序:【矢印】は貫き穿つ
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星のない夜だった。
どこまでも黒いペンキを塗りたくったような空。そこに一点穿たれた大洞めいた馬鹿でかい満月だけが、恥ずかしげもなく皓々とした輝きを放っている。
視点を下方に向ければ、見渡す限り闇に呑まれた大地が広がっていた。
そこにぽつぽつと煌めく街明かりは、さながら地上の星とでも呼ぶべきか。
人の営みが発する鮮烈な光は、空の星々を奪って飾り付けたようだった。
東京。午後十時半。
眠りを忘れた街の郊外に、天を削り取るが如き影がひとつ。
遠目にもやたらと目立つ摩天楼の正体は、建築途中の超大型マンションだ。
骨組みを露出させたまま下界を見下ろす威容には巨人の骨格めいた趣がある。あるいは死骸と呼ぶべきか。この建物が真に“生き始める”には、外壁や照明灯や街路樹などの“肉”を付け、腹の中に大勢の住民を抱え込まなければならない。
だというのに。都心部から飽和した人口の捌け口として期待されたこの建物は、しかし完成予定の時期を過ぎてもいまだに骨組みのままだった。
「――悪趣味な骨格標本だね、まるで」
夜風に紛れてどこからか、皮肉をたっぷり含んだ声がした。
最上階。縞ロープで括られた建築資材があちこち山積みされた風景から、虚空へ向けて一本突き出した鉄骨の先端部分に、一人分の影法師が立っている。
月明かりに照らし出された姿は、十代前半の少女のものだった。
怒ったように吊り上がった眉と、墨汁を流し込んだような濁った瞳。肩口で切り揃えた灰色の髪。日焼けしてない生白い肌。右の目元に黒子がひとつ。
風に揺れる前髪を安っぽい髪留めが留めている。彼女の身に付けているもので、彩りと呼べる代物はそれだけだ。服装はモノトーンの血飛沫模様が張り付いた半袖シャツと、裾の擦り切れたジーンズ、それに太腿に巻いたホルスター・ケース。
「…………、」
少女は無言のまま、しばし虚空へと視線を注いだ。
血飛沫シャツの裾が乾いた夜風に煽られて音もなく揺れる。
静かな夜だった。静寂に満ちた一帯に響くのは、マンションの骨組みを吹き抜ける掠れた風の音と、都市部の方角から微かに届く車の走行音のみ。
そのいずれもが添え物にすらならないほど、この場の雰囲気は寒々しかった。
「……待ち人来ず、ね。随分と焦らしてくれるじゃん」
独り言だ。直後、不意に強まった風に頬を叩かれ、少女は眉を顰める。
「うう、寒っぶ! 上着着てくればよかった。暦の上では春なのになあ」
少女は手持ち無沙汰な様子で、ふと眼下の虚空を覗き込む。底なしの奈落が広がっていた。足を踏み外せば即死だろう。熟れたトマトのように弾けて。
そんな物騒な考えを弄んでいる少女を不意に突風が襲った。
「おわっと!!」
さきほどよりも強い。シャツの裾が風を孕んで激しくはためく。よろめきかけた少女は慌てて姿勢を立て直し、どうにか崖っぷちに踏み止まる。そうして舌打ち。
「……変に格好つけてこんなところに立ってるのがいけないんだよなあ」
少女は肩を震わせながら、鉄骨を辿って開けたスペースへと後戻り。建築資材の脇に置いてあった鞄から水筒を取り出し、カップを兼ねる蓋に中身を注ぐ。
香ばしい香りと共に湯気が漏れ出した。夜闇より黒いコーヒーである。
「備えあればなんとやらってね」
少女は嬉しそうに呟いて、コーヒーに口をつけようと――
「……ああ、もうッ!!」
――する寸前。大気を割り割いて飛来した“なにか”が、高速で水筒に激突した。くわん、とどこか間抜けな音を鳴らして、水筒が少女の手から弾き飛ばされる。
だけでなく、水筒の横っ腹が、まるで破裂したように大きく裂けていた。
香りと灼熱と湯気を纏った液体が、飛沫となって空中にぶちまけられた。
少女はするりと身を躱して火傷の危険を回避しつつ、カップに残ったコーヒーを一瞬だけ見やり、名残惜しそうに床に捨てた。飲んでいる暇はなくなった。
「……よくも私の憩いを邪魔してくれたな」
少女の唇からどす黒い怒りを込めた声が零れる。
彼女はジロリと“なにか”が飛んできた方向を睨んだ。
「ようやくお出ましかと思ったら、無粋な真似してくれるじゃん」
恨み言が向かう先、空中に浮かぶひとつの影があった。
翼と牙を備えたその姿は、夜目にも明白な異形である。
外観を強引に形容するならば、それぞれ蝙蝠と蟹を象った粘土細工を混ぜ込んだような、なんとも不気味で醜悪なものである。まるで継ぎ接ぎの怪物だ。
身動ぎするたび曖昧にぼやける輪郭が怪物の実在感を希薄にしていた。
「挨拶のつもりだとしたら、センスも性根も腐ってんね」
「ZaGiZaazzz……」
怪物は少女を嘲笑うように身を翻すと、砂を擦り合わせるような鳴き声を発した。聞く者すべてが不快になるような、ラジオノイズめいた音調である。
対し、少女は冷然と怪物を見やる。その口の端が吊り上がった。
悪意に近い感情が込められた、どことなく歪んだ笑みであった。
「鳴き声まで気色悪いんだから極め付きだね。寄生虫擬きが囀んな」
言いながら少女は対峙の姿勢を取る。右手をゆっくりと太腿のホルスター・ケースに伸ばし、手馴れた手つきで蓋を開け、中身を摘まみ取りながら、
「ここの工事が一向に進まない理由。何故か不足し続ける作業員の数」
少女が静かに言う。
「新聞じゃ作業員の無断欠勤が頻発してて、パワハラ問題だの給料の未払い疑惑だのといかにもな原因をそれらしく報じてたけど、私たちから見ればアンタらの仕業だってのは一目瞭然だった。居たはずの人間が消えてるからね。案の定……」
「ZaGiZaazzz……ッ!!」
「何人喰った? 腹が膨れてご機嫌か、クソッタレの文字化怪が。そのどてっぱら、今からぶち破ってやる。アンタは塵すら残さない。覚悟しな」
その言葉が契機だった。文字化怪と呼ばれた怪物が、異様に発達した両翼をばさりと扇ぎ、そこから月明りを反射する“なにか”を発射した。
瞬、と。風を裂いて飛んだのは、先端に鋭い棘を備えた羽だ。
さきほど水筒を弾き飛ばした物体の正体である。
少女を目掛けて高速で飛来するその数、合計して十三枚。ステンレス製の水筒を容易く穿つほどの威力だ。生身で喰らえばただでは済まない。
「……アンタはまだ自分が捕食者側のつもりなんだろうけどさ」
迫る脅威に対し、少女は臆さなかった。
冷や汗ひとつ浮かべず、ただ淡々と。
「“描画効撃士”に見つかった以上、すでにアンタは狩られるだけの獲物だ」
パン、と。音が鳴るほどの素早さで、ホルスター・ケースから抜き取った数枚の紙片を、少女は空中に投じる。漆黒の空を切り抜いて、白の長方形が舞い踊った。
均一に切り揃えられた厚紙の表面には等しく、ゴシック体で太く刻むように印字された【矢印】が描かれている。それだけならば、金属を貫通する棘羽の威力に対してただの紙片を撒いただけという、あまりにも儚い対抗手段でしかない。
「――“標的を射抜く矢”!」
だからこそ、少女が“記号”に意味を与えるのだ。
それは超常を現象し世界の理を書き換える、異能の力を行使するための宣言。
発生した変化は急激にして顕著だった。風に舞う紙片の一枚一枚が、化ける。
すべては一瞬。紙片に刻まれた【矢印】が閃光を放ち、剥がれるように形を成す。現われたのは光の矢だ。“標的を射抜く矢”の群れは力強い動きで空を跳ねると、そのまま文字化怪を目掛けて一直線に、宙を割いて射出される。
「――ZaGi……!?」
「貫き、穿つ。私が【矢印】に込めた意を、喰らえ」
残光を弾いてかっ飛んだ矢撃は、進路上を塞ぐ棘羽の群れを容易く蹴散らした。
予想外の状況に驚いたのか、漫然と成り行きを見守っていた文字化怪は、咄嗟に身を捩って回避を試みるが、その対応は遅きに失した。
“標的を射抜く矢”は狙い違わず、異形の怪物のどてっぱらに突き刺さる。
「――ZzaGaGiZzzAaッ!?」
奇怪な断末魔が、怪物の遺言となった。
胴体を大きく穿たれた文字化怪が、一瞬の膨張を経て千々に爆ぜ飛んだ。
撒き散らされた細かな破片は、大気に溶けるようにして即座に消滅。
異形が存在した名残りは、数秒と要さぬうち跡形もなくなった。
「校正完了。……あ、開始宣言忘れてたな。まあ、いいか」
少女が戦闘終了の意を示す。まさに鎧袖一触の早業であった。
彼女にとってこの戦いはもはや日常であり、ルーティンワークに近い行いである。それ故に動揺も、躊躇も、恐れもない。あるのは怒りと、哀しみだけ。
少女は深々と溜息を吐き、虚空に向かって黙祷した。そこに居たはずの“誰か”たち。名前と諸共に存在そのものを喰い尽くされた犠牲者を悼むために。
無言で俯きながら少女は後味の悪さを噛み締める。
苦く、重い、鉛を呑み込むような感触。こればかりは慣れなかった。
「……文字化怪に喰われた名前は、誰にも思い出されることはない」
文字化怪の犠牲者の名前が記されることはない。その数が記録されることもない。仮に家族や友人が居たとして、そういった人々に悼まれることすら赦されない。犠牲となった者たちは最初からこの世界に存在しなかったことになるからだ。
「だからこそ、……駆除してやる。一匹残らず」
独り言ちる少女の瞳には、憎悪にも似た焔が宿っていた。
“描画効撃士”を任ずる者たちが等しく宿す感情の焔が。
「……さて、と。駆除完了の報告して、さっさと帰ろう」
やがて個人的な弔いを済ませた少女は、ポケットからスマホを取り出して通話を開始、電話口の相手に状況報告と迎えの手配を言付けた。
迎えの車はおおよそ十分後に来るらしい。
少女は通話を終え、そのまま床の際へと歩み寄る。
「……今からこれ、降りるのかあ」
少女はげんなりとした顔になってそう言った。
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あるいは“鵺狩り”。
あるいは“禍字祓い”。
あるいは“字術師”。
あるいは“象形術士”。
あるいは“記号使い”。
彼らは歴史上において様々な名前で呼ばれ、また自らを呼び表してきた。
人間の文字認識能力を破壊し、それに紐づいた名前を喰い荒らして消滅させる。人類文化を根底から破壊しかねない怪物と、戦い続けてきた戦士たち。
彼らは正義の味方ではない。人類に味方する、怒りの群れである。
その名は“描画効撃士”。
“記号”に意味を与え、超常を行使する者たち。
文字化怪を狩る者である。
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描画効撃士ツラヌキ【読み切り版】
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