2‐7「これは有難い御水なのよ!」
あれが、豪商の妹だ。
花鈴妃は酷くやつれていた。隈ができた眼もとは落ちくぼみ、底知れぬ心労が滲みだしている。乾いて割れた唇を無意識に舐めているせいで、紅が落ちていた。
彼女に連れられた男の子は終始、身を縮め、うつむいていた。だが時々けいれんするように肩を跳ねさせ、鼻をまげるように顔をゆがめる。その様は豚が物笑いをしているようで、異様だった。時々鼻が鳴って、「え」という濁った声が混ざる。
豪商は御子に問題があって、と言葉を濁していたが、なるほど、この事か。
「可哀想に……」
夢蝶嬪はそんな子どもの頭をなで、抱き締めながら、母親である花鈴妃に説教する。
「貴女の御子には鬼が憑りついています。薬の効能は信じてこそもたらされる、華光の神の愛です。御子とは純真なるもの。効能がないとすれば、母親である貴女がまだこの薬を疑っているせいです」
「申し訳……ございません」
花鈴妃がきつく唇をかみ締める。
「どうか、もう一度、薬水を」
「……倍の御布施をいただければ、効能が現れるかもしれませんが」
「払います。払いますから、どうか」
花鈴妃が頭をさげ、懸命に縋りつくと、夢蝶嬪は「承知いたしました」といった。
「効能があるよう、お母様も一緒にお祈りしてくださいね」
花鈴妃はそれに頷いてから、強い語調で子どもにせまる。
「ほら、あなたもちゃんと、真剣に、祈るのよ? いいわね」
杯を渡された子どもは緊張して唇をひき結ぶ。懸命に不随意の運動を堪えようとしているのがわかる。真剣に、というよりは、なおらなければまた叱られる、という強い委縮を感じた。
「どうぞ、お飲みください」
杯が満ちた。水を飲もうとする。だが喉を通らないのか、杯はいっこうに減らない。そのうちに肩が激しく跳ねあがり、水をこぼしてしまった。
「なんで! 飲めないの!」
花鈴妃が声を荒げた。子どもの肩をつかみ、揺さぶる。
「これは有難い御水なのよ! この水のために私がどれだけ!」
言いかけて、花鈴妃は言葉をのむ。
「なんで、なおらないのよ……」
花鈴妃は失意に肩を落として、祭壇を後にした。そんな花鈴妃親子をみる信者たちの視線は非難めいて、とがっていた。
続けて、夢蝶嬪の女官が妙と累神のもとにまわってきた。
「あなたがたは、李命婦のご紹介と聞きおよんでおります。ぜひともまずは一度、水の効能をご体験いただければと」
累神がすかさず高値そうな帯飾りを差しだすが、女官はそれを受け取らなかった。
「不要です。もし薬水を飲み、効能に感謝の想いが湧いたのならば、そのときは御心のままに御納めくだされば」
累神と妙が壇上にあがる。
夢蝶嬪が腕を拡げ、微笑みかけてきた。
「ああ、わたしにはわかります。おふたりとも悩みを抱えておられるのですね。お可哀想に。その悩みは心に憑りついた鬼が造りだしているものです」
累神は眸を細めて、感心したように唸る。
「さすがは夢蝶様です。仰るとおりです」
だが妙には累神の言いたいことがわかる。
(あれ、私が占いを始める時につかう常套句だもんなあ)
悩みがありますねといえば、大抵の者は頷き、理解されていると感じて、喜ぶ。そう想わせてしまえば、後は身の上話を聴きだすのもかんたんだ。
「悩みごとが頭をもたげ、不眠が続いておりました。ぜひとも安眠できるよう、華光の薬水をいただきたいのですが」
「承知いたしました。それではこちらの杯を。効能があらわれる時には水が蜜のように甘く感じられます。まずは、ただの水でご確認いただいたほうがよいでしょうね」
まずは女官が急須から水をそそいだ。
ふたり分の杯が満たされる。累神と妙は同時に飲みほした。
(ただの水、だな)
累神も同じ感想らしい。視線だけで頷きあう。
「私には華光の神から授かった癒しの御力がございます。念を注ぎますね」
夢蝶嬪は女官から急須を受け取った。彼女は想いをこめるように緩くまわしてから、あらためて杯を満たす。
「華光の薬水です。飲んでいただけば、違いがわかるかと」
再度、杯を傾けた累神は、微かに眉根を寄せた。
続けて、妙が確かめる。舌で転がすまでもなく、蕩けるような甘みが拡がった。妙は瞳を見張る。理解するにともなって、段々と細めていった。
これは――――だ。