3‐16占星師と大胆不敵な第一皇子の取引
うす暗い都の路地を、猫背の占星師が歩いていた。
彼は旻旻という。旻旻は第二皇子からの依頼で水運儀象台の製作を進めていた。これまでの天体観測という概念を根底から覆すような大発明だ。第二皇子が提供してくれた資金のお陰で、製作は順調に進んでいた。
だが、最終段階にきて、不測の事態が起きた。
「こんなことが錦珠皇子にばれたら、どうなるか……ああ」
旻旻は呻きながら、頭を掻きむしる。
発注していた品物が入荷できなくなったと、商人から連絡がきたのだ。
頼んでいたのは水晶の鏡片だった。これは水運儀象台を造るのに最も必要な部品である。星には純度の高い水晶を研きあげて鏡片にするだけの技巧はなく、わざわざ遠い砂漠の都から取り寄せた。
だが、調べたところ、品物そのものは都まで運ばれてきていたことが判明した。横流しにされたわけだ。
約束が違うじゃないかと旻旻は商人を糾弾した。
商人は窮して、三倍の値で購入してくれる客がいたのだと洩らした。
商売は信頼関係が要だ。だから、それが一般の客ならば、損だとしても取り寄せた旻旻を優先するつもりだったが、昔から結びつきの強い豪商の頼みとあっては、断りきれなかった。商人の結束は硬い。
無視しては今後、商売を続けられないと。
秋までにはかならず、取り寄せるといっていたが、それでは到底間にあわない。旻旻は怒りを通り越して、青ざめていた。
錦珠に報告したら、確実に物理で首が飛ぶ。
錦珠は物腰が柔らかく慈愛に満ちているかのように振る舞っているが、実は苛烈な男だ。いつだったか、錦珠に連絡を怠った占星師がいた。翌朝には彼の邸は火事になり、妻子は焼け死んだ。
いっそのこと、荷をまとめて夜逃げをするか。
そこまで考えるほどに旻旻は追い詰められていた。
そんな時だ。彼のもとに密書がきた。
あなたの欲している品物を渡そう。そのかわり、条件があると。
どれだけ疑わしくとも、誘いに乗らないという選択肢は、旻旻にはなかった。
都の裏通りには街燈もなく、人も絶えて、静まりかえっていた。ただ、微かに饐えた臭いが漂ってくる。裏に墓地があるせいだろうか。
「きてくれるとおもっていたよ、占星師」
振りかえれば、紅の髪をなびかせた男がたたずんでいた。
旻旻は度肝を抜かれる。
「なっ、なんで累神皇子が」
動揺する旻旻にたいし、累神は鏡片を取りだして喋りだす。
「まずは教えてもらおうか。錦珠はこれをつかって、なにを観測しようとしている?」
「そ、それは……」
機密事項だ。他言したとばれたら、斬首どころか、族誅されかねない。
累神は「そうか、残念だ」といって、高々と鏡片を掲げた。
「落としたら、確実に割れるだろうな」
旻旻が顔をひきつらせた。
「に、日蝕です。昼に日輪が陰るという天文現象が観測されます。ですがその日時の計算をするためにその水晶の鏡片が必要で……」
腑に落ちたと累神は眼を細めた。
「約束どおりに鏡片は渡そう。だが、計算できたら、こちらにも日蝕の日時を渡してもらう。それが条件だ」
「そ、そんな……ば、ばれたら、私は……」
「ばれなければいいだけだ、そうだろう?」
累神はいっそ、さわやかに笑った。
旻旻は考える。こんな誘いに乗っては、地獄までまっさかさまだ。それならば、まだ錦珠に連絡して、寛大に彼が許してくれることに賭けたほうが――わかっているのに、旻旻は頭を横に振ることがどうしてもできなかった。
「貴公は占星師でありながら、発明家でもあるそうじゃないか」
累神がひとつ、踏みこんできた。
旻旻の瞳を覗きこみ、心理の裏を暴きだす。
「錦珠からの依頼でもあるだろうが、貴公は頭のなかで組みあげた理論、設計した物を実現したいという欲がある――違うか?」
旻旻は否定できなかった。
そのとおりだったからだ。
水運儀象台の最大の特徴は望遠鏡がついていることだ。
膨らんだ鏡片とへこんだ鏡片を組みあわせることで、遠天にある星々が至近に観えるというのが旻旻の提唱した理論だった。他はできあがり、後は鏡片で望遠鏡を造れたら水運儀象台は完成する。
「理論どおりに星が観測できるのか。あるいは……実際に造ってみないと、立証はできないな。まあ、どちらにせよ、日蝕が観測できるのはこの夏だけだ」
旻旻の喉がごくと動いた。
「俺はこれを割っても、構わないが」
累神は終始、微笑を絶やさなかった。声を荒げることもなく、欲望を抉りだして、脅しをかける。
「貴公はそうじゃないはずだ」
「っ……わかりました」
旻旻が屈服するように声をあげた。
「情報はかならず、ご提供いたしますから……鏡片を」
「賢い選択だな。約束を破ったら、貴公が俺に日蝕のことを教えてくれたと錦珠に報せる。錦珠のことだ。貴公を処刑するだけでは収まらないだろうな」
それは、ほかでもない旻旻が最も理解している。
「誓います」
「わかった。俺も約束は違えない。安心してくれ」
旻旻に鏡片を渡して、累神は背をむけた。遠ざかる後ろ姿を眺め、旻旻は今頃になって思い至る。この第一皇子は護衛も連れずに交渉にきたのだと。
錦珠だったら、こんな浅はかなことはしない。使者を差しむけるか。旻旻を拉致して縛りあげてから交渉を始めるだろう。
旻旻が錦珠に事の経緯を報せ、兵隊をひき連れて待ちかまえていたら、累神はどうするつもりだったのか。皇子とは想えないほどに考えなしだ。あるいは危険だと理解していながら、身ひとつでやってきたのか。
約束は破らないという誠意を表すためか。
「はは、すごいひとだ……」
膝から力が抜けて、旻旻はへたりこむ。
旻旻は政にも皇帝というものにも関心がなかったが、皇帝の器とは、彼のようなものをいうのかもしれないとおもった。
お読みいただき、ありがとうございます。
大胆不敵な累神と心理を解く占い師の妙がここからどのように逆転の策を練っていくのか。引き続きお楽しみいただければ幸いです。