2‐11「これは人助けなのですよ」
黄昏に蛍が舞いあがった。
薬を提供する儀式は終わり、患者や信者は潮がひくように帰っていった。長蛇の列ができていた廻廊も人が絶え、風だけが吹き抜けている。
夢蝶嬪の宮は水の庭にかこまれていた。黄緑の星を鏤めて瞬くみなもは、幻想だけを映しだす嘘つきの鏡を想わせる。水鏡は夏にさきがけて綻びだした睡蓮に縁どられて、ゆらゆらと満ちていた。
九曲橋の先に建てられた水亭に夢蝶嬪はいた。
「さきほどはどうも」
橋を渡り、妙が声を掛けた。夢蝶嬪が緩やかに振りかえる。
「ああ、昼の患者さんですね。どうかなさいましたか」
「夢蝶嬪にお尋ねしたいことがあったので」
雨のにおいを漂わせた風が吹き、夕焼けは掻き曇る。
「薬水、でしたっけ。ほんとうにあまかったです。たっぷりとお砂糖を入れたみたいに……いつから、こういったことをなさっているんですか」
夢蝶嬪は静かに視線を逸らす。髪を掻きあげてから、彼女はふうと息をついた。
「見破って、おられたのですね。ええ、そうだろうと思っていました。あなただけは、他の御方とは様子が違いましたから」
夢蝶嬪は落ちついていた。
華光の薬水はいんちきだと妙が訴えたところで、信者たちは取りあわないだろう。彼らは夢蝶嬪に確かな信頼を寄せており、夢蝶嬪はそれを理解している。だから慌てる必要も取り繕う必要もない。
加えて、夢蝶嬪には胸を張れるだけの、確かな根拠がある。
「勘違いをなさっているかもしれませんが」
黄昏の風に袖を拡げ、夢蝶嬪は微笑んでみせた。
「これは人助けなのですよ」
慈愛に満ちた微笑を振りまいて。
「心惑い、思いわずらって、疾患を抱えてしまった哀れな患者たちを助けて差しあげたい。御楽にしてあげたい。私が望むのはただ、それだけです」
「多額の布施を募るのも、宮を豪奢に飾りたてるのも、高価な絹や髪飾りを身につけるのも全部、人助けですか」
夢蝶嬪がついと、微かに眉の端をあげた。
自身の髪を髪をつまんでは弄び、夢蝶嬪は考えこむ。沈黙を経て、彼女はああと声を洩らすと、ひき結んでいた唇を緩めた。
「想いだしました。あなた、後宮の占い師さんですよね」
「……そうですけど」
「たいそう優秀で、心の裏のウラまで看破なさるとか。でも、それだけ有能であらせられるのに、娯楽で立ち寄るものばかりで、信者といえるほどに熱烈なお客様ができないのは何故か――わかりますか?」
夢蝶嬪は嘲笑するように瞳を細めた。
「粗末な服をきて、道端でやっているからですよ」
彼女が言わんとしていることは、妙にはわかる。
人は先入観という想いこみで物事を判別するきらいがある。
例えば、豪奢に飾りたてられた神殿には霊験あらたかな神がいると想いこみ、ぼろぼろの社には祟り神でもいそうな心象を受ける。商品もそうだ。高額なものであるほど、その品に価値があるように感じる。後宮で口紅を販売するのならば、都で販売した時よりも値をあげるべきだと妙が豪商に助言したのも、そうした心理を読んだ商略だった。
特に薬ならば、客は値が張るほど確かな効能があると感じる。
神聖な宮の、天仙を想わせる妃嬪から渡された高額な薬――心理効果は絶大だ。
「私は現状でも満足してますからね。小遣い……というか、ちょいと旨い物を食べられたら、それで充分です」
「そうですか。強欲なのですね」
互いの視線が衝突する。累神がこの場にいたら、火花が散るのをみたかもしれない。
「だってそうでしょう? 私利私欲を充たせれば、それでいいなんて、強欲ですわ。あなたには人を導ける才能があるのに」
「強欲、ですか。なるほど、まあ、食欲が旺盛なのは認めますね、にゃはは」
妙は「でも」と続けた。
「赤の他人を導けると想いこむ傲慢さには敵いませんけどね」
夢蝶嬪の瞳が凍りついた。