2‐12かたちのない薬
「赤の他人を導けると想いこむ傲慢さには敵いませんけどね」
夢蝶嬪の瞳が凍りついた。握り締めすぎてひきつれた髪が、軋む。
「傲慢といわれるのは心外ですわね。わたくしは他人様につくしたいと純粋に望んでいるのですよ。一人でも多くの哀れな患者を助けたい――ですから顧客を増やし、必要な御方に薬が渡るよう努めているのです」
「熱心ですね」
夢蝶嬪を突き動かすものはなんなのか。欲でないのならば。
「助けられなかった御方でもいるのですか」
夢蝶嬪が咄嗟に指を組む。親指を隠して指を組むときは、後ろむきな葛藤を隠している証拠だ。
図星らしかった。
「等しく他人につくすなんてことは、そうそうできるものではありません。人の意識にはかならず、境界線がある。あなたは親しい御方を他人に投映している。だから、献身できる――違いますか」
綿毛のような睫を傾け、夢蝶嬪は唇をほどいた。
「ひとつ、昔話を致しましょうか。母の、話です」
瞳いっぱいに黄緑の光の群を映して、彼女は語りだす。現実の風景を映しているようで、その視線は遥かな時のかなたに馳せられていた。
「母は士族の正妻として嫁ぎました。麗しく、教養のある賢女でしたが、父はそんな母を疎み、妾を続々と迎えいれて、母を離れに遠ざけました。思いつめるうちに母は御身に不調をきたし、臥せるようになりました。激しい眩暈に苛まれて、眠ることはおろか、食も喉を通らず。それなのに、医官には異常はないといわれて……」
澎湃した盆の水が縁を破るように言葉は、あふれ続けた。
「酷い話です。母はほんとうに苦しんでいたのに、気のせいだなんて! その話は父の耳にも届き、仮病をつかう浅ましい女だと謗られ、絶望した母親は命を絶ちました。始終をみていた私は、幼心ながらに想いました」
振りむいた夢蝶嬪の瞳は、涙で濡れていた。
「かたちのない患いには、かたちのない薬が要るのだと」
だから夢蝶嬪は、薬を貰えない、或いは薬が効かない患者たちのために薬水というものを造りだしたのだ。
「これでわかっていただけるでしょうか。私は哀れな人たちを助けたいだけなのだと」
彼女の言葉に嘘は、ない。
だが、彼女がしていることは、まるきりの嘘だ。
「それでも、偽薬は偽薬です。貴方は薬の知識もない、ずぶの素人のはず」
薬師、あるいは医師としての知識を備えて、薬が欲する患者には薬を、偽薬を要する患者には偽薬を、と診断して振り分けているのならば問題はない。だが夢蝶嬪には信念を裏打ちするだけの実績や知識が欠落している。
「貴方は他人を騙している。悪意による嘘だろうと、善意からの嘘であろうと、嘘であるという現実は覆らない。嘘を重ね続けた結果もまた――これは、神の託宣です」
妙は敢えて、その言葉をつかった。
「貴方はかならず、嘘をついたことを後悔する」
水亭の屋頂でぱつと雫が弾ける。雨だ。
託宣という言葉に夢蝶嬪は一瞬だけ、頬を強張らせたが、すぐに唇の端を緩める。
「ご心配を賜りまして、恐縮です。ですが、杞憂ですよ。だってこれは薬ですから」
彼女は結局、最後まで聞く耳を持たなかった。
ただ、ひらひらと微笑むばかり。
「そうですか、……残念です」
妙は諦めて、背をむけた。
想いこみは強い。だが、危険なものでもある。
濡れた風が妙の髪をなでた。疎らに降りはじめた雨の雫を睨み、傘を持っていなかった妙は慌ただしく帰路についた。