3‐32「ねえ、僕を皇帝にしてよ」
姐の夢をみていた。
夢のなかで、姐は橋の中程にたたずんでいた。妙は姐のもとにかけ寄ろうとするが、どれだけ踏みだしても、さきに進むことができない。
姐は哀しげに微笑みながら、唇を動かす。
声は聴こえてこない。
「っ」
夢が破れ、妙は意識を取りもどす。
見知らぬ房室だった。飾り棚には香炉を始めとした調度が飾られて、壁には銀木犀。異様なほどに華やかだ。どうやら妙は倚子に縛られているらしい。動かそうとした腕が軋んで、縄が喰いこんだ。
「ああ、ようやっと意識を取りもどしたんだね。薬の分量を間違えて、殺してしまったかとおもったよ」
隣をみれば、錦珠が退屈そうに茶を飲んでいた。
「錦珠様、いや……錦珠」
拉致されたのだ。恐怖もあったが、それを感づかれまいと妙は気強く声をあげた。
「縄をといてください。貴方がなにを考えて、私を連れてきたのかはわかりませんが」
「おまえが、累神を皇帝にしたんでしょう?」
錦珠は睫をふせ、微笑みかけてきた。
「あの男が星の呪縛を破れるはずがない。禍の星に産まれたせいで、母親からも散々恨まれ続けてきたんだから。打破できたとすれば、おまえのせいだよ」
妙は、累神の胸のうちにある空虚に想いを馳せた。彼は幼い時から、あらゆることを諦め続けてきたのだろう。皇帝になることを諦め、愛されることを諦め、なにかを望むことそのものを諦めた。
「ねえ、僕を皇帝にしてよ」
妙は怒りを通り越して、凍りついた。
こいつはいったい、なにを考えているのか――
「おまえが望むものならば、なんでもあげるよ。真珠の耳飾りなんかどうかな。珊瑚の笄でもいいね。ああ、食べるのが好きなんだっけ。高級な食材を取り寄せてあげるよ。だから、僕のために託宣をしてくれ、占い師さん」
姐を奪い、星辰を殺して。
妙のたいせつなものを踏みにじっておきながら、よくもぬけぬけと。
「皇帝は、累神様にきまりました。宮廷と民の満場一致で。いまから覆ることは、ぜったいに有り得ません」
「僕は認めてない」
錦珠の声が低くなる。
「……認めてなるものか!」
錦珠は唐突に声を荒げ、卓を蹴りつけた。卓が倒れ、茶杯が砕ける。異様な豹変振りに妙は思わず身を縮めた。
「僕が、皇帝になるはずだったんだよ。それなのに、おまえが邪魔をした。おかげで僕は廃嫡だ。僕が、僕こそが、祝福された星のもとに産まれたのに」
ああ、そうか。妙は今更に理解する。
累神が福の星に転じれば、今度は錦珠が禍の星になるのだ。
この哥弟はどこまでも表裏だ。占星なんかに振りまわされるふたりは哀れだが、妙は錦珠にたいして情けを傾けるつもりはなかった。
「……そうですかね」
妙は果敢に錦珠を睨みつける。
「あなたには禍の星のほうがふさわしいですよ」
錦珠が星の双眸に剣呑な光を漂わせた。
妙は背筋が凍るような心地がする。錦珠はひとを殺すことにためらいのない男だ。それでも、最愛の姐を殺害したものにたいして、縮こまり、頭をさげるようなことは妙にはできなかった。
「誰があんたなんかのために占ってやるもんですか! そんなことをするくらいだったら、舌をかみきって死んだほうがましだ!」
「そう。だったら、死になよ。思いどおりにならないものなんか、要らない」
錦珠が妙の首を絞めあげる。
「っ」
妙が思いきり脚を振りあげ、錦珠を蹴りつけた。
反撃されるとは想っていなかったのか、錦珠が咄嗟に後ろにさがる。反動で倚子が後ろむきに倒れ、妙は衝撃に息をつまらせた。頭を打ちつけなかったのは幸いだったが、腕を縛られているので、起きあがることもできない。
錦珠は妙を踏みつけにして、さらに強く、喉を絞めた。
「やっ、ぱり、あんたは皇帝に、なれる、ようなにんげん、じゃない。どれだけ、いい星に産まれてても、そんなの、関係……なぃ」
妙は息も絶え絶えに吐き棄てた。
胸を衝かれたように錦珠が眼を見張る。いやなことを想いだしたように頬をゆがめ、彼は妙の喉から手を放した。妙が咳きこむ。
涙に滲んだ眼で睨みあげたところで、鼻先に剣を突きつけられた。
「そんなに死にたいのか、だったら望みどおりに殺してあげるよ」
殺意を滾らせた錦珠の眼をみて、理解する。
(ああ、殺されるんだな……)
禍も多かったが、ちゃんと福もある人生だった。最期になって思いかえしてみれば、不幸せが四割、幸せが六割くらいだったようにもおもえるから、不思議だ。
錦珠が剣を振りあげた、その時だ。
「妙!」
聴きなれた声がした。
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ヒーローは遅れてやってくる! 最後は完全なるハッピーエンドになりますので、引き続き安心してお読みいただければ幸いです。