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帆を上げよ、異世界へ漕ぎ出そう  作者: 濱 那須時郎
序章 はじまりは霧笛の響き
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装備なし 金なしコネなし スキルなし

エブリスタ上にて連載していた、異世界船旅小説のセルフリライト版です。

 気がつくと僕は、濡れそぼった路地に足を投げ出し、行き交う人々や車をぼんやりと眺めていた。


 車とは言っても、聞きなれたエンジン音はまるでしない。かわりに耳に届くのは、木製のホイールや蹄鉄が石畳を打つ音ばかり。これは馬車というやつだろう。馬車なんて遊園地のイミテーションでしか知らない僕には、断言なんてできないけれど。


 雨が降っていた。空気には雨の匂いに混じって、ほのかに魚の臭気が感じられた。

 これと同じような匂いを、かつて町内会のバス旅行で訪れた魚市場で嗅いだことがある。町全体に拭い去り難く染み付いた、港町特有の匂い。どこか遠くで、ボーッという間の抜けた、だけどどこか荘厳さが感じられる音が轟いた。それが霧笛だと気づくまでに、熱っぽい僕の頭はしばしの時間を要した。


「……こりゃ、まずいな」


 うわ言のように、そう呟く。

 まず第一に、僕は風邪をひきかけていた。冷え切った手足に反し、頭の芯が燃えるように熱い。じっとしていると心臓の鼓動がばかに大きく感じられ、指の一本、目玉ひとつ動かすのにすら多大な労力を要した。いくらインドア派の僕とて、平生はここまで虚弱体質ではない。明らかに体力を消耗しているのだ。


 第二に、僕は目の前の町並みにてんで見覚えがなかった。僕が住んでいる町は東京郊外のいわゆるベッドタウンであり、魚の匂いや霧笛なんかとは無縁の世界なのだ。大都会というわけではないけれど、少なくとも遊び場や軽く飲食する店には不自由しない。今僕がいるこの町では、どこまで歩いてみたところでマックやサイゼ、それにドトールの看板なんて見つかりそうもない。コンビニの一軒すら望み薄だ。


 第三に、そもそも小腹を満たす金がなかった。


 かじかんだ手指を奮い立たせ、ポケットをのろのろとまさぐってみる。そこにあるはずの財布もケータイも、生徒手帳も見当たらない──そもそもこのポケットの感触自体が、素材といい深さといい、馴染みのないものだった。


 あらためて、己の姿を見つめ直す。ローブというのだろうか、ワンピースに似た白いコート。何やら材質のわからないブーツ。ローブにもブーツにも見覚えはなかった。いつのまにこんな服を与えられたのか、そもそもいつ着替えたのか。これなら真っ裸でいた方がまだマシだったかもしれない。少なくとも、自分自身を納得させるのは容易だっただろう。追い剥ぎにでも連れさらわれ、身ぐるみ剥がされてから捨てられたのだと思い込めたから。


 落ち着け──自分自身にそう言い聞かせる。まずは深呼吸して、それから5W1Hで状況を整理しよう。なんだっけ、ええと、who、where、when、what、how。残りの一つはwhichだっけ? 違う、whyだ。


 who、すなわち「誰」──僕、木佐元(きさもと)嶺士(れいし)


 where、「どこ」──僕が住んでいる町から遠く離れた、おそらくは港町。正確な地名や位置は不明。


 when、「いつ」──暗さから察するに、夜。いつここに到着したのか、いつからこの路地でこうしているのか? これまた不明。


 what、「何を」──情報不足。とりあえず割愛。


 how、「どうやって」──これも割愛。おそらくは誰かに連れてこられたのだろうけど、確証はない。


 そして最後に、why。すなわち「なぜ」──なぜ僕はここにいるのか? なぜこんな見覚えのない服を着ているのか、もしくは着せられたのか? なぜ道をゆく車がおしなべて馬車なのか? なぜ道路灯がLEDでなくガス灯なのか? 皆目見当もつかない!


 寒さに歯をガチガチと鳴らしつつ、深いため息をつく。状況整理も徒労に終わり、僕は捨て鉢な気分になっていた──もうどうにでもなれ。


 だから目の前で一台の馬車が停まった時も、人相の悪い黒ずくめの二人組に声をかけられた時も、両脇を抱えられて馬車に乗せられる時も、僕は抵抗を一切しなかった。どこへ連れて行かれるにせよ、これ以上事態が悪くなるとは思えなかったからだ。


 馬車に乗せられる寸前、僕はそれを引いている生き物の姿を見た──より正確に言えば、その脚を。

 あえて例えるならば、鶏の脚だろうか。華奢にすら思える、鱗に覆われた脛。湾曲した三本指の先に突き出た鉤爪。明らかに馬ではない。毛が一本も生えていないその脚には、血の温みはまったく感じられなかった。


 けれども恐怖や嫌悪感は一切なかった。かといって親しみを覚えたわけでもない。要するにその時の僕は、異邦人らしい反応を示すにはあまりにくたびれていたのだ。頭を占めていたのは、たった二つのことだけ。


 一刻も早く、暖かなベッドで眠りたい。


 そしてとっとと、この悪い夢から覚めたい。

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