4‐17「あんただけが、俺を導いてくれる」
いつのことだったろうか。
雲は家庭教師として特例で通っていた彗妃の宮で、累神と星辰が遊んでいるのをみかけたことがある。星辰が六歳だったので、いまから七年程前か。
ふたりは庭で輪鼓をまわしていた。鼓のようなかたちをした輪鼓を紐にひっかけて、まわしながら操る伝統の遊びだ。累神は器用だったが、星辰の手振りはとても危なっかしく、操作を誤って輪鼓が紐から落ちてしまった。
転がっていく輪鼓を拾おうと、星辰が追いかける。
累神は「待て、転ぶぞ」と声を掛けたが、時すでにおそく星辰は木の根に躓いて倒れこんだ。累神が慌てて星辰にかけ寄って「けがはないか」と確かめる。ひざをすりむいているのをみて、累神はすぐに星辰を助けおこし、彼をおんぶした。
雲はぼうぜんとして、それをみていた。
彼が知るかぎり、哥とは弟を蹴落とし、踏みつけにするものだった。助けてくれるものではない。
その時、雲の胸のなかで、燃えるような感情が湧きあがってきた。
星辰が五歳の時に六経を読破した時にも、このような感情は持たなかった。ただ、天が与えた才能というものに感服するばかりだった。だから妬みではない、妬みであるはずがない。ならば、この感情はなんだ。
(星辰様はお可哀想だ)
哀れみだ。
いまはあんなふうに睦まじくとも、やがては争いあう。累神は可愛がっている振りをして、星辰を失脚させる隙を捜しているのだ。
だって、そうでなければ。
(おかしいじゃないか)
ふらつきながら竜椅までたどりついた雲は、豪奢な彫刻の施された椅子の裏側を覗きこんだ。暗くてよくわからないが、なにかがあるようには思えない。
「は、嘘じゃないか」
せっかくなので、竜椅の底にまで腕を突っこむ。不意に毛皮のような物に指が触れた。慌ててつかみ、引っ張りだす。
雪沓だ。
「あ、れ」
ひとつ、ふたつと涙があふれだす。なぜ、みずからがこれほどまでに衝撃を受けているのか、泣いているのか、まるで理解できない。
悔しいような。それでいて、悲しいような。
「そうか、私は」
認めよう。
私はきっと、星辰を妬んでいたのだ。
優秀な頭脳を、ではなく。皇族という身分を、でもなく。
ただ、哥に愛された弟であるということを。
ほんとうはじぶんだって哥弟で遊びたかった。争いたくなかった。
怨まれたくなかった。
声を洩らして雲は竜椅の裏側に身を寄せ、泣き続ける。その声は哀れなほどに幼く、家族とはぐれてしまった小さな子どもが助けをもとめているような、身を切る切なさを漂わせていた。
◇
昼を過ぎても、累神は意識を取りもどさなかった。
連絡を受けた妙は玄嵐に連れられて、皇帝の臥室を訪れていた。臥室には銀の香炉があり清浄な香がたかれている。累神の私物らしき物はなにひとつない。こんなに飾りたてられているのに、がらんどうだ。火鉢では薪が絶えることなく燃やされているが、それでもなお寒々しかった。
「命に別条はなかったのではないのか!」
「そ、それはまちがいございません。なので、ほんとうならば、そろそろ目を覚まされるはずなのですが」
玄嵐に糾弾され、宮廷医は縮みあがる。
「累神様……」
天蓋つきの床榻に身を横たえた累神を覗きこみ、妙はみずからの服のすそをぎゅっと握り締める。
昏睡からさめなかったら――想像するだけでも、足もとが崩れるようなきもちになった。
累神は眉根を寄せて、辛そうに浅い寝息を繰りかえしている。うなされているというほどではないが、彼のことだ、意識の底に落ちても昏い路を彷徨い続けているに違いなかった。
妙は想わず、累神の手を握る。皇帝に触れるなど不敬にも程がある。だが玄嵐は妙をとがめるようなことはせず、宮廷医を連れて後ろに身を退いた。
「累神様、帰ってきてください」
凍えている累神の手をつかみ、妙は何度も声を掛けた。
「こっちですよ、累神様」
声が聴こえたのか、累神の睫が震える。
「累神様、私がいますから」
「……ん」
微かに声をあげ、累神が眼をひらいた。
「妙、か?」
黄金の眼が、妙を映す。
「累神様!」
妙は感極まって累神に抱きつく。累神はまだぼんやりとしているだろうにしっかりと妙を抱きとめ、戸惑いながら髪をなでた。
「すまない、心配をかけたな」
「そうですよ、起きなかったらどうしようと」
「そう、か」
累神は苦笑して、妙を抱き寄せた。耳もとに唇を寄せ、側近や宮廷医には聴こえないよう、声を落とす。
「声が聴こえた、俺を呼ぶあんたの声が。だから、死にたくないと想った。これまで一度だって、そんなことを想ったことはなかったのに、な」
妙が眼を見張る。
彼は壊れている。禍の星として産まれついて、母親を不幸の道連れにしてしまったその時から。
累神は身を離してから、苦笑した。
「あんただけが、俺を導いてくれる」
繰りかえされてきた言葉がこれまでになく、強く、重く、聴こえた。累神はもういちど愛しげに妙を抱き寄せる。
「ちょ、累神様」
玄嵐や宮廷医がいたことを想いだして、妙は慌てる。
「恥ずかしっ……ですって」
「なんだ、あんたから抱きついてきたのにか」
「だ、だって」
累神はからかうように笑いながらも腕をほどくつもりはないのか、一段と強く抱き締めた。天から落ちてきた幸福の星を、離すまいとするかのように。
お読みいただき、ありがとうございます。
累神も意識を取りもどし、ここからまた神託をひっくりかえすための計画が進んでいきます。
そして妙にたいする想いをあらためて自覚した累神は?
引き続き、お読みいただければ幸甚です。