3‐14「姐は幸せになるべきひとでした」
最愛の姐を喪った妙の哀しみは重く……そんな妙に累神は……
錦珠こそが皇帝暗殺を策していたのだ。
錦珠は予知された茶杯の底に毒をぬり、皇帝を毒殺した。
「錦珠坊ちゃまは、幼少の頃から毒を調合するのが御好きでした。鳩やねずみ、うさぎなどをつかまえては毒を飲ませ、息絶えるのを観察するのを娯楽となさっていたのです」
「悪趣味にも程があるな」
「ただ、坊ちゃまの憂さを想えば、致しかたないとも」
乳母は眉を垂らす。哀れみが滲んだ。
「錦珠坊ちゃまは御母君から一度たりとも褒められることもなく、御育ちになったので」
累神が信じられないとばかりに声をあげる。
「錦珠は福の星のもとに産まれたはずだ。俺とは違う。妃が、錦珠を冷遇する理由はないだろう」
「福の星に産まれついたからこそ、です」
乳母は視線をさげ、言い難そうに続けた。
「累神様が禍の星に御産まれになったことで皇后様は離宮に移され、妃様はみずからが皇后になれるものと確信しておられました。ですが、その望みがかなえられることは、ございませんでした――累神様は御存知のはずです」
「ああ、……皇帝は、俺の母親を皇后から降格することはなかった。難産で、新たな御子を望めない身になっていたにもかかわらず、だ」
皇帝は累神の母親を愛していたのだ。
「妃様はたいそう憤られ、その御怒りはあろうことか、錦珠坊ちゃまにむけられました。失敗すれば、役たたずといって折檻をし、努力をなさって成功されても、皇帝になれなければ意味がないと頬を張り――」
乳母は涙ぐみ、言葉の端を濁らせた。
「十三年前、皇后様が儚くなられてからは、特に」
「皇帝が新たな皇后を迎えなかったからか」
「ご推察どおりです。妃様は御乱心され、陛下を毒殺してでも皇帝になれと錦珠坊ちゃまをたきつけるようになりました」
累神が顔をしかめた。
「……確か、錦珠の母親は病死だったか」
「左様です。医官は肺病だと診断しましたが、皇帝陛下の件があってからは……妃様も錦珠坊ちゃまに毒を盛られたのではないかと疑っています」
話の軸がずれてきた。累神が本題に戻す。
「月華はなぜ、死んだんだ」
「……錦珠様が突如として月華様を斬り、御命を奪ったのです」
にわかには信じられない話に累神が眉をひそめた。
「なぜだ。それだけ有能な予言者を殺すなんて、錦珠にとっても大きな損失だろう」
月華は監禁されていた。
抜けだして外部に告発したとしても、彼女のような後ろ盾のない女の証言を信じるものはいない。口封じで殺すとは考えにくかった。
「……あの晩、なにがあったのかは、私にはわかりません。ただ、夜更けに月華様の悲鳴が聴こえて。何事かとおもって房室にむかうと、錦珠坊ちゃまが血に濡れた剣を握り締めてぼうとたたずんでおられ……側にはすでに息絶えた月華様が」
心神喪失したように黙り続けていた妙がひくりと喉を跳ねさせた。
「錦珠坊ちゃまは「掃除をしておいて」とだけいって、何処かにいってしまわれて。月華様の亡骸をどうすればよいのか、私にはわからず、なやんで、なやんで、宮の裏にある古井戸に投げこんで……お許しください」
良心の呵責に堪えかねたのか、乳母が泣き崩れた。
「錦珠坊ちゃまを、どうか制めてください……それができるのは累神様のほかにはおられません」
錦珠は人を殺すことにためらいがない。
仁徳なきものが皇帝となれば、いかなる悪政が敷かれるか。想像するだに恐ろしいと乳母は身震いして、累神に哀訴する。
「わかった。そのかわり、貴女には密偵になってもらう」
「承知いたしました。罪を償えるのでしたら、命は惜しみません……」
妙は終始、ふたりの声を遠くに聴いていた。水の底に響いているみたいに声がひずみ、段々と言葉も理解できなくなる。胸を締めつけるような息苦しさに見舞われた妙は倚子をたち、ふらふらと廻廊にむかった。
風にあたれば、気分が落ちつくだろうかとおもったが、いっこうに収まらなかった。妙は降り続ける雨のなかに踏みだす。雨の雫が妙の頬を打ち据えた。
「……妙、濡れるぞ」
追いかけてきた累神が静かに声を掛けてきた。
妙は振りかえらなかった。ただ、ぽつとつぶやいた。
「姐はやさしいひとでした」
「……ああ」
累神は静かに肯定だけをかえす。
「損ばかりしてきたひとでした」
「ああ」
「つらくても、かなしくても、いつだって微笑んでばかりいて」
「ああ」
「幸せになるべきひとだった」
「ああ」
「やっぱり、神サマなんか碌なもんじゃない」
言葉の端が涙で滲んだ。
たえきれずにしゃくりあげて、妙は肩を震わせる。声をかみ殺して、妙は嗚咽する。華奢な背が壊れそうなほどに軋む。
「……こらえなくていい」
累神が後ろからそっと妙を抱き締めた。哀しみに寄り添うように。
「累神、様」
強くならないと。
どんな時でも、笑顔を絶やさずに頑張らないと――そう思い続け、張りつめてきた妙のこころが、ひとつ、またひとつと弛み、ほどけていった。
「う……ううっ、あああああぁぁ……」
あふれだす涙は雨の雫に紛れても、湧きあがる悲しみはつきない。妙は声をあげ、累神の腕のなかで泣き続けた。