014 何をしたいか
丸一日、訓練所で過ごしたエミルは、興奮冷めやらぬまま、私とレンリに今日の出来事をたくさん話してくれた。充実した一日を過ごせていたことがよく分かった。
明日も用事で家庭教師をお休みする事をエミルに話すと、嫌だよと駄々をこねていたけれど、メルヒオール様が何か耳打ちすると、笑顔になって諦めてくれた。
でも夜のお話だけは読んで欲しいと懇願され、私はエミルの部屋を訪ねた。
毎日読み進めていたオオカミ騎士シリーズの本を最後まで読み終えると、エミルはぐっすりと眠っていた。
メルヒオール様は満足げに眠るエミルの頭を撫でながら呟いた。
「最後の一ページ」
「はい」
「読み終える前に、エミルは寝てしまっていたぞ」
「えっ。もう。エミルったら。続きは……」
続きはまた明日。そう言おうとして言葉が出てこなかった。明日はヴェルネル様に会いに行くのでお休みをもらっている。
夜なら今日のように読めると思う。でも、もしもヴェルネル様のお屋敷で暮らすことにしたら、この時間を失うことになるのだと気付いた。
「ヴェルネルと結婚するのか?」
「へっ。それは……分からないんです」
「分からない?」
メルヒオール様は呆れたように尋ねた。
でも、本当に分からないのだから仕方ない。
「はい。ヴェルネル様のお気持ちは嬉しいんです。私の事も考えてくださっていて、家庭教師の仕事も続けていいって仰ってくれています。でも、こうして夜、エミルの寝顔を見ることは出来なくなりますよね。それに、騎士団のお手伝いは家庭教師の仕事ではないですし、ヴェルネル様に私なんかが釣り合うのか自信もなくて……。私は、ヴェルネル様の側にいて何をしてあげられるのか、何も分からないんです」
ヴェルネル様の想いに、私は答えられるのか、私でいいのか、何も想像できないでいた。
メルヒオール様は、少し驚いた顔で私を見て、エミルへ視線を落とした。
「大切なのは、何をしてあげられるか。ではなく、何をしたいか。なのではないか?」
「え?」
「君やエミルに、何をしてあげられるか考えていた時期があったのだが、それは杞憂だった。君達は勝手に好きに過ごし始めたからな。――今、何がしたいのだ?」
「今、したいこと……ですか? 少し前までは、隣国で女性騎士になりたかったのですが。今は、ここでしたいことが沢山あります」
やっと自由になって、したいことが出来るようになった。ここは、それを誰も咎めず受け入れてくれる。私はラシュレ家の人達が大好きだ。
「俺も、これからもしたいことが沢山ある」
「これからも……ですか?」
「ああ。訓練の後は甘いものが食べたい。それは君が作った物がいい。寝る前には、本を読んで欲しい。たった数ページで寝てしまうエミルの寝顔を、二人で見たい。そしてこうして、誰に気兼ねすることなく、君と話がしたい――何故、泣いている?」
気が付くと頬に涙が伝っていた。
メルヒオール様の言葉で分かった。
私は、ヴェルネル様との新しい生活より、今ここでの生活が大切なんだ。
変えたくない。ここでもっと認められたい。
エミルや新米団員達、それからメルヒオール様やフィリエルの笑顔がもっと見たいんだ。
「私も、そうかもしれません。今の生活が、とても楽しいんです。……でも、ヴェルネル様に申し訳なくて」
「答えを急ぐことはない。ヴェルネルがどんな男か、さほど知らないのだろう? それはフェアじゃないからな」
「フェアとは、何がですか?」
「それは……いや、いい。早く戻れ。明日は早いのだろう?」
「はい。泣いてしまい申し訳ありませんでした。でも、少しスッキリしました。ありがとうございます」
私は少しだけ軽くなった心で部屋を出て、メルヒオール様の言葉を反芻して、気付く。
さっきの言葉は、まるで――。
「ないない。それはないわ」
だって、私はただの使用人で、メルヒオール様は雇い主で。エミルの家庭教師として必要としてくれている。ただそれだけで、他意はない筈で……。
火照る頬を手で扇いで落ち着けて、私は逃げるように自室へと戻った。
◇◆◇◆
エミルをベッドに寝かせると、自然とため息が溢れた。割りと分かりやすく告白したつもりだったが、スルーされた。
今は色々なことが重なり、それどころでは無かったからだろうか。
それとも、俺に全く関心がないのか。
それは流石に……ないよな。
昨日のサウザンの騎士の件、それからヴェルネルの事で気付かされた。コレットがここからいなくなってしまう事が、考えられないほど嫌だということを。
家庭教師として招いた筈なのに、こんなことは駄目だとは分かっている。しかし、昔と変わらぬコレットに安心して、最近自分でも気持ち悪いと思うくらい笑っていることがある。
全部彼女のお陰……と、エミルだな。
エミルはベッドの上で丸くなって寝ている。
一緒に寝始めた頃は、俺の服を掴んでいたり、腕の中に潜り込んできたりしていたが、最近は違う。寝相が悪く、俺の上を転がり越え床で寝ていることすらある。
そろそろ一人で寝られるだろうか。
こうしてエミルは育ち、俺から離れていくのだろう。それは、受け入れられる。
でも――コレットは失いたくないな。




