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一億分の一彼女

作者: 黒猫B

「人格が1億もある、って言ったら君はどう思う?」


僕の家の側にある河原の上で、

今日会ったばかりの少女は急にそんなことを呟いた。


沈みかけた夕日が彼女の横顔を茜色に照らす。

座りながら、目の前を遠い目で見つめる彼女は、どこか寂しげだった。


「それが、君が『訳あり』の理由?」

「うん」

「それは、君にとって辛いことなの?」

「…うん」


彼女はこくりと頷いた。

その時、昔テレビで多重人格に関する特集が放送されていたことを思いだす。


一人の人間の体に、複数の人格が交代で現れるという内容だった。


「たくさんの人格が私の中にあるから、次に私が出てこられるのがいつになるかわからないんだ。

もしかしたら、数年、数十年先かもしれない」


「えっ」

今日一日、僕は彼女とたくさんの遊びをした。

お互い小学生同士だったからだろうか、お互いどこか似たところがあったからだろうか。


出会ったばかりだったけど、

彼女と過ごした時間は、内気な僕の何かを確かに変えた、かけがえのない時間だった。

だからこそ、僕はその事実を受け入れらないでいた。


その時、彼女が膝の上で組んだ腕の中に、自分の顔を埋めた。

「だから、怖いんだ。次、私が目覚めた時に、一人ぼっちになることが。」


弱弱しく漏らしたその声は、いつでも明るかった彼女のものとは思えないほどだった。


その時、僕の手元の虫かごの中で、カブトムシが壁を小突く音がした。

まるで、『励ましてあげて』と言っているかのようだった。


僕は思い立つと、彼女の方を向いた。

内気な僕に何かを与えてくれた彼女に、恩返しをしたいと思ったのだ。


「君のこと、ずっと忘れない。だから、安心してよ。」

僕はあまり得意ではない笑顔を彼女に向ける。


彼女は顔を上げると、泣き笑いのような表情を浮かべた。

そして、小指を僕の前に差し出すと、ぽつりと呟く。

「…約束、ね」

「うん」


僕は自分の小指を彼女のものに引っ掛けて指を切る。


「ありがとう」

そう告げた彼女の笑顔を、僕は胸の中に確かに刻んだのだった。


ーーーー

「おーい、遊ぼうぜーー」

玄関から、圭太の声が聞こえた。


土曜日の午前。

圭太は小学校がない日は、いつも僕の家に来る。

僕はリビングで一人読んでいた本を静かに閉じて、玄関へと向かう。


あまり人付きあいが得意でない僕だったけれど、どうも圭太との交流は気が楽だった。


老若男女、誰に対しても遠慮がないような、開けっぴろげな彼の性格が、

僕にとっては少し居心地がよかったのかもしれなかった。


「今日はちょっと忙しいから、遊べないよ」

「なんだよー、また虫取りにでも行く気なのかよー」

「今日は、少し本を読んでるんだ」

「そっかあ、じゃあ俺も一緒に本読む!」

僕は少しだけ抵抗したけど、圭太があまりにも引き下がらないので、

根負けしてしまい、彼を中に入れた。


ーーー

圭太は玄関に置いてあった虫かごの中のカブトムシをひとしきり眺めたのち、

リビングで再び本を読んでいた僕のもとへ駆け寄ってきた。


そして『多重人格の起源』と書かれた本の表紙を見ながら、うめき声をあげた。

「難しい漢字だなあ、こんなの読めないよ」


「『たじゅうじんかくのきげん』、だよ」

「よく読めるなあ」

「勉強したんだよ、圭太も勉強すればすぐ読めるようになるよ」

「俺は別にいいよー」

圭太はげっそりとしながら、僕から離れて家の中をうろつき始める。

どうも、本を読む気はなくなってしまったらしい。


それからしばらくの間、僕は一人、本をじっくり読んでいた。

あの日出会った、「1億の人格を持つ少女」のことをもっとよく知りたくて。



彼女と会った翌日、彼女は僕の元に来ることはなかった。その翌日も、翌々日も。

彼女の連絡先なども聞いていなかったから、

彼女がどこにいるのか、何をしているのかはわからなかった。


彼女の言う通り、他の人格に埋もれて眠っているだけなのか。はたまた「一億の人格」などは彼女の気まぐれな冗談で、僕をからかっただけなのか。


そんなことを考えていた時だった。


僕はあるものを見つけたのだ。


ーーーー


「なんだこれえ」

その時、圭太の呆けた声が僕の部屋の方から聞こえた。

僕は読んでいた本を閉じると、自室の方へ向かった。


引き戸を開けて中に入ると、圭太は僕の机の上の、

透明なデスクマットの下に挟まれたあるものを見つめていた。


圭太は怪訝な顔をして、こちらを振り返る。


「なんで、こんなものあるんだ?」

彼が指を指したのは、メダル型のフェルトフレームだ。

内側に絵を差し込める形になっており、クレヨンで書かれた少女の絵が挿入されている。


そして、それは彼女がいなくなった後に僕が見つけた、彼女の忘れものだった。


ーーーー

ーー


「ちょっとこれ、持っててよ」

あの日、河原のすぐ前を流れる清流で水遊びをしようとした彼女は、ふと思い出したようにポケットからあるものを取り出し、僕に渡した。


それは、メダル型のフェルトフレームだった。少女の絵が内側に差し込まれている。


「濡れたら絶対ダメなの!、だから持ってて」

「うん、わかったけど」

僕はそう言いながら、少しだけ疑問に思っていた。


自分があまり小物を持たないためだろうか、フェルトフレームに対して、

少し過剰なまでに反応する彼女に僅かに違和感を感じたのだった。


僕が首を傾げながらじっとしおりを見ていることに気づいたのだろう、

彼女は「…これはね」と口を開いた。


「私の宝物なの。私が、私であることの証明」

大げさな、というのが僕の最初の印象だった。

けれど彼女の真剣な表情が、それが冗談のような類のものではないことを物語っていた。


「これはね、私が一番最初にこの世界で目覚めて、初めて作ったものなんだ。私が唯一自分で作ることができた、大切なもの」


彼女が初めて目覚めたのは、幼稚園の図工の時間だったそうだ。


いきなり現実の世界に目覚めて、最初は戸惑ったものの、他の人格の記憶や知識が引き継がれたおかげで状況自体はすぐに掴めたらしい。


けれど、友達に話しかけられてもぎくしゃくして『今日なんか変!』と言われてしまったり、

仲良くない男の子にちょっかいをかけられたりと散々な目に遭ったようだ。


そんな中で、図工の時間のテーマだった、「フェルトフレーム作成」は彼女を魅了した。


フェルトフレームに入れる絵の題材はなんでもよかった。

だから、彼女は自分の似顔絵を書くことに決めた。


自分の人格が宿った時の自分の表情を、絵に残したいと思ったのだという。

そして、初めて手に取るクレヨンで、手鏡に映る自分を夢中になって描ききり、それをフェルトフレームに入れたのだった。


彼女の人格が消える直前、彼女は強く祈ったという。


このしおりを、他の人格の私がいつまでも持ち続けてほしい、と。

私がこの世界にいた証を、残してほしい、と。

もう自分が二度と、この世界に現れることができないかもしれないから。


そして、その祈りが通じたのか、彼女が作ったフェルトフレームは、

再び目覚めた時、手元に残っていたのだという。



彼女に渡されたフェルトフレームは、あの日僕が持っていたポーチに入れたきりになっていた。そしてそのことに僕は後日気づいたのだったーー。


ーーーー

ーー

「なるほどなあ。それで、その女の子のこと、待ってるの?ここで」

圭太は僕からフェルトフレームの話を聞き終えると、手元のそれを見ながら小さくぼやいた。


「そうだね、待ってるんだよ。彼女のことを」

圭太のいうことは正しかった。

僕は待っていた。この家で、彼女が再びここに来ることを。

彼女が、忘れものであるフェルトフレームを再び取りにくることを。


彼女が再び目を覚ますことができたら、きっと、彼女はフェルトフレームがないことに気づくはずだ。

そして、それを僕に渡したままになっていることにも思い当たるだろうと思った。

もしそうなれば、きっと彼女は再びここに訪れる、そう僕は考えていた。


「ようやくわかったよ。病院に入院しない理由が」

圭太はうんうんと頷きながら、一人納得していた。


「はは、まあそういうことだよ」

僕が苦笑していると、圭太は「ははーん」と呟きながら口角を上げた。


「ずばり、その女の子のことが好きだったんだろ~」

あまり予想していなかった圭太の発言に一瞬驚きつつも、僕はゆっくりと首を振った。


「それは、違うよ。もしそうだとしたら、僕と圭太がこうして話すこともないだろう?」

「いわれてみれば、そうかあ」

圭太はあごに手を添えながら、眉をしかめて唸る。


そう、僕は多分彼女のことが好きだとか、そういうことではないような気がしていた。


その時、リビングから正午を知らせる時計のオルゴール音が響いた。


「もうお昼みたいだ。」

「あ、もうそんな時間か。一度、飯食べにうちに戻ろうかな、

昨日の夕飯の作り置きがあるんだよなあ」

圭太はそう言うと、名残惜しそうに、室内を見渡した後、僕の部屋を出た。


圭太を玄関まで見送ると、彼は扉を開ける直前、こちらを振り返った。


「なあ、ちゃんと体には気をつけろよ。俺、まだ一緒に話したいし、遊びたいからさ。なんなら女の子のこと忘れて、入院するのだって」

圭太は彼に似合わず、寂しそうな顔を浮かべる。


最近の僕はどうも体の調子がよくなかった。

いつもどこかが悪くて、何をするにもエネルギーがいる。まるでそういう病気にかかってしまったかのようだ。


「気を付けるよ。圭太も体には気を付けて」

「俺は大丈夫だよ、風邪なんか一度も引いたことないんだぜ」

けらけらと笑う圭太に、冗談のひとつでも言おうとしたその時、僕の視界が急にぐらっと暗転した。


「…い!」

圭太が僕を呼ぶ声が一瞬聞こえた気がしたが、僕の意識は無情にも深い闇の中に落ちていった。


ーーーー

ーー


夢を見ていた。

それは彼女と出会った日の夢だった。


あの日、僕は一人だった。


シングルマザーとして僕を女手一つで育ててくれた母親が病で亡くなり、

母方の祖父母に引き取られて、1年ほどが経過していた頃だった。


新しく通い始めた小学校にも馴染めず、引き取ってくれた祖父母にも少し距離を置いていた僕は、近くの野山で捕まえたカブトムシだけが友達だった。


そんな時だったのだ、彼女に出会ったのは。


まだ日の高い昼下がり。

家の近くの河原で一人、いつものようにカブトムシと戯れていた時だったのだ。


じゃり、と河原の石が踏まれる音がした。

そして振り返ると彼女がいたのだ。


白いワンピースを着た彼女は、

寝起きのように目元を擦りながら、僕の前に立っていた。


透き通るような白い肌と、淡く煌めくアーモンド状の大きな瞳に

思わず魅入ってしまったことをよく覚えている。


彼女は焦点の定まらない様子で、徐に(おもむろ)周囲を見渡した。

次第に意識がはっきりしたのか、彼女の瞳が少しずつ光を取り戻した。


そして、何を思ったのか、彼女は一筋の涙を静かに流した。

その涙は、再びこの世界に目覚めることができたことへの喜びだったのかもしれなかった。

ーーー

「いきなり泣いて、驚かせちゃったよね」

照れたように頬を赤らめながら、彼女は肩をすくめた。


「ううん、気にしてないよ」

そして、僕らは河原に座りながら、しばらくの間自分たちのことを話していた。

名前、年齢、好きなもの、それ以外にもたくさん。


「…ふーん、カブトムシが好きなんだ。かっこいいね、この子」

彼女はつんつんと、僕の脇の虫かごをつつく。

カブトムシは驚いたのか、のそのそと反対方向に動きだした。


「よくこの辺りには虫を捕りに来るの?」

「よく来るというか…そこが僕の家」

僕は左手にある少し離れたコテージ風の家を指さす。


一瞬、僕が暗い顔をしたからだろう、

彼女は少し目を伏せながら、前を向いた。


「訳あり君、ですかな?」

ぼそりと呟く彼女の横顔は、少し悲しげだった。

その表情は、僕が何度も見たことがある表情だと思った。

それは、ともすれば鏡の前の自分がいつも見せている表情かもしれなかった。


「…君も?」

「うん」

僕の反射的な呟きに彼女は困ったような笑顔を向けた。


きっと僕はその時、彼女の中に自分を見たのだと思う。

気づくと、僕は自分の中のしこりのような思いを漏らしていた。


「誰かと仲良くなるのが怖いんだ」

そう、あの日の僕は、人と触れ合うのが怖かったのだ。


シングルマザーだった母親は、僕に取っての唯一の肉親で、

内気な僕が躊躇いなく心の中を明かすことのできる人だった。


その母が亡くなって、僕の心はぽっかりと大きな穴が開いてしまったのだ。

そして、たまらなく怖くなったのだ。

誰かと親しくなり、そしてそれをいつか失ってしまうことが。


その時、彼女が静かに口を開いた。

「それなら、さ。実験しようよ。今から私と君は『1日親友』。」

「1日親友?」

「そう。今日だけの親友。明日になれば、私たちは赤の他人に戻るの。

それを知っていても、楽しめるか実験するの」


「でも、赤の他人に戻るなんて、そんなこと無理だよ。君のこともう知っちゃったし」

「それは、大丈夫。私はもう、ここに来ることができないかもしれないから」

「どこか遠くに引っ越すの?」

「うん…そんなところ」

彼女が再び見せた、寂しげな表情が少し気になったが、僕はこくりと頷いた。


「うん、それなら…分かったよ。僕も…試してみたい」

「うん、そうこなくっちゃ」

そして彼女は、眩しいくらいのはつらつとした笑顔を見せた。


ーーーー

それからの時間は、僕に取って忘れることができない思い出となった。


「とりゃあ!」

「だから、下からゆっくり取るんだって!」

近くの野山で、一緒にセミを捕まえたり。


「必殺、水手裏剣!」

「ああ、もう!だから水面に叩きつけない!」

僕たちが出会った河原で、一緒に水切りをしたり。


「ていっ!」

「いたっ、全然場所が違うよ!」

彼女が無理やり僕に持ってこさせた、僕の家のスイカを使ってスイカ割りをしたり。


とにかく散々な振り回されようだったけど、いつの間にか僕は時間を忘れて楽しんでいた。

そう、楽しんでいたのだ。

『誰かと仲良くなるのが怖かった』、そのことを僕はあの時、確かに忘れて楽しんでいた。

今日だけの関係だったとしても、楽しむことができていたのだ。


「ははは、何してんだよ、はははっ」

その時、僕はいつ以来だっただろうか、腹を抱えるほどに笑っていた。


カゴをつついたからだろうか、僕のカブトムシに少し嫌われていた彼女は、

どこかから木の枝と(つる)を持ってきて、いきなり自分の額に木の枝を蔓で巻きつけたのだ。

「カブトムシの仲間だと思ってもらう!」とかなんとか、真剣にカブトムシの前に顔を寄せていた彼女の姿が僕のツボにはまってしまったのだ。


僕が涙を浮かべるほどに笑っていた時、ふと、彼女が呆けた様子で僕を見つめていることに気づいた。


「ははっはははっ……どうしたの?」

僕が笑いを止めて首を傾げると、彼女はふふっと小さく笑った。


「しっかり、楽しんでるじゃない」


僕は内心で気づき始めていたそれを指摘され、少し頬を赤らめる。

そしてゆっくりと頷いた。

「…うん」


彼女は、ふうと息をつくと、額に着けていた木の枝と蔓を取り払った。

「もしもまたさ、誰かと仲良くなることが怖くなったらさ。

今日のことを思い出してよ。

そしたらきっと、また怖くなくなるでしょ?」


彼女の優し気な表情に、僕も相槌を打つ。

「うん、ありがとう。でも…」


そして、思わず再び噴き出してしまう。

「ぷぷ、ははは、今度は笑いが止まらなくなるかもしれない…、

木の枝、はははっ!」

「こらああ!」

そして、しばらくの間、僕は彼女に追い回される羽目になったのだったーー。


ーーーー

彼女と過ごしたのはたった数時間だったけれど、

その時間は僕の日々を豊かにしてくれた。


僕は少しずつ人と触れ合うことができるようになり、

友達も少しずつだけど作ることができるようになったのだ。


彼女はというと、再び僕の前に現れることはなかった。

けれど彼女が僕の元に忘れていった、フェルトフレームを見るたびに彼女を思い出す。

彼女と過ごした数時間を。

そしてあの日、底抜けに明るい彼女が漏らした、唯一の不安を。


『一人ぼっちになるのが怖い』。


だから、僕は誓っていることがある。

いつかもし、彼女が再び目覚めて、僕の元に忘れものを取りに来てくれたのなら。


彼女にフェルトフレームを返して、そしてしっかりと伝えるのだ。

彼女のことを忘れたことがないことを、その証明として僕は彼女の忘れものを持ち続けたことをーー。


それがいつになるかはわからないけれど、僕はいつまでだって待ち続けるつもりだ。

彼女と戯れたたった数時間は、僕にとって、そういうものだったのだ。


ーーーー

ーー

「…うう」

「おい!大丈夫か!」

目を覚ますと、僕は自室のベッドの上に横たわっていた。

圭太がベッドの横で、心配そうな顔で僕の顔を覗き込んでいる。


「はは、大丈夫…じゃないかもしれない」

今までに経験したことがないほどの痛みに、全身の筋肉が悲鳴を上げている。

視界も不安定で、圭太の顔もかろうじて捉えきれる程度だ。


「だから、病院に入院すればよかったんだ。意地張ってここにいたって元気になんてならないよ…」


圭太の言うことはもっともだった。でも、それをすることができない理由が僕にはあった。


「それをしてしまえば、僕は彼女に忘れものを返すことができなくなってしまう」

「…そんなに大事なことなのかよ」

「そんなに大事なことなんだ」


僕がそう言うと、圭太は鼻をすすりながら、赤く腫れた目元を荒々しく拭う。


「わかったよ、じゃあ俺が今からその人のことを無理やりでも見つけてくる。

だから、その時は、ちゃんと病院に入院するんだぞ」


「…はは、わかった…よ」

僕は体に残る力をなんとかかき集めて、そう答える。

そして圭太は僕の言葉を聞き届けると、力強く頷いた。


「じゃあ俺、行くから!約束だぞ!


・・・じいちゃん!!」


ーーー


じゃり。


踏みしめた河原は、まるで時間が止まっていたかのようにあの日のままだった。

カブトムシが大好きで、少し内気な男の子に出会った、あの不思議な日の。


周囲を野山に囲まれ、透き通るような清流が脇を流れている。

そして、少し遠くに見えるのは、内気な男の子が住んでいたコテージ。


彼はまだいるだろうか。


60年ぶりに目が覚めた私は、自分の手元にフェルトフレームがないことに気づいた。

そして、あの日出会った男の子に預けたきり、そのままになっていることを思い出したのだ。


だから今日、私は再びこの河原にやってきたのだ。彼に預けた忘れものを受け取りに。


もし彼が、いなくても構わなかった。いや、むしろいない方が自然だった。

あれから60年もの時間が経っているのだから。


それでも、私はここに来た。ともすれば、私は忘れもの以上に、確かめたかったのかもしれない。

60年経った今でも、私がこの世界で一人じゃないかもしれないことを。


その時だ。


遠くのコテージから一人の男の子が飛び出した。

彼はきょろきょろと周囲を見渡した後、私の存在に気づいた。

そして、勢いよく私の方に駆け出した。


少しずつ近づく男の子の相貌がはっきりするにつれ、私は目を疑った。

走ってくる男の子が、あの日一緒に遊んだ男の子と瓜二つだったからだ。


そして、男の子が私の元に辿り着いた時、彼は必死に私に言葉を投げかけた。


彼のおじいさんがコテージで眠っていること、そしてそのお爺さんが生涯女の子の似顔絵が差し込まれたフェルトフレームを持ち続けていたことを。


「だから、早く!早くじいちゃんに会いに来て」

「…はい」


男の子が、背を向けて走り出した。

私も当時ほど思うように動かなくなった両足を必死に動かして、コテージへと駆け出した。


彼が持ち続けてくれた、私の忘れものを受け取りに。


頭上を照らす昼下がりの太陽が、河原の石をきらきらと照らす。

その反射光が眩しいからだろうか、瞳に滲んだ涙を、私は走りながら拭う。

そして微笑んだ。


60年ぶりに見たこの世界は嘘のように眩しくて、温かかったのだった。


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