後日談
それから、ユディタ達が崖の下から無事に生還して数日経った頃。
修道院すぐ近く、開けたその場所に、新しく改修工事が終わった池はあった。陽の光に照らされて、水面がキラキラと輝いているのが眩しい。
そして、そこから少し離れた小さな丘の途中にユディタは居た。なだらかな斜面を一心不乱に登っていきながらも、その両手には魚の串焼きがしっかりと二本握られている。
外はこんがり中はふっくらと焼かれたその串焼きは香ばしい匂いをさせて、ユディタの食欲を存分に刺激してくる。視界にチラつくそれにかぶりつきたい衝動をなんとか抑えて、ユディタは丘を登り切る。
周りより少し高くて平たいその場所に、お目当ての人物は居た。
「やっと見つけたエドアルド騎士!」
ユディタが呼びかけると、しっかりと伸ばされた背筋がくるりとこちらを向く。相変わらず殺し屋みたいな鋭い目つきだが、これはいつも通りのことなので特に気にすることなくユディタは近づいた。
「もー! 何ですぐどっかいっちゃうんですか。貴方は今日の主役になったんですから、もっと大人しくしててください」
「……主役になったつもりはないが」
「つもりはなくても、なっちゃったんです! 大会に優勝するってのはそういうことです」
「まったくもう! なに一匹狼してんですか」と、ユディタはプリプリ怒りながら、エドアルドの隣にやってくる。
「せっかくお休み貰って来られたんですから、もっと楽しまないといけませんよ!」
そうなのである。洞穴ではユディタの釣り大会の誘いを「そんな暇はない」とバッサリ断ったエドアルドであったが、何だかんだで来てくれた。それどころか、ユディタを差し置いて釣り大会に優勝までしてしまったのだからすごいものである。真顔でその道のプロのようにホイホイと池の魚を釣っていくので何事かと思った。
本人は何も言わずにしれっとここに居るが、多忙な人なので、きっと鬼のようなスピードで予定を捌いて今日の時間を作ってくれたのだろう。来てくれたエドアルドの姿を見た瞬間、嬉しさのあまり抱き着こうとしたユディタを闘牛士さながらに躱したのは、その頑張りに免じて許してあげることにした。
ユディタは手に持っていた魚の串焼きのうち一本をエドアルドに差し出す。
「はい! どうぞ。今日釣れた中で一番大きい魚です。大会の一位と二位にどうぞって司教様がくれました」
「そうか、有難い」
「ふふん。エドアルド騎士に釣った数では負けましたけど、この大きい二匹は私が釣ったんですよ!」
胸を逸らし何やら得意げな様子のユディタは、そのままもう一本の串焼きに齧り付くと、あっという間に平らげてしまった。目にも留まらぬ早業である。
それを静かに見ていたエドアルドは、彼女の前にとある立派な木箱を差し出した。それを目に入れた瞬間、ユディタの瞳がカッ!と大きく見開く。
「こ、この木箱は!優勝賞品の最高級白パン……!」
「お前が食べるといい」
「えっ⁉︎ い、いらないんですか⁉︎ せっかく優勝したのに⁉︎」
「俺にはこの魚がある」
ユディタに箱を渡すと、エドアルドも魚を無言で食べ始めた。しばらく箱と彼を交互に見ていたユディタだったが、やがて意を決したように箱に手をかけた。
「ふおぉ……! こ、これが最高級白パン……!」
立派な木箱に入っていた白パンを恭しい手つきでひとつ取り出すと、ユディタはそれを空にかざした。
青空に映えるこの白いパンは、きっと雲のようにフワフワなのであろう。見た目は普通の白パンと少しも変わらないのだが、だんだん神々しく見えてくるから不思議だ。これが最高級の力だろうか。
「美味しそう……ハッ! いけない、いけない」
ついつい白パンに見惚れてしまっていたユディタだったが、慌てて正気を取り戻す。そのまま食べてしまいたい気持ちを何とか抑えて、ユディタは白パンをまた元の木箱に仕舞う。隣に居るエドアルドを見ると、彼は箱に付属していたカードを読んでいた。ちなみにカードの裏面には、「私が監修しました」というメッセージと共に第二王子の直筆サインが書かれている。
「いらんのか」
「いるかいらないかで言えばめちゃくちゃいりますけど、本当に良いんですか? エドアルド騎士、せっかく優勝したのに」
「…………」
「エドアルド騎士?」
「……別に、パンが欲しくて参加したわけではない」
「えっ、そうなんですか?」
意外な事実に少しだけユディタは驚く。まあ確かにユディタや第二王子ではあるまいし、パンを熱烈に欲しがるエドアルドはあまり想像できない。ちなみに第二王子はユディタと大きく差をつけて三位である。大会後「まだまだ君には追いつけそうにないな……」とまた白パンに話しかけていた。その光景にもう慣れつつあるのが怖い。
そんな取り留めのないことを考えていると、こちらを見つめるエドアルドと目が合った。何か言いたいことがあるのかと、反射的にユディタも見つめ返す。
「…………」
「…………」
エドアルドは特に何を言うわけでもなく、じっとユディタを見つめたまま黙っている。無言で見つめ合っていると、だんだんとユディタは恥ずかしくなってきて、頬にほんのりと朱が差し始めた。
「……あの、エドアルド騎士? どうかしましたか?」
「……いや」
「流石に私も、そ、そんなに見つめられるとですね、て、照れちゃうっていうか……」
「……祝福は、」
「え?」
「祝福は、しないのか」
エドアルドの「祝福」という言葉で、ユディタは今の不自然な間が何だったのかをようやく理解した。
つまりその、今までの沈黙はユディタが祝福として額に口付けるのを待っていたとか、そういう……?
頭に浮かんだ考えを咀嚼した瞬間、ユディタは「ヴッ……!」と突然胸を押さえた。彼女の奇行は今に始まった事ではないため、別段驚きはせずにエドアルドは尋ねる。
「どうした」
「え、エドアルド騎士が急にそんな心臓に悪いことをいうから……! 嬉しさで、ど、動悸が……!」
「いや、無いなら無いで良い」
「いいえ! やります! やります! この聖女ユディタ! 誠心誠意エドアルド騎士に祝福を授けさせていただきます!」
「喧しい」
毎度お馴染み、エドアルドがユディタの両頬を押し潰して彼女を間抜けなタコ面にさせてくる。しかし今回はそれが彼の照れ隠しだと分かっているので、嬉しさでユディタの顔は緩みまくってしまう。ゆるゆると余りにもだらしの無いその顔に、流石のエドアルドも「不快だ」と言って手を離した。結果オーライである。
とにかくこんな機会は滅多にない。逃してなるものか。
獲物を捕らえるかの如く瞳をぎらつかせたユディタは、エドアルドの肩に手を置くと、直ちに祝福を授けるべく彼の額めがけて、めいっぱい爪先を立てた。……が、身長差のせいで届きそうにない。どう頑張っても鼻までである。
エドアルドはというと、まっすぐピンと背筋を立てて、ユディタの頑張る様子を見下ろしている。果たして彼には祝福をもらう気があるのだろうか、もう少し協力的になってほしい。
「あの、あのですね、エドアルド騎士。もうちょっと屈むとか何とかしてくれませんか。鼻に祝福することになりますよ」
「……分かった」
「そうそう! そのまま屈んで……っ⁉︎」
こちらに迫ってくるエドアルドに呑気に喜ぶユディタの顔に影がかかって、そのまま唇を塞がれた。驚いたユディタが反応するよりも先に、エドアルドが離れていく。
「……な、な、な」
「ユディタ。お前の祝福、確かにもらった」
してやったりでこちらを見下ろすエドアルドの口には、いつかのように小さな笑みが浮かんでいた。