幕間 第一皇子の独りごと
2000pt突破祝の番外編SSです。時間軸としては三部のどこかだとおもいます。
累神から妙にたいする想いが語られます
屋頂にたたずんで、後宮の都をぼんやりと眺めている男がいた。燃えるような紅い髪をなびかせた彼は第一皇子の累神だ。
風が吹きつけてくる。累神が微かに双眸を細めた。彼は無意識にふらりと屋頂の端から身を乗りだす。
その時だ。
「累神様、なにやってんですか」
後ろから声を掛けられ、累神が我にかえって振りかえる。
猫耳のように髪を結いあげた姑娘が女官服をたくしあげ、屋頂をよじ登ってきた。易妙。彼女は第一皇子つきの占い師だ。ただし、彼女にはウラがある。
「落ちるかとおもいましたよ」
「ははは、さすがに落ちはしないさ」
妙の瞳がすうっと、磨きあげた鏡のように透きとおった。
この一瞬、累神は言い知れない胸騒ぎと昂揚を感じる。なにもかも見抜かれている、という恐怖と確かな安堵感。
「……もしくは、飛び降りるんじゃないかと」
彼女は累神の胸のうちを看破する。
彼の心の動き、感情のふり幅、時にはなにを考えているのかすらも――彼女は見破ってくれる。
「なんだろうな。こうして高い処にいると、なにかに呼ばれているみたいに飛び降りたくなるときがある……吸いこまれるみたいに。なあ、これはあんたの心理だと、どう解く? 俺は、ほんとうは死にたいのか?」
累神は自身の心が時々わからない。感情がない、わけではないが、みずからがなにを望んでいるのか、なにが嬉しいのか、かなしいのか。ただしく理解できていない。
「それ、生存本能の誤認識ですよ」
「どういうことだ」
妙は累神の隣まできて、屋頂の端にすとんと腰掛けた。
「つまりですね、本能は危険を察知して「ここから落ちたら死ぬぞ」って最悪の結果を伝達するときに誤認識が起こって、危険にたいする予期を期待と勘違いしているんですよ」
累神を振り仰ぎ、妙が微笑みかける。
「だいじょうぶ、累神の無意識はちゃんと"生きよう"としていますよ」
死にたくないから、危険だと心理が訴えているわけですから。
「これは死にたいする欲求ではなく、生にたいする潜在意識のあらわれなんです」
「……そう、か」
確かめるように累神が再度、屋頂のさきに視線を動かす。
吸いこまれるような奇妙な引力は散って、後には踏みこんではいけないという自制心だけが残る。
「虚空の呼び声といって、意外にも結構な割りあいのひとがこういう経験をしているらしいです」
「へえ、そうなのか」
「ですです。馬車が奔ってきたときに飛びだしたらどうなるだろう、とか、煮えた湯のなかに指をいれたら熱いだろうか、とかね。想像してぞっとするのに、なぜかやってみたいようなきぶんになっちゃうんですよ」
累神が眉の端をあげる。
「あんたは? あるのか、そういうきぶんになるとき」
意外だったのか、妙は一度だけ瞳をまるくしてから、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「……ありますよ」
すねたように唇をとがらせて、彼女は続けた。
「おもったどころか、……やらかしました」
「だ、だいじょうぶだったのか」
それはつまり、飛び降りた、ということかと累神が頬を強張らせる。だが妙はびっと累神を指差した。
「累神さまのことですよ! かかわったら、やばいとわかっていたのに、ついつい……!」
ああっと妙が頭を抱えだす。累神は想わず苦笑した。
「俺とかかわるのは、屋頂から転落するのとおなじくらい危険なのかよ」
「そりゃそうですよ。なにせ、皇帝の暗殺やら宮廷の陰謀やらに巻きこまれたんですから! ……でも」
妙はかたちのいい唇の端を弛めた。おそらくは、彼女自身も無意識のうちに。
「後悔は、してないです」
累神が不意をつかれたように息をのむ。
抱き締めたいという強い衝動にかられて、累神はなんとかそれを抑えこむ。会ったばかりの時は彼女に触れるのも易かったのに、いまになっては寄りそうだけでも胸が騒めいてしまう。
(あんたにきらわれたくない)
こんなふうに考えるようになるとは、あの頃は思いも寄らなかった。自身がこんなに憶病だとも知らなかった。
(もっと、あばいてくれ。俺の知らない俺の"ウラ"を)
もとめずにはいられない。
また、ひと際強い風が吹いてきた。
どこからともなく、拉麺の香りが漂ってくる。その途端、ぐううぅと猫の欠伸のような音が聴こえてきた。
思わず音のしたほうに視線をむければ、妙が腹をおさえて、なんともひもじそうな顔をしていた。
「……はは」
累神がわらった。何処までも柔らかな微笑だ。ああ、俺はこんな笑いかたができたのかと累神はわれながら奇妙に思う。
「拉麺、食いにいくか」
お読みいただき、ありがとうございます。
現在、書籍化作業も順調に進んでおり、発売日になったらまたお祝いのSSを投稿致しますので、ブクマは外さずにお待ちいただければ幸いです!