3‐17天才少年星辰がくる
「これ、なんですか」
累神から渡されたものをみて、妙はぽかんとなった。
「日蝕の日時だそうだ。はは、やられたよ」
累神がため息をついた。
占星師である旻旻は累神との取引に応じ、水晶の鏡片と引き換えに情報を渡してくれた。だが、旻旻から渡されたのは、難解な計算式が書かれた紙だった。
「私は無知なもんで。鰻が絡まってるか、拉麺をかき混ぜてるか、そういう絵にしかみえないんですけど」
「安心してくれ、俺もだ」
どうみても暗号だ。素人に読解できるものではない。
「いやがらせじゃないですか!」
「かといって、約束を反故にされたわけじゃないからな。責めるに責められない」
累神がひらひらと紙を振った。
みているだけでも頭痛がしてきて、妙は窓に視線を移す。
累神の庭では蒲公英、菫、露草、月見草が夏の日差しをあびて咲き群れていた。俗にいう雑草だが、荒れた土地に根を張るさまは力強く、それなりに庭を賑わせてくれている。思いかえせば、妙が真昼から累神の宮を訪れたのはこれがはじめてだった。
「休日にまで呼びだして、すまなかったな」
「とんでもないです。ただ、これはちょっと、私ではどうしようもないといいますか……うっぷ、みてるだけで気分が」
「さすがに占星師の知りあいはいないからな。どうしたものか」
ふたりして、頭を捻っていたところ、風もないのに、軒端に提げられた風鈴がちりちりと音を奏でた。累神が微かに警戒を滲ませて、腰をあげる。
「誰だ」
「あの、星辰です」
絽の外掛を羽織った星辰が顔を覗かせた。
「連絡もなく、訪れてしまい……ご迷惑だったでしょうか」
「そんなことはないさ。遠慮なくあがってくれ。とはいえ、こんなところまできて、よかったのか? 抜けだしてきたんじゃないだろうな」
星辰の宮からここまで、累神ならば余裕をもって徒歩で通えるが、星辰が猛暑のなかで歩き通すには遠すぎる。
「だいじょうぶです、母様からお許しをいただき、馬車に乗って参りました。皆様のおかげさまで、ずいぶんと体調が落ちついてきたので。あれ、それは……」
累神は「なんでもないんだ」と卓に拡げていた書紙を折りたたもうとしたが、星辰は興味津々に覗きこんできた。
「占星ですか? 星の周期を計算したものですよね」
累神と妙が同時に瞳を見張り、星辰をみる。
「わかる、のか?」
「だ、だって、星辰様! これ、鰻ですよ? いや、鰻ではないですけど、ほぼ鰻というか!」
妙は星辰の肩をつかみ、書紙を指さす。ゴキブリでもいるみたいな剣幕だ。星辰は瞬きをして、再度書紙に眼を通した。
「日蝕の周期、でしょうか。ええっと、この計算だと夏の終わりに日蝕があるんですね。ここの方程式を解けば、正確な日時、秒まで割りだせるようになっています」
「解けそうか?」
「え、はい、紙と筆をお借りできれば」
星辰は十歳にして科挙の試験を通過した俊英だと累神から聴いていたが、占星師に匹敵する程の知識を備えているとは。累神もこれは予想外だったのか、星辰がすらすらと筆を動かして再計算するさまをみながら、息をのんでいた。
「九月の七日。午後三時八分から七分間に渡って、日蝕が続くそうです。昨日発表された即位の儀と同時くらいですね」
星辰が「素敵な偶然ですね」と嬉しそうに語る背後で、累神と妙は視線をかわす。妙の読みどおりだったということだ。
だが、例えば日時を教えられたところで累神にはそれを疑うすべはなかったが、方程式ごと渡されたおかげで、確証が得られた。禍を転じて福となすとはこのことか。
「ありがとう、星辰。助かった」
「哥様の御役にたてたのでしたら、よかったです」
累神が星辰の頭をなでた。星辰は頬をそめて、はにかむ。
「ところで、なにか俺に用事があって訪ねてきたんじゃないのか」
「実は……その」
星辰は緊張して、瞬きを繰りかえす。
「都では今、八年に一度の夷祭が催されていますよね。大陸各地の特産物から商人が選び抜いた希少な品物、諸国の技師や発明家が国の威信を賭けて造りあげた展示物が星の都に一堂に集められて、会場をみてまわるだけでも大陸を端から端まで旅するような気分になれるとか」
「ああ、そうらしいな」
「そ、そこで……なのですが、ぼくも祭を観にいきたいなと」
累神は難色を示す。
「気持ちはわかるが、おまえは病みあがりだろう。無理をして、また倒れるようなことになったら……」
「この頃、とても調子がいいんです。侍医は晩くならなければ、そうそう体調を崩すことはないだろうと。母様からも累神哥様と一緒だったら祭に参加してもよいと御許しをいただきました。ぼく、ずっと夢だったんです。夷祭に参加するのが」
星辰の口調が熱を帯びて、段々と速くなる。
「哥様が御多忙であらせられることは重々承知しています。わがままは、これきりに致しますから」
星辰は垂れめがちの瞳を潤ませた。
(うわあ、捨てられた仔犬の眼だぞ、あれ)
いっさい他意なく、あんな眼ができるのだから、よけいに破壊力がある。累神は眉根を寄せ、葛藤していたが、結局は折れた。
「ほんとうにだいじょうぶなんだな?」
「げんきいっぱいです」
胸を張る星辰をみて、累神は苦笑する。
「わかった。一緒にいこう。そのかわり、ちょっとでも気分が悪くなったり、動悸がしたら、隠さずに言ってくれ。いいな」
「わあ! 累神哥様、だいすきです!」
星辰は感極まって累神に抱きついた。
その様子があまりにも微笑ましく、妙は笑みをこぼす。
(懐かしいな)
いつだったか。妙もまた、姐にわがままをいったことがあった。
風邪をひいた時、粥ではなく、揚げ鶏が食べたいとねだったのだ。あの頃は揚げ鶏といえば、年に一度食べられるか、という高級な食べ物だった。姐はこまったように笑いながら、うんと働いて、腹いっぱいの揚げ鶏を食べさせてくれた――にもかかわらず、風邪をこじらせていた妙は酷く鼻がつまっていて、味がわからず、後悔だけが残ったのだった。
「いつだって、ぼくの夢をかなえてくださるのは、哥様ですね」
屈託なく微笑む星辰は幼けなかった。熟練の専門家が組みあげた占星の方程式を、たった数分で難なく解いたとは想えないほどに。
それでいて、彼の微笑は、何処となく果敢げだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
ここから物語のスピードがあがるので、毎日更新に切り替えて参ります。