3‐21「この日の事は死ぬまでわすれませんから」
事態急転。
ここからいよいよ起承転結の「転」に差し掛かります。
楽しい時ほど、はやく経つ。
底がぬけるように青かった晴天は刷毛で掃ったように紫を滲ませて、雲の輪郭が茜に燃えはじめた。そろそろ、約束の刻限だ。
祭は日が落ちても続くが、星辰は晩から体調を崩す傾向にあるため、医官からは祭に参加するのは昼だけと念を押されていた。
賑やかな祭を抜け、郊外の停車場にむかう。
このあたりは民家がならび、のどかな風景が続いている。星辰は歩きながら振りかえり、哥様、妙大姐と呼び掛けてきた。腕にはたくさんの土産を抱き締めている。
「ぼくのわがままをきいていただき、ほんとうにありがとうございました。夢のなかにいるみたいで、ぼく、とっても幸せでした」
幸福の余韻をかみ締めるように星辰がはにかむ。
「民の暮らし振りもみられて、すごく勉強にもなりました」
「遠慮せず、またいつでもいってくれ。医官の許可が取れたら、どこにでも連れていくからな」
祭のなかで星辰を見掛けた商人もいるだろう。星辰が快復したのだとわかれば、彼を支持するものも増えるはずだ。
停車場には、すでに星辰の宮から派遣された迎えの馬車がついていた。
馭者が帽子をはずして、挨拶をする。
「星辰様、お疲れ様でした。どうぞ御乗りください」
星辰が首を傾げた。
「あれ、いつもの馭者さんではないのですね」
「ああ、彼は風邪をひき、休みになりまして。かわりに私が参りました。ご安心ください。安全運転にて宮まで送らせていただきますので」
馭者は鼻をこすり、親しみやすい笑みを浮かべながら頭をさげてきた。星辰が納得して馬車に乗りこむ。
「哥様、妙大姐、この日の事は死ぬまでわすれませんから」
「ほんとに大げさだな」
累神が苦笑する。
「またな、星辰。今晩はゆっくりとやすめよ」
馬が動きだした。
星辰は窓から袖を振る。完全に遠ざかるまで、星辰は名残惜しげにふたりを振りかえっていた。
「累神様……おかしいです」
強張った声が、妙の喉を震わせた。
「なにか、あったのか」
「あの馭者、嘘をついてました」
鼻に触れるのは嘘つきの証だ。それにあの馭者、星辰が尋ねた時、一瞬だけ視線が右側に動いたのだ。
累神が青ざめる。
「っ……すぐに追うぞ、星辰が危険だ」
「で、でも、相手は馬車ですよ」
累神は道の端に繋がれていた他人の馬の絆を外す。鞍も手綱もつけられていない馬に飛び乗って、累神が駈けだした。
◇
星辰は馬車に揺られて、幸せな時を想いかえしていた。
こんなに楽しい時があってもいいのかと想えるほどに幸福だった。
星辰は勉強が好きだ。知識があれば、世界が拡がる。几と倚子だけの房室のなかでも、都の文化を知り、史実の争いを知り、異境の風景を知ることができる。母親もまた、星辰が勉強をしていると喜んでくれた。
だが、星辰が几の外側に関心を擁くことは、母親は頑なに禁じた。危険です。また体調を崩したらどうするのですか、と。
わかっている。病弱な星辰が悪いのだ。
事実、累神に連れだしてもらった後、星辰が倒れることもあった。
けれども星辰は、書物のなかには世界がないことを理解していた。民は几上に暮らしてはいないのだ。
「皇帝、か」
星辰は、累神のことを敬愛している。
彼ほどに強くてやさしいひとを、星辰は知らなかった。皇帝になるのならば、彼のようなひとがふさわしいだろう。
がたんと馬車が揺れた。
馭者が腰をあげ、座席のほうに乗りこんできたのだ。なんだろうと視線をあげた星辰が凍りついた。
「星辰、おまえに恨みはないが」
馭者は剣を握り締めていた。
刺客――本物の馭者を殺して、入れ替わっていたのだ。星辰は逃げだそうと咄嗟に馬車の扉に手を掛けたが、鍵がかかっている。
「っ……や、やだ」
「錦珠様のため、死んでもらう――ッ」
馭者が剣を振りあげた刹那、馬車が激しく揺さぶられた。
夕焼けを弾いて、真紅が燃える。
「累神哥様――」
馬から馭者台に飛び移ってきた累神は星辰を殺そうとしていた馭者を斬りつけた。血が噴きあがる。馭者が絶叫して倒れこむ。星辰は息絶えた馭者の下敷になりかけたが、累神が馭者の背をつかみ、馬車の外に捨てた。
「星辰! 間にあってよかった」
累神が腕を差しだしてきた。
「あ、ぁ、哥様……ぼ、ぼく」
「だいじょうぶだ、俺がいる」
星辰は累神にしがみつく。抱きあげられるように助けだされる。安堵で涙があふれてきた。涙を袖で拭った星辰は累神の背後にせまるものをみて、青ざめ、叫ぶ。
「哥様! 後ろです!」
新たな刺客が襲い掛かってきた。馬車に飛び乗った刺客が累神にむかって、剣を振りかぶる。
星辰の悲鳴が響いた。