昔に思えば、昔がかえってくる
古い木造建ての一軒家には、長い長い沈黙が横たわっていて、未だ少し肌寒い空気が吹き付けていた。
保子は湯呑にお茶を注ぐ。
白い湯気が立っていて、皺の多い保子の手にほのかな温もりが伝う。
「はい、お茶おいとくねぇ」
「……」
黙って新聞を読み続ける孝蔵。若い時は黒く艶のあった髪も、今では真っ白。
お互いに年を取った。
もう日常となった沈黙に、保子はもう何も感じない。
そんな光景を見続けていた娘の凛は、年老いた父親をまじまじと見つめる。
出されたお茶に手を付ける様子はなく、保子が丁度いい温度に調節したお茶は、どんどんと冷めていってしまうだろう。
久しぶりに実家に帰ってきていた凛は、二人の冷めた関係を見つめながら口を開く。
「飲まずにいたら冷めちゃうよ」
「……」
お茶を出されたことも、娘に注意されたこともしっかりと届いている。
しかし、孝蔵は黙ったまま乾いた音を立てながら新聞紙をめくる。
大した事は書いていない。
「凛〜。 ちょっと来てぇ」
「はいはーい!」
二階から聞こえてきた母親の声に、凛は大きく返事をして立ち上がる。
木目の螺旋階段を軽やかな足取りと駆け上がり、空き部屋に足を踏み入れた。
以前は父が使っていたが、もう随分前に使わなくなった部屋だ。
腰の曲がった保子は、一つ一つゆっくりと段ボールを開いて中身を確認していく。
保子は、久しぶりに帰ってきた娘に、思い出の品を譲ろうと考えていた。
今の若者が何を好むのか分からない保子は、本人から意見を貰おうと考えたのだ。
せっかくの申し出なので、凛も喜んで思い出の品を頂くことにした。
部屋の押し入れに詰め込まれた段ボールを引っ張り出して、中身を確認する。
年代物ばかりで、凛の趣味に合うものは殆どない。
次々と段ボールを開けていくと、凛は一冊のアルバムに目が留まる。
「あれ、これって」
凛は浅緑色の「アルバム」を手に取る。
昔からこの色だったのか、色褪せてこの色に変色したのか。
ざらざらとした感触は、どこか懐かしい。
「ねぇ、これってお母さんの?」
凛は、隣で荷物を整理していた保子に声をかける。
保子は一瞬目を大きく開いた後、目じりに皺を作った。
「……あら。ふふっ、懐かしい」
保子はアルバムを受け取って、一番前のページを開く。
このアルバムは保子の物ではない。
ただ、何度か孝蔵の目を盗んで見ていたものだ。
結局、最後の方は目を通せないままだった。
「あ、この家だ! 白黒だけど変わらないねー!」
白黒の写真には、建てたばかりのこの家と、まだ黒い髪の二人の姿が映っていた。
本当に懐かしい。
ゆっくりとページをめくろうとする。
すると、半開きの扉を開けて、孝蔵が顔を出した。
「婆さん、腹が空いたんだが――」
孝蔵は、保子が手に持っていた浅緑のアルバムを見て声を飲み込む。
「ちょっと待っててねぇー。……よいっしょ! 今からやるからねぇ」
「あ、手伝うよ!」
保子の後を追うように、凛も部屋を出ていった。
部屋に一人残された孝蔵は、棚に置かれた思い出を手にする。
「……懐かしいなぁ」
これは、家を建てた日。
せっせと貯めたお金で建てた一軒家。
これは、もっと前。
ボロボロのアパートの一室で取った写真。お金はなかったが、楽しかった。
これは、もっと前。
これも。これも……。
ゆっくりと手が動く。懐かしい思い出が、孝蔵の頭の中で思い返される。
最後のページをめくると、裏表紙には小さなポケットがあり、孝蔵はすっとそこから一枚の写真を取り出す。
「これは、また懐かしいものが……」
これは、保子にも見せたことがない。
撮ったことさえも教えていない。
ピンクの花びらは、写真では真っ白に映っている。
遠くに見える女性は、昔ながらの制服に身を包んでいて、空を舞う花びらを眺めていた。
孝蔵の心臓が一つ大きく脈打つ。
今はもう、無くなってしまったはずの古い感情が込み上げてくる。
孝蔵はゆっくりと写真をもとの場所に戻し、浅緑のアルバムを棚に置く。
ゆっくりと螺旋階段を降りると、廊下の先には壁にかかったカレンダーを見つめる保子の姿がある。
50年も前のことなのに、本当に。
「婆さん、明日は久しぶりに桜を見に行かんか」
孝蔵は優しい声をかける。
こんな会話、いつぶりだろうか。
少し気恥ずかしい気持ちを抱きつつ、甘酸っぱい感情がそれを越えていく。
保子は笑う。
「……ふふっ、いつぶりかしらねぇ」
保子の笑顔は変わらず綺麗だった。
昔に思えば、昔は返ってくる。
それがどんなに、遠い昔でも。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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