの敵である。
態度こそ優しいけれど、本当の意味でマリーの助けになる存在ではない。
王妃として、人前に出ても恥ずかしくない程度にはマナーを学ばねばならない。
しかし、今までそんなものとは無縁だったマリーがすぐにそれらを習得できるはずもない。
そして本来マリーを守るべき王子は、今までレイチェルに押し付けていた仕事が自分のところに戻って来たので、それらを片付けなければ叱られるのが目に見えている。
部下の目をごまかすにしても、両親である国王と王妃に仕事をしていないと知られれば、ただでさえ強引にレイチェルとの婚約を破棄したのだから、これ以上は本当に王子の立場も危うくなる。
レイチェルが素直に身を引いたからかろうじて王子の立場はまだギリギリあるけれど、もしあの場でレイチェルが婚約破棄に対して異議ありと伝えていたならば、王子の立場はもっと悪くなっていた。
当面は王妃として使い物にならない相手の分も仕事をしなければならない王子に、マリーと関わる余裕はない。
時間は有限で、王子だからとて二倍与えられるとかではない。一日の時間は誰であっても平等に同じ時間しかない。そこに自由にできる時間があるかどうかの違いはあれど。
自分が選んだ結果とはいえ、今までサボっていた分と、更に自分が選んだ真実の愛の相手の分も公務をしなければならないとなれば、元は優秀だった王子とはいえサボり癖がついた今となってはさぞ大変だろう。
そして王子がマリーと中々会えないなんて、マリーの周囲にいる者たちからは簡単に察する事ができる。
好きなだけ甚振れるようなものだ。勿論直接的に暴力をふるったりはしないだろうけれど、ネチネチと相手の落ち度を指摘して、じわじわとマリーに自分は王妃に向いていないのだと思い込ませるくらいはできるだろう。
いくら愛があれば乗り越えられるなんて言ったところで、乗り越えるまでの道のりが大変であればあるだけ、できないうちはネガティブになったりもするだろう。そうした心の不安定な部分を崩されるような事になれば、上手く立て直せないとなれば後はもう相手の思う壷である。
それに、何もマリーの事を疎んでいるのは周囲にいる王妃狙いの令嬢ばかりではない。
国王だって王妃だって彼女の事を疎んでいる。ただそれを表に出していないだけで。
王妃として相応しくなるまでに、果たしてどれくらいの年月がかかるかを考えるだけでも頭の痛い事だろう。
しかも後ろ盾も何もあったものではない女。段階を踏んで貴族の家に養子として名前だけでも、とするにしたって、それだってすんなりとはいかないだろう。
真実の愛だ身分を超えた愛だなどと持て囃したところで、結局のところ王子は婚約者がいながら別の女に現を抜かした事に変わりはないし、マリーだって王族を無下にできるはずもないとはいえ、それでも婚約者がいる相手を奪ったようなものだ。
その気になればレイチェルは家の力を使ってマリーの存在を亡き者にすることなど容易だというのに、どう考えてもレイチェルが考えもしないような虐めをでっちあげてくる始末。
マトモな貴族なら気付いている。
こんなのを家に養子として名前だけでも貸してくれ、と言われたところで、一歩間違ったらとんでもない事になりかねない。
改めて書類を作り契約として家名を名乗ることを許したとしても、マリーが何かした場合の責任はうちでは負わない、だとかしておかないと、下手をすれば家が取り潰しになる可能性だってあるのだから。
マリーは決して何も考えていない頭の中身がお花畑ではなかった。
こちらが思っていたよりは多少、現実を見ていただろうし、考える頭も持っていた。
そんな彼女が、気付いた時には身の回りに敵しかいない事を知った時、果たしてどうしただろうか。
抗おうとはしただろう。
だが、実力で黙らせるにもその実力が足りず、気持ちだけは負けないと固く誓っていたとしても、現実は無常である。
やんわりと己の不作法を指摘され、これから覚えていけばよいのです、とさも許されているような事を言われているがその裏では明らかに笑いものにされているだろうことが窺える状況で。
仮に、ここでレイチェルにしたようにやられてもいない虐めをされていると王子に泣きついたとしても。
レイチェルと異なり既にマリーと王子の事を認めた振りをしている周囲の令嬢たちがマリーを陥れる理由は少なくともないように思える。
嫉妬しているのだ、とマリーが王子に訴えたとしても、しかし令嬢たちは皆で口を揃えるだろう。
マリー様が王妃となるのなら、これ以上恥をかかないように貴族としての常識を教えただけです、と。
わたくしたちは少しでも早く王子とマリー様が結ばれるその時を待っているのですから、と祝福しているように装えば王子が疑う事はない。
集団でマリーを陥れようとしている、だとか考えるにしても連日の忙しさで面倒を避けようとすれば、きっとその言葉をいともあっさりと信じるだろう。
マリーにつけた世話係や護衛の証言からも、間違いなくマリーは虐められてなどいないと言われるだろうし、そうなればマリーの立場は知らず悪くなっていく。
レイチェルの時と違って、令嬢たちには明確にマリーを傷つける理由がないとされる。
マリーにできるのは、少しでも早く貴族としての立ち居振る舞いを覚えて周囲に何一つ文句を言わせない完璧な淑女になる事――だけれど、そう簡単にできるはずもない。
レイチェルは幼い頃から公爵令嬢として躾けられてきた。それ故に王族として必須のマナーを覚える事は然程困らなかったが、マリーは違う。低位貴族としての振る舞いですら覚えるのは大変だろう。
一日二日頑張ったくらいで周囲を見直せる程簡単な話ではない。
だからこそ、周囲の令嬢も一気にケリをつけてしまおうと思わずじわじわと追い詰めているのだ。
それはまるで猫がネズミを追い詰めるかのように。
本当の意味でマリーの味方でいるのは王子だけ。
国王も王妃も、表向きはともかく本心ではマリーの事などこれっぽっちも良くは思っていないだろう。
大っぴらに罪人扱いして処分したら、王子が面倒な事になるのがわかっているから仕方なく、といったところか。相変わらずあのお二人は我が子に甘い。
味方である王子と共にいる間はマリーにとっても平穏が訪れているけれど、しかし一緒にいる事がそもそも難しい状況で。
もう一人、マリーを敵とみていなかった相手はマリーが自ら遠ざける形となってしまった。
助けを求めようにも自分が陥れたも同然の公爵令嬢は、王都から離れた修道院で過ごしている。
マリーは見誤ったのだ。
敵を。
レイチェルを追い落とせばそれで万事解決だと思ったのだろう。
まぁそうだ。王子の婚約者だった女。王子と結ばれたいマリーからすれば、確かに一番邪魔な存在でしかない。
けれど、その女がいなくなった後、味方の振りをして自分の近くにいる令嬢たちこそが、厄介で面倒な敵であるなどと。
マリーは思ってもいなかったに違いない。
そして結果として、もうマトモに身動きもできないくらいに敵で周りが固められてしまった。
もし、レイチェルを王妃として自分が愛妾といった立場に収まっていたのなら。
そういった面倒な相手はレイチェルが何とかしていたかもしれない。
女の嫌な部分など、普段男性に見せない部分を王子に理解しろとは難しい話で。
それ故に、こうしてマリーは助けを望んでも望めない状況に陥った。
精神的にじわじわと追い詰められる程度で済んで、直接毒を盛られただとか、怪我をするように仕向けられただとかはされていないけれど、それだって時間の問題だったかもしれない。
直接敵意を向けなくとも、不幸な事故はどこにだって転がっている。
難しいなりに貴族としての常識を学んでいくうちに、きっと気付いたのだ。
王子と結ばれて結婚して、王妃となって幸せになれるのだと思っていた。
だがしかし、物語のようにはいかない事を。
自分の周囲には味方の振りをしただけの敵ばかりで、王妃になってもきっとそれらが減る事はない。
四六時中、気を張っておかなければならないことを。
弱みなど見せるべきではなかったのに、最初にすっかり騙されてこれからきちんとやっていけるか不安だわ……なんて色々な弱みを複数の令嬢に晒してしまったのだ。
今からでも王妃となる事を諦めて城から出て元の平民として過ごそうにも、王都ではもう王子とマリーの事はすっかり知れ渡っている。身分を超えた大恋愛。平民たちの希望の星。
そんなマリーが、お妃さまになるのをやめたの、なんて言って元の生活に戻れるはずはない。
どうしてと周囲は聞くだろう。
愛する人と結ばれるために頑張るのではなかったのか、と言われるだろう。
王妃教育が辛くて、などと零せるはずもないし、周囲がいかに敵ばかりだったかを説明しようとしたところで、令嬢たちは表面上、マリーに対して友好的だった。
貴方が悪く受け取りすぎよ、なんて言われるのが目に見える程に。
そうなれば、真実の愛だなんだと騒いでいたそれが、所詮は口先だけだったと思われて、きっと平民の中に戻ってもマリーの居場所はなかっただろう。
それどころか王家の婚約に横やりを入れたのだ。
その上でやっぱりやめます、などと言えば、その時点で王子はともかく国王か王妃が間違いなく。
マリーの事を処分していたに違いない。
マリーの事を誰も知らない国に行けば、もしかしたら平和に過ごせたかもしれない。
けれどもマリーにそんな伝手はない。
そっと城を抜け出そうにもマリーには護衛がついているし、その護衛に涙ながらに訴えて逃がしてもらおうとしたとして。
恐らくは無理だ。
護衛はマリーにとってもわかりやすいところにいてくれるけれど、マリーが気付かぬよう王家の影もついている。
同情心で護衛をこちら側に引き入れたとして、王家の影は無理だろう。
亡命する前に、不幸な事故でマリーの命は失われる。
王家の影についてマリーが理解できているかどうかはわからないけれど、逃げるそぶりを見せればその時点でマリーの命は危ないし、王妃としての教育を受けるためにまず貴族として学んでいる現状、令嬢たちという敵をどうにかしないといけない。
だがしかし、そのどうにかする手段はマリーにはない。
王子に訴えたところで王子は間違いなく役に立たない。
ここまで見事に詰んだ状態になるなど、マリーとてきっと想像すらしていなかっただろう。
一番の敵とみなしていたレイチェルに助けを求めようにも、間違いなくそれは王子が難色を示すし令嬢たちも阻止するに違いない。
それ以前に、レイチェルはマリーと王子の事を応援はするけれど助ける義理まではないと思っている。
折角、王家や周囲の面倒ごととすっぱり縁を切ったのに何が悲しゅうてあの渦中に再び身を置かねばならぬのか。
ともあれ、すっかり敵で周囲を固められどうにもならなくなったマリーが解放されるには。
もう命を絶つしか方法はなかったのだろう。
遺書らしきものもあったと母の手紙には記されていた。そこに、レイチェルの名前があった事も。
一応、良心の呵責に苛まれる程度には善性を持ち得ていたのね、としかレイチェルは思わなかったけれど。
やってもいない虐めとやらの冤罪を吹っ掛けてきたのだから、もっとふてぶてしい相手だと思っていたのに。
むしろ王子を奪ってくれてありがとう、くらいの気持ちだったから、別に冤罪に関しては本当にどうでも良かったのだ。
もっと、図太かったなら。
首を吊らないで他の方法も考えたのかもしれないけれど。
中途半端に善人でなければ、悪女と呼ばれても平然とできるくらいのメンタルがあったなら。
開き直って自分の身の回りを改善できたかもしれない。
けれどもそこまでではなかった。
それ故に、現状どころか未来までをも行き詰って、そうして死に逃げたのだ。
気持ちはわからないでもない。
自分の周りが全部敵、となればレイチェルだって辛いし苦しいと思うだろうから。
レイチェルは幼い頃からそういうのを分かった上での事だったけれど、マリーは何もわかっていなかった。わかった時には既に手遅れ、となればその絶望はレイチェルの比ではないだろう。
母からの手紙を丁寧に折りたたんで封筒の中に戻す。
「さて、それではわたくしもそろそろ準備をしないと……」
マリーが死んだとなれば、真実の愛は悲劇的な内容に変更されて、そうして次なる王妃は誰になるのかという方向へ話題は移っていくだろう。
マリーを追いやって自分こそがと狙っていた令嬢たちにとってはまさしく願っていたチャンス到来ではあるけれど。
王妃となるための教育にかける時間は恐らくそこまで残されていない。それ故にできるだけ優秀な者を、となるだろう。
マリーの周囲に侍っていた令嬢たちの中から選ばれたところで、恐らくは国王も王妃も合格点を出さない気がしている。となれば、最悪自分が呼び戻されるかもしれない。というかそうなるだろうなとは思っていた。こうして修道院でのんびりできているのがその証拠でもある。
とはいえ、それでも。
冗談ではなかった。
折角そういった生活から解放されたのだ。
また戻るなど一体どんな嫌がらせだ。
だが、実のところこうなるのではないかなぁ……という予想はしていないわけではなかったのだ。
故にいつでもここを出ていける準備だけはしてあった。
そして母からの手紙で今がその時だと知る。
戻るのではない。
この国を出るための準備である。
仮に王家から戻ってこいという手紙が届いたとして、戻る途中で不幸な事故に遭って公爵令嬢レイチェルは死を遂げる予定となっている。
実際は他の国で生活しているだろうけれど。
だがレイチェルはそれでいいと思っている。
かつて、一度だけ。
レイチェルはマリーと出会った。
その時に言われた悪役令嬢、という言葉。
あの時は一体何を言っているのか、と思っていた。
わけのわからない事を言う方、と不思議に思った。
けれど、あの後。
王子とマリーが親しくなり始めたあたりで。
レイチェルは思い出したのだ。
前世の記憶を。
そしてそこでマリーの言う悪役令嬢という意味を理解した。
平民と公爵令嬢が顔を合わせる機会などそもそもほとんどないと言ってもいい。
それに、王子にべたべたするような平民などレイチェルがその気になればいくらでも消しようはあるというのに、聞けば随分としょうもない虐めとやらをされているだの何だのと。
レイチェルはこの世界が一体どういうところかを知らない。
けれど、前世で似たような話はいくつか知っていた。
だからこそマリーの言っていた意味を遅ればせながら理解したのだ。
きっとマリーの中でレイチェルは真に悪役令嬢で、自分を虐めてその結果マリーと王子が結ばれる事になるはずだった。
レイチェルがマリーと出会ったのは、一度だけ。
教会に寄った時だけだ。
レイチェルは何度かその教会に足を運んだけれど、マリーと出会ったのはその一度だけ。
そして向こうがこちらを見て「悪役令嬢」とハッキリと口にしただけ。
もしかしたらマリーはここが何か――乙女ゲームだとか、はたまたそれに近しい小説や漫画といった媒体で知っていた世界なのかもしれない。だから、レイチェルを見て悪役令嬢だと口からこぼれたのだろう。
マリーがヒロインである、と自覚したのであれば、王子と急接近して結ばれるような事になったとしてもマリーの中では何もおかしな事ではないのかもしれない。
本来ならば、平民が恐れ多くも王族と、などとてもじゃないが無理だと思うのだが。
しかしマリーの中でここが何らかの、自分が知る世界であるのであれば。
その無理が無理ではないと思えるだけの何かがあったわけで。
結果としてマリーは王子と結ばれて、王妃になろうとした。
レイチェルはそれを真に応援していた。
マリーの知る何らかの世界では、レイチェルは本当に悪役令嬢としてヒロインを虐めたのかもしれない。だが、レイチェルは何もしなかった。
だってわざわざとても面倒な貴族社会に単身乗り込もうとしているのだ。上手くやれるのであれば何も問題はないが、上手くできなければ地獄である。
そして、マリーはここが自分の知っている世界に限りなく似ただけの現実である事を知った。
お話の中ではきっと、皆に祝福されて幸せになれるはずだったのかもしれない。
だが実際はどうだ。
周囲は皆敵だらけ。これで幸せになれるなど、余程頭の中身が幸せな構造をしていなければ無理だ。
そしてマリーはそんな地獄のような現実を生きなければならないと遅ればせながら理解したのだろう。
じわじわと嬲り殺されるかもしれない可能性、真綿で首を締められるように。
しかも明確に誰が敵とハッキリしているわけでもない。
周囲にいる者たちは、皆ほぼ敵だろうけれど、しかし傍から見れば味方でしかない。
助けを求めるのは絶望的。
明確に危害を加えられたのならば、王子に泣きつくのも有効だっただろう。
けれども、悪意らしい悪意がハッキリしない、さながら偶然のような不幸は泣きついたところで、
「君の考えすぎだよ」
「悪くとりすぎじゃないか?」
「気のせいだろう」
と受け流される可能性が高い。
前世の記憶もないこの世界での平民ならば、まずそもそも貴族社会に足を踏み入れようとはしないだろうけれど、しかし恐らくは前世の記憶を持ったマリーは。
前世でそういった人の悪意に触れていたのだろう。
だからこそ、そういった悪意を感じ取って、このままではいずれ自分は……と考えて。
酷い死に方をするくらいなら、いっそ自分で、と追い詰められたのかもしれない。
ともあれ、もしこの世界が何らかの乙女ゲームとかそれに近しい世界であったとして。
ヒロインであるマリーが死んだのならば、悪役令嬢であるレイチェルの役目も何もあったものではない。
仮にヒロインが生きていたままであったとしても、だとすれば余計にレイチェルがあえて王都へ戻る必要はどこにもないのだ。
ヒロインが生きていたなら戻る必要はないし、かといって死んだ今だって本来ならば悪役令嬢はとっくに舞台をおりた後。
であれば、国から出ていったところで何も問題はないだろう。
王子の結婚に関して色々と荒れるだろう事は確かだけれども。
だが、それはレイチェルの責任ではない。
レイチェルが前世の記憶なんてものを思い出さなければ、きっと貴族としての責任だのなんだのと理由をつけて王都へ戻った可能性もあるけれど。
折角解放されたのだから、レイチェルはこれからもう少しだけ自由に人生を生きてみようかなと思っているのだ。
ヒロインが王子と結ばれた時点で悪役令嬢の存在はもう必要のないものだ。
ヒロインが死ぬ以前から、既に悪役令嬢は死んだも同然だった。
だが、レイチェルはこうして生きている。
生きているのであれば。
ロクに悪役として何かをした覚えはないけれど。
悪役なら悪役らしく、もう少し自分にわがままになったっていいだろう。
そう思う事にして。
レイチェルは、速やかに準備を済ませて王国から旅立ったのである。
王家がレイチェルを呼び戻そうと考えた時にはとっくに手遅れであった。
次回短編予告
ジャンルがその他か異世界恋愛で迷ってるけど多分その他ジャンル。
自分が一番だと思ってる妹と、その妹にダシにされてる姉。
いい加減ここらでガツンと反撃に出ようとした姉の、でもいい案が浮かばないからと人に助けを求めた結果――みたいな話だよ。姉がヒロインだとは思うけど別にドアマットヒロインとまではいかないやつだよ。