【短編】会社のみんなが憧れるスーパーエリートキャリアウーマンが、彼の前ではスーパーバブちゃんになる話
ばっばぶばぶ
水上逸子は、スーパーエリートキャリアウーマンである。
小中学校は名門私立に通い、高校は県下最難関の超進学校。大学は東京にある日本で最も有名な場所に進み、しかし幼少期からピアノとラクロスを続け、おまけに必ず生徒会長や部活動の部長に立候補。そして、全ての地位を実力とカリスマで勝ち取ってきた。
社会に出てからも彼女の大躍進は留まる事を知らず、日本人であれば知らぬ者のいない三大財閥の抱える総合商社に異例の女性営業職として就職。3年目には凄まじい実績を上げ、その年に新事業部門の若きリーダーとして抜擢される、これまた異例の大出世を果たす。
そのまま更に成長を遂げ、並の営業マンが見れば腰を抜かしてしまう程の成績を収めると、「人を幸せにする為の会社を作りたい」という理由で会社を電撃退社。この時、逸子はまだ27歳である。
退社後にすぐさま『エクセワーク株式会社』を設立。彼女が幼少からこれまでに培った人脈を活かした、恵まれない子供から大企業の事業プランニングまで、地球上のありとあらゆる場所に人材の派遣とコンサルタントをする事を主な事業とする、これからの社会の成長を大きく担なう会社となったのだった。
そして現在。曜日は金曜。時間は午後5時。東京都内のとあるビルの中規模なオフィスでは、既に仕事終わりの予定を楽しげに話し合う社員たちの姿。その傍らでは、部下たちと同じ場所に並べられた机で書類をまとめる、細いフレームのメガネをかけた細身で黒髪の美女。言わずもがな、水上逸子。歳は、28である。
「社長、少し相談したいことがあるんですけど」
おっかなびっくり、新入社員の前里が話しかける。同じ場所で働いてはいるが、仕事では厳しい。業務上で甘やかす事が、誰のためにもならないと彼女は知っているからだ。
「仕事のこと?」
「い、いえ。ちょっと、恋愛相談を……」
言われ、逸子は前里の顔を見上げた。ピリっとした雰囲気が、彼女の仕事への情熱を物語っている。
だが。
「いいよ。あと三十分経ったらね」
そう言って、彼女は優しく笑った。
逸子は、仕事に一切の甘えはなく、隙間を徹底的に塗りつぶし、一つの妥協も許さない。……許さないが、そのクールな態度の裏側に必ず優しさがある。そして、その優しさは自ずと滲み出てしまうのだ。
だからこそ、社員たち、ひいては彼女を取り巻く全ての人間は彼女を見くびらず、信頼し、そして頼るのだ。
プライベートにおいても、それは例外ではない。女性社員からの恋愛相談は日常茶飯事。男性社員からも多くの相談を持ちかけられ、おまけに海外企業のスーパーエリートからもアプローチをされまくってしまうという、この世界に有り得ていいのかも分からないレベルのモテっぷりを発揮している。
閑話休題。
やがて、終業のベルが鳴った。エクセワークは残業を禁止してはいないが、繁忙期以外に残業している社員はいない。だから、みんなが帰っていくその中でデスクの上をキレイに掃除すると少し早足で、そわそわしながら待っている前里の元へ向かった。
「おまたせ。どこかで、ご飯でも食べていきましょうか」
「は、はい!」
返事を聞いて、二人は最後にオフィスを出ていった。
× × ×
「それなのにですね?彼くんったらですね?」
どうたらこうたら。前里の愚痴、兼、惚気話を、逸子は一度も口を挟まずににこやかに聞いていた。仕事中とはかけ離れた、とても優しげな表情だ。
「だから、私も大変なんですよ」
「そう、前里ちゃんは苦労してるのね。若いのに偉いよ」
言って、フルーツビールを一口だけ飲む。彼女たちは、オフィス街の少し外れた場所にあるダイニングバーに来ていた。
「ところで、水上さんは彼氏さんとはどうなんですか?私、すっごく気になるんですけど!」
前里は、酔っ払っていた。逸子は、メガネを外していた。
因みに、逸子は業務中は社長。業務外では、好きなように呼んでいいと伝えている。メリハリが大切だと、経験則で知っているし、何より彼女自身もまだ若く、会社の外でまで社長と呼ばれるのは少し恥ずかしいからだ。
「どうって……、そうね。まぁ、仲良くやれてるんじゃないかな」
「そうなんですね、羨ましい〜。きっと、彼氏さんは水上さんにべた惚れなんでしょうね。やっぱり、いつも甘えられてるんですか?」
「どうだろ。でも、持ちつ持たれつって感じだよ。特別、どっちかが頑張ってる事はないかな」
「そういえる関係っていいですね〜。彼くんなんて、私が構ってほしくてもゲームしちゃうし……」
そして、再び前里は愚痴を始めた。
そんなこんなで、気がつけば時刻は8時。帰るには、そろそろいい時間だ。
「それじゃあ、また月曜日にね」
「はいっ!今日は、本当にありがとうございました!すっごく元気出ました!」
「そっか。前里ちゃんがそう言ってくれて、私も嬉しいよ」
「えへへ。それでは!」
言って、前里は逸子とは別の改札へと向かう。そして、ゲートを通る手前で一度振り返って礼をされたから、見守っていた彼女は小さく手を振った。
(……帰ろ)
考えた時、逸子の足は自然と速くなっていた。改札を通り、外回りの電車に乗って、5駅隣で降りると南口から大通りへ向かう。
足は更に速くなっていく。
肩にかけている鞄の紐は、片方が二の腕まで降りてしまっている。しかし直すことはせず、たったかたったか、長い髪の毛を揺らして遂には走り始めてしまった。
マンションのオートロックを外す。その場で小さく足踏みをしながらエレベーターを待つ。5階を押して、上に到着するのを待つ。
通路を通って、一番端っこの部屋へ。鍵を鞄から取り出したが、一度手から落ちたのを世話しなく拾って、ようやくガチャリと扉を開けた。
……靴は、静かに脱いだ。廊下も、静かに歩いた。リビングの扉を開けた。すると、そこにはエプロンを身に着けて、チーズとオリーブを乗せた皿とグラスが2つ置かれたテーブルの前に、赤ワイン一本を手に持った、人に紹介すれば「優しそうだね」と言われる程度の感想を生み出すであろう、普通の見た目をした青年が立っていた。
「おかえり、逸子ちゃん。早かっ……」
「パパ〜!!」
言って、逸子は彼に抱きついた。
「あのね?逸子、今週も頑張ったよ?だから、ナデナデして!」
「あ、あはは。よしよし、よく頑張ったね」
「えへへ」
水上逸子は、スーパーエリートキャリアウーマンである。
そして、スーパーバブちゃんでもあるのだった。
「パパ〜。あのね?今週はお仕事たくさんあったの。怖いおじさんともお話したの。逸子ね?すっごく怖かったの」
「そっかそっか」
「それでね?逸子のお友達がお仕事間違えちゃってね?だから、逸子すっごく大変だったんだよ?偉い人が、みんな逸子のことイジメるんだもん」
「それは、大変だったね」
「でもね?逸子すっごく頑張ったから、全部ちゃんと出来たよ?それでね、いっぱい褒めてもらえたの!」
「そっか、逸子ちゃんは偉いね」
「えへへ」
彼は逸子より3つ年下の、4カ国を操る翻訳家である。在宅ワークが主な為、毎日の家事を彼が務めているのだ。
「……ふわぁ。逸子、ちょっとお酒飲んだから眠たくなっちゃったの。だから、先にお風呂入れて?」
「じゃあ、お洋服脱ぎましょうね」
「脱がして〜」
言われ、彼は赤ワインのボトルをテーブルに置くと、逸子のジャケットを脱がそうと体を離した。
「いや!離れちゃめっなの!」
「でも、そうしないとお洋服脱げないよ?」
「いや!お風呂やめる!パパから離れたくない!」
グリグリと頭を擦りつけて、逸子は「うぅ〜」と謎の唸り声をあげた。
「じゃあ、そっちのソファに座ろうね」
「お膝に乗っていい?」
「いいよ」
そして、彼がソファに座り、逸子はその上に横向きに座って、首の後ろに腕を回した。
「映画でも見よう。逸子ちゃん、何かみたいのある?」
「怖いのみる!」
「平気?」
「パパが居るから平気なの!」
平気じゃなかった。
序盤からの不穏なBGMで既に震えだして、ショッキングなシーンが流れるたびに逸子は「怖い」と言って腕に力を込める。その繰り返しで、終盤はもうずっと「大丈夫だよ」と頭を撫でられているだけであった。
因みに、彼にはそれは分かってた。逸子はやたらとホラー映画を見たがるくせに、絶対にこうなってしまうのだ。今回は悪魔モノで、見慣れた人間にとっては割かしギャグ寄りの映画だったが、それでも彼女にとっては怖いと思える作品だったようだ。
「終わったよ、逸子ちゃん」
「……すー……すー」
時刻は午後10時過ぎ。逸子は、いつの間にか眠っていた。だから、彼は彼女のジャケットとシャツを脱がして、二人で眠るには少々狭いセミダブルのベッドに運んだ。何故このサイズなのかは、お察しの通りである。
(まぁ、明日は休みだし、シャワーは朝でいいかな)
そして、彼はテーブルに戻ると赤ワインをグラスに注いで、オリーブとチーズをクラッカーに乗せて食べてから、ノートパソコンを開き仕事を再開したのだった。
× × ×
水上逸子は、スーパーエリートキャリアウーマンであり、スーパーバブちゃんである。そして、彼はそんな彼女の恋人であり、あるいはパパであり、あるいはママであり、お兄ちゃんでありお姉ちゃんであり、おまけにしっかり者の弟か妹でもあった。しかし、二人が同棲するに至った関係は、いずれにも当てはまらない先生と生徒であるだろう。
会社を立ち上げた時、逸子は世界中に人材を派遣する為に多くの語学を操ることの出来る人間を探していた。そんな時、アウトソーシングの通訳として商社時代の知り合いに紹介されたのが彼だった。
「……あれ」
一目見て、逸子は気がついた。彼が、幼い頃に近所で一緒に遊んでいた少年であると。小学生の頃、駄菓子を食べて見たくて店の中を覗いていた時も、雷が降って怯えていた時も、勉強や習い事が辛くて家出した時も、必ず助けてくれた彼であったと。
「失礼ですが、どこかでお会いしたことが?」
そう言われた時、何とも言えない感覚を逸子は感じていた。これまでに何人もの人々を率いて来た、両親ですらも甘える事をしなかった彼女が、唯一体を預けることの出来た少年。この再会に名前をつけるのならば、きっと運命というのだろう。
「……社長の水上です。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「あぁ、すみません。どうか、お気を悪くしないでください。社長が、あまりにも昔の知り合いに似ていたもので」
他にも社員が居た為、立場上そこで返事をするわけにはいかなかった。
だが、それこそが逸子の心に彼を決定的に印象付けるきっかけとなったのだ。
「それでは、講師も引き受けていただけるのですか?」
「えぇ、喜んでお受けします」
会議が進む中、一人だけ一切集中していない者がいた。
言うまでもない、逸子だ。
(どうしよう、せっかく再会できたのに。あんなに冷たい態度を取ってしまった)
この時、まだバブちゃんではない。ではないが、過去に心を許したという感情が、彼女を強く揺さぶったのだ。
(けど、年下だったんだ。てっきり、私と同じか年上だと思っていたけど。案外、記憶って役に立たないのね)
「社長」
(こうしてみると、すっごく普通。あの時は、本当にかっこよく見えたけど)
「社長」
(でも、雰囲気は全然変わってないな。というか、私別人だと思われちゃってるな)
「社長?」
「は、はい。なに?」
「何って、会議が終わったので」
何とも言えない空気と、何をいうワケでもない彼の顔が、逸子の心情をかき乱す。そして、今までのどんな部下たちでも見た事の無い逸子の言葉を失った姿。何がそうさせたのかは誰にも分からなかったが、しかし、そんな中でもやはり、彼は口を開いたのだ。
「大丈夫ですか?水上社長」
この言葉こそが、二人が再びともに歩く事になるきっかけであった。
× × ×
逸子が目を覚ましても、彼はまだ仕事をしていた。というよりも、逸子より早く起きて仕事を始めていた。彼は所謂フリーランスだから、出来る限りの仕事をこなそうというクセが付いてしまっているのだ。
「おはよう」
声を掛けたのは、寝ぼけながら背中に抱き着いた逸子ではなく、モニターを覗いてタイピングを続ける彼の方だ。
「お兄ちゃん、おはよう」
どうやら、今日の彼はお兄ちゃんで、逸子は妹であるようだ。逸子は、今の感情によって役割を変えるよく分からないクセがある。
(……という事は、あんまりお腹が減ってないんだな)
要するに、お兄ちゃんらしい事をして欲しいのだ。兄が小さな妹にする事と言えば、とりあえずは遊んであげたり、体が汚れていれば風呂に入れてあげる事だろう。
「どうしたの?」
「逸子、お風呂に入りたい」
言われ、彼は浴槽を綺麗に洗い、そこに湯を張った。その間、逸子は朝アニメを見ながらアイスクリーム、チョコレート味を食べていた。
「こら、朝ごはんの前だよ」
「だって、これは昨日の夜の分だから……」
取り上げられて、泣きそうになりながらあたふたする逸子を、彼はほんの少しだけ慰めてからアイスに蓋をして冷凍庫にしまう。そして、隣で一緒にアニメを見てから彼女を風呂に入れた。
電話が鳴ったのは、風呂を出てから十分程経った頃だった。朝ごはんを用意する彼の後ろで、バイブレーションが響いている。
「逸子ちゃん、電話」
「出たくないよぉ」
「出たくないって、会社の人たち困っちゃうよ?」
「いやらも~ん」
等と言いつつ、彼女は立ち上がってスマホを手に取り、スッと画面をスライドした。
「はい、水上です。……はい、どうもお世話になっております」
相手は、取引先の顧客であった。
「……えぇ、そうですか。それはよかったです。……いえ、時差を考えれば、仕方ない事です。お気になさらないでください。……はい、はい。そうですね、来週の水曜日にはお送りいたします。……わかりました、はい。いえ、こちらこそ、橋本さんにはいつも感謝しておりますよ。……はい、それでは失礼いたします」
あぁ、これはまた始まるな、と。彼は逸子の顔を見て思った。
「逸子、頑張ったよ?」
「そうだね、偉いね」
「えへへ。じゃあ、ちゅうして?」
「火を使ってるから、ちょっと待ってね」
「いや!今がいいの!」
彼は知っている。逸子の求めるキスとは、一度だけ触れあって終わるモノではない事を。そして、それが大人のキスかと言われればそうではなく、子犬がじゃれて抱き着いて、首や頬に何度も口を当てるモノである事を。
「……もう、仕方ないなぁ」
彼は、ソースを煮詰めていたフライパンの火を消して、濡れ布巾の上に置くと逸子の少し濡れた髪の毛を撫でる。テレビは既にアニメを終わらせて、ワイドショーが流れている。
それから、緊張や興奮も無しに、正確に言えば変な興奮はしているのだが、色っぽいあれではなく。そんな感じで、逸子は強く抱きついて何度もキスをした。こうなってくると、照れてしまうのは彼の方だ。甘える彼女を愛しく思うのと同時に、くすぐったさと大胆さに琴線をくすぐられて、どうしても困ったような笑いが出てしまう。ただ、それを見上げる逸子は、まるでもっと困らせたいと思っている、というか実際にその顔をみたいのが半分くらいの気持ちで、何度もやわらかさで触れた。
彼は、逸子が首や頬に唇で力を入れる姿を見て、いつからこうなったかを考えていた。
たしか、付き合い始めた頃はまだ、凛々しくて強がりだったはずだ。きっと、誰からも頼られるであろうという想像が容易につく、温かくもクールな振る舞いが残っていたはずだ。
最初に思い出したのは、同棲も始めていない頃、昼のカフェでケーキセットを選んでいた時だった。
「どっちも食べたいの?」
「そ、そんなことないわ。えっと、えっと……」
彼には、逸子が迷っているように見えた。それは、どの味を食べたいか、ではなく。シックな大人の雰囲気が漂うチョコレートケーキか、それとも一番下の棚に並んでいる、ファンシーでかわいらしいチョコレートケーキか。素材に多少の違いはあれど、酒を使っている紹介も無かったから、間違いなく見た目でだ。
陳列されている場所からも、明らかに子供向けのケーキだった。ホワイトチョコの細工菓子が乗せられている、ホイップクリームといちごのチョコレートケーキ。選ぶ彼女を見ている時、彼はときどきそっちに目線が動くのを見逃さなかったのだ。
「すいません。その下のチョコレートケーキを俺に。こっちの上のチョコレートケーキを彼女にください。あと、紅茶2つ」
しゃがみ込んでいた逸子は、思わず彼を見上げてしまった。
「俺も、それがよかったんだ。かわいいよね」
当然、嘘である。しかし、それが嘘だと分かっていても、自分が読まれていた気恥ずかしさと、自分のイメージする自分を否定してくれるかもしれないという希望が、確かに逸子の中に芽生えたのだ。
それ以来、逸子は少しずつわがままを言うようになっていった。言葉で何かを伝えてもらうより、ありのままの自分を受け入れてもらうことの方がよっぽど嬉しいということに気がついたからだ。
そして、いつしかわがままはボルテージを上げていき、遂には幼児退行が始まるまでになってしまった。しかしそれは、幼い頃から期待を背負っていた彼女にとって、当然の帰結だったのかもしれない。
つまり、彼女のやり方は25年間遅れていて、そこに恋愛まで含まれているからさあ大変。見た目は大人、中身は子供の逆名探偵現象が起きてしまったというワケである。
(なるほどなぁ……)
自分の出した答えに納得すると、彼は少しだけ笑ってから逸子の体をキツく抱きしめた。
「偉い偉い、よく頑張ったね」
「うん!」
「うりうり。ここにちゅうしてほしいのかな?ちゅ」
「うへへ」
「逸子ちゃん、いっぱい頑張ったから今日は好きなモノ作ってあげる。何食べたい?」
「えっとね?お肉食べたい!あとトマトのスープ」
「いいよ。それじゃあ、後で一緒に買い物行こうね」
「うん!」
「一緒にケーキも買ってあげる。だから、今日はアイス食べちゃダメだよ?」
「やったぁ!逸子ね?いっぱいフルーツ乗ってるのがいいの!」
「おいしいの、あるといいね〜」
そして、彼もまた普通ではないのは、逸子のダメっぷりを見ればわかることだろう。
世の中には、ダメ男を製造する女、というのが存在する。恋人、あるいは妻に全てを委ねて甘え、いなくなってしまえば一人では何も出来なくなってしまうような、甘えに甘えを重ねた腑抜けた男をいかんなく製造する天使であり悪魔でもある魔性。
彼は、その逆。つまり、ダメ女を製造する男である。
彼は不思議と、自分の恋人が望んでいるコトをナチュラルにこなす事が出来る男だった。頼られたい女には程よく頼るし、甘えたい女には程よく甘えさせる。そうやって過ごしているうちに、いつの間にか女は彼無しでは居られないほどに依存してしまい、結果逸子のようになってしまうのだ。
言わば、真正のドS。サービスのS、マスターのMの役割を理解し、望まれるように尽くす。タチが悪いのは、彼が自分のやり方に無自覚である事だろう。翻訳家の道を選んでいなければ、ひょっとするととんでもない悪者になっていたかもしれない。
しかし、それはまた別の話。
「それじゃ、ごはん食べよっか」
気がつけば、逸子の髪の毛が乾くくらいの間、イチャイチャとしていたようだ。そろそろ昼に差し掛かった頃の朝ごはんは、パングラタンとオニオンスープ。どちらも、逸子の大好物だ。
× × ×
「水上社長、今日はお忙しい中来ていただいて、ありがとうございます」
「気にしないで。せっかく、仕事に一区切りついたんだもの。私も、チームのみんなとお祝いくらいしたいよ」
数カ月後。今日は兼ねてから予定されていたプロジェクト完了の打ち上げの日だ。
新卒の前里を含む若いメンバーが3人に、会社の立ち上げメンバー(年上)が1人。この合計5人のメンバーにて、ヨーロッパのとある医療機関で割と大きな案件をこなしていた。
「それじゃ、リーダー。乾杯をお願い」
逸子が声をかけたのは、今年で社会人3年目の男性社員、立花だ。
「わかりました!それではみなさん、3ヶ月お疲れさまでした!」
「かんぱ〜い!」
立花は、とてもデキるタイプの男だった。一本気で曲がった事を好まず、主義や主張をストレートに伝える、いわゆるエリートのサラリーマン。逸子は、彼の姿に微かに昔の自分を見ているようで、少しだけ懐かしく思うことがある。
話は基本的に立花が回して、逸子の同期の新田という男性社員と逸子が聞き役となり、前里と草野という女性社員が広げるという、極めて一般的な集団トークの形であった。
酒が進むうちに、段々と口調も話題も砕けて行って、おまけに逸子も新田も苦労話を語って聞かせる事が好きではない為、若手三人の盛り上がりは加速していく。そんな中で口を出るのは、やはり恋愛トーク。今も昔も、恋愛事情を聞くのが好きな人間は多いらしい。
「最近、疲れてるのに彼氏が甘えてくるんですよ」
草野の言葉を聞いた逸子には、心臓に何かが刺さったような感覚があった。
「別にいいじゃん。それくらい」
立花は、ハイボールを傾けた。
「それが、彼は年上なんですよ。最初は頼り甲斐が合ってかっこいいって思ってたのに、だから何か最近違うなって思って」
「いいじゃないですか。構ってもらえてるんですから」
前里は、相変わらず寂しいようだ。
「それがさぁ、何かとべたべた引っ付いてくるんだよ。料理してるときも、こっちは忙しいんだから後にしろって思うでしょ?」
グサ。
「あぁ、確かにそれはウザいかもな。つーか、年上に甘えられるってかなりうざそう」
グサグサ。
「そういうモノですか?」
「そういうモンだよ。というか、普段とギャップがありすぎてキツイ奴っている。他の人の前ではカッコつけるし、二人の時もそう言う態度でいてくれたらいいのにって思う。そう思いませんか?水上さん」
グサグサグサ。
「……社長?」
新田は、小声で逸子に話しかけた。しかし、彼女は一切返事が出来ないでいる。しかし、酒が入っている空か、会話はそのまま進んでいく。
「まぁ、結婚はあり得ないかな。頼り甲斐のない年上って、意味わかんないし」
「あぁ、それは言えてるかもしれませんね。最初と違った部分を見せられると、いくつ想像と違う現実見せられるかわかりませんし。私の彼くんなんて……」
と、前里の愚痴が始まったが、今の逸子にはそんな話を聞いていられるほどの余裕はなかった。
逸子は、世間のイメージから来る結婚願望に振り回されて婚期を気にするような愚かな女ではない。ただ、彼と結婚出来ないのが死ぬほど嫌なのだ。
「社長、どうしました?」
若手に聞かれないように、再び小声で訊く新田。カタカタと震えて顔を向けた逸子は、泣く五秒前みたいな顔をしている。
「……えっ?な、な、なにか?」
「なにかって。なんか、おかしいですよ。酔っぱらったんですか?」
「酔っぱらった?あぁ、うん、そうかもしれないです。うん、そうかも。あは、あはは……」
前の会社からの知り合いである為付き合いが長い新田だったが、動揺する逸子を見るのは初めての事だった。
「苦しいなら、帰った方がいいんじゃないですか?」
「苦しい?あぁ、うん、そうかもしれないです。あはは、えっと。……新田さん、何でしたっけ?」
「……タクシー、呼んできます」
という事で、逸子はテーブルの上に財布の中身を全て置いて(明らかに多い)、ロボットのようなカタコトで三人に別れを告げると、新田の手を借りてタクシーまで向かった。
「彼らには俺からうまく言っておきますから、安心してください」
「お、お、お願いします。すいません、ごめんなさい」
「いいですから、ゆっくり休んでください」
言って、見送られながら家へと向かった。
マンションについて、フラフラと揺れながら部屋へ向かう。扉の鍵を開けて中に入る。しかし、電気が付いていない。どうやら、彼は出かけているようだ。
「あっあっ、へっ?えっと、でんわ……」
何やら色々な感情が混ざり合ったまま電話を掛ける。しかし、待てど暮らせど繋がらなくて、真っ暗な部屋にはスマホの灯りにともされた逸子が座り込んでいるだけだ。
「うぅ……なんでよぉ……。ひっく、でてよぉ……」
あぁ、泣いてしまいましたね。
逸子は、若手に言われた言葉に自分と彼を重ねて、別に訪れていない悲しい結末に浸って悲しくなってしまったようだ。
「いやだよぉ……。うぅ……」
ペタンと座り込んだままベソをかいて、挙句の果てには考えなくてもいい色んな事を考えて、そのせいで余計に悲しくなってしまった逸子は、一体何に謝っているのかも分からずに彼のラインに「ごめんなさい」とメッセージを送り始めてしまった。
しかも、四回。
だが、やはり既読はつかない。いよいよ収集がつかなくなってしまったが、そんな時に玄関が開かれた。ガサゴソと物音が立っているが、逸子には自分の泣き声と想像で聞こえていないようだ。
やがて、リビングの電気がつけられる。そこに立っていたのは、言うまでもなく彼だ。
「あれ、逸子ちゃん帰ってたんだ」
「……わぁ」
「わぁ?」
「わぁぁぁん!!」
当然、彼にはどうして逸子が泣きながら縋りついてくるのかが分からなかった。分からなかったが、なんとなく「余計な妄想でもしたのかな?」と考えると、持って帰って来た仕事の書類と酒の入ったビニール袋を床に置いて、ナデナデと彼女を慰めた。
「辛かったの?」
基本的に、彼は何があったのかを聞かない。辛いときには説明する事すら難しいと、彼自身が知っているからだ。
「……うん」
「そっか。よく頑張ったね。よしよし」
しかし、今日ばかりは生半可なナデでは通用しないようだった。固く縋りついて泣きわめく逸子は、完全に体が大人の三歳児だ。
色々と手を尽くしたが、けれど結果は現れず、本格的に困り始めたその時だった。彼は一つだけ考え事をしてから、こんな事を口にした。
「ねぇ、逸子ちゃん。こんな時にする話じゃないのかもしれないけどさ」
「いやらぁ……」
「お互い仕事もひと段落したし、結婚しない?」
「いやら……ふぇ?」
力が緩んだのを見計らって、彼はしゃがんで目線を合わせた。
これが、彼のダメ女を製造する男の所以である。不思議なモノで、彼には相手が欲しいと思っている言葉が分かるのだ。まるで第六感が働いているかのように、ピタリと正解を言い当てる。それも、一番効果的なタイミングで。
「今日、プロジェクトの打ち上げって言ってたからさ、そっちも終わったんじゃないかと思ってさ。本当は、もっと頭が働いてる時にいう事だとは思ったんだけど。……どうかな?」
「あわわ……」
逸子の脳みそから、悩みと一緒にかすかに残っていた理性すらも吹き飛んで行ってしまった。だから、彼女のアホ丸出しの返事も、どうか見逃してあげて欲しい。
「……すゆ」
「え?」
「すゆ。けっこん、すゆ」
彼は、思わず笑ってしまった。しかし、それと同時に自分の一世一代のプロポーズが成功したことに、一抹の達成感を覚えていた。例えこんな時でも、恐いモノは恐いのだ。
「それじゃ、今日は寝なよ。明日、もう一回ちゃんと話するから」
「いや、もっかい」
「え?」
「もっかいいって」
「……結婚する?」
「すゆ」
かくして、逸子のどうでもいい悩みは解消され、二人は幸せに暮らす事となったのだった。
しかし、彼は一つだけ逸子には内緒で誓った事がある。それは、いつか生まれる自分の子供には、期待や夢を背負わせ過ぎないようにしようという至極当たり前のモノだった。
こんなんも書いたので、よかったらどうぞ。
アオハル・オブ・ザ・サイコ
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