2‐5神の薬水を施す妃嬪
ここからいよいよ新たな事件の開幕です
その宮は妙と累神の想像を遙かに越え、賑わっていた。
蓮池を跨ぐように建てられた殿舎の廻廊には、遠くから眺めてもわかるほどに長い行列ができていた。妃嬪もいれば、女官、宦官までならんでいる。全員が疾患を抱えた患者なのだから、ぞっとしなかった。
「わあ、商売繁盛みたいですねぇ」
「ここが例の夢蝶嬪の宮だ。士族の姑娘ということもあって、嬪の階級を与えられているが、皇帝を含めて帝族の寵を享けたという記録はないな」
「ああ、よくいるおひとりさま妃嬪というやつですね」
「発端は頭痛持ちの妃嬪に夢蝶嬪が薬水を飲ませたところ、たちどころに改善して、そこから噂が拡がったとか」
妙も累神もこれといって疾患がないため、風評を聞いたことはなかったが、妙薬を処方する妃嬪の噂はすでに後宮の患者たちのあいだで拡がりはじめていた。医官の苦い薬を拒絶して、夢蝶嬪の薬水を頼る患者も増えはじめているとか。
累神は宦官の服を着て、特徴のある赤い髪を帽子のなかに隠している。妙はふつうに女官の制服だ。
妃妾や宦官が続々と殿舎に吸いこまれていく。
まずは遠巻きに眺めていると、後ろから声を掛けられた。
「貴方がたも華光の薬水をもとめて、お越しになられたのですか」
妃妾に尋ねられ、累神は「いや」と言いかけたが、妙が敢えて肯定する。
「そうなんですよ。夢蝶嬪の噂を聴きおよびまして」
妃妾はそうですかと瞳を輝かせた。同時に握り締めていた指を解く。無意識に掌を握るのは緊張、もしくは嘘をついている時の動作だ。それを解いたということは気を許してくれたという証拠だった。
「夢蝶様に診ていただければ、ぜったいにだいじょうぶですよぉ。私も不眠が続いていたのですが、夢蝶様の薬水を飲んでから、すっかりとよくなりましたからぁ」
妃妾の視線の動きを観察するが、嘘をついている素振りはない。夢蝶嬪にたいする信頼が窺える。患者が信者になった例だろう。
「ほんとうですか。実は私も不眠続きなんですよぉ」
間延びして喋るくせを真似しつつ、妙は妃妾に調子をあわせた。
「まあ、そうでしたか。よろしければ、優先して御薬をいただけるよう、私からご紹介させていただきましょうか」
「有難いです」
「先にいって、御伝えしてきますね。それにしても幸運でしたねぇ。夢蝶嬪が薬をくださるのは晴れている時だけなんですよ。華光の薬水ですから」
そういって、妃妾はさきに橋を渡っていった。
「すごいな。それも心理絡みか」
「そんなところですね。鏡効果というんですけど、相手の言動を真似することで好意をもたれやすくなるんですよ。ほら、出身地が一緒だったりするだけでも、親近感が湧くじゃないですか。ちょっとした動き、言葉の調子、表情の移りかわりといった些細なものだと特に、無意識に強く働きかけて、知らず知らずのうちに好意をもってもらえます。やりすぎると逆効果なので、あくまでも、偶然似てるね、くらいのかんじで」
累神は感心してから、眉根を寄せた。
「……それ、男にはやるなよ」
「え、なんでですか」
「なんででもだ」
累神がやたらと強く説きふせてきたので、妙は訳がわからないなりにも頷いておいた。
「ま、でも、こういうところだと誰かを紹介するほど優遇されたりするものですから、心理云々関係なかったかもしれませんけどね」
「ねずみ講みたいなものか」
「そうそう……さて、いきますか」
それにしても華光の薬水か。
事前に累神が調べ、妙に教えてくれたかぎりでは、華光というのは大陸の南部で信仰されていた神だという。妃は南部から嫁いできた士族の姑娘らしいが、信仰が厚いかといえば、そうでもなさそうだ。そもそも伝承によれば、華光は火の神なのに、薬水とは如何に。御利益のありそうな名詞を借りてきただけだろうなと妙は想った。