幕末期福岡藩に於ける「三坂小兵衛(繁人)私情事件」に関する雑考と妄想
乙丑の獄の前夜、風雲急を告げる幕末福岡藩に於いて、三坂小兵衛(繁人)私情事件を起こした、三坂小兵衛なる男が如何なる者なのか、休業中で暇を持て余している僕は、「加藤司書の周辺(成松正隆 著)」に答えを探してみたのだが、そこで面白い疑問が湧いたので聞いて欲しい。
まず三坂小兵衛なる者は、勤王派の志士である。
無足組十五石四人扶持という下級藩士。月形洗蔵を首魁とする「月形グループ」に属していた。
グループ内では取るに足らない小兵衛であったが、他の者にはない人脈があった。彼は、佐幕派の領袖・浦上数馬と幼馴染の親友だったのだ。
そんな小兵衛が、慶応元年5月1日に浦上家の裏木戸から家に忍び込んでいる。
そして数馬に面会し、
「勤王派の若手志士が数馬を殺し、その首を重臣たちの会合に投げ入れる計画がある」
と、密告。つまり、勤王派を裏切ったのだ。
数馬はすぐに同じ党派の者へ報せ、更に中老級重臣十五名の連署と共に、藩庁に捜査するように頼んだ。
これが俗に言う「三坂小兵衛(繁人)私情事件」のあらまし。
後に目付の報告で、この密告は小兵衛の裏切りではなく、加藤司書と矢野相模の指示による陰謀であると判明している。数馬を脅し、佐幕派の動きを封じようとしたのだという。
しかし、三坂小兵衛が処分されたという話は聞かず、成松氏も謎が多い事件としている。
そして、「加藤司書の周辺」を読むと、小兵衛が再び数馬に報告している箇所がある。
それは、加藤司書が乙丑の獄へ繋がる謹慎を命じられた慶応元年7月21日以降の事。
司書のシンパである、吉田栄五郎・讃井嘉助・廣渡太助・友納軍次郎などが、加藤司書排除の陰謀を巡らせた数馬を、彼の菩提寺である承天寺の帰りに暗殺しようと画策。それを小兵衛が、数馬に報告しているのだ。
一見して、これが「三坂小兵衛(繁人)私情事件」と同じものという可能性があるが、前後の文脈、そして加藤司書謹慎を受けた後の行動と思えば、小兵衛は2度も数馬に報告した事になる。
この答えは、成松氏が引用した新訂黒田家譜に求める必要があるが、仮にこの二つの密告が別物だとした場合、面白い妄想に辿り着いた。
まず、三坂小兵衛は勤王派の衣を着た佐幕派で、数馬の手先だった。
彼は勤王派として国事に奔走しながらも、その情報を逐次数馬に流していた。
1度目の密告もその一環。これを小兵衛の裏切りとはせず、加藤・矢野の陰謀としたのも、勤王派を陥れる一策にする為だったのだろう。事実、その2ケ月後に乙丑の獄が起きている。
そして、小兵衛の密告は公には伏せられたまま、勤王運動を続け2度目の密告に至った。
仮に2度の密告別物とした上で、1度目の報告が陰謀とした場合、2度目の密告が本当の裏切りという事になりはしないか。陰謀ではない場合、1度目も2度目も親友を思っての行動か?
ん~~わからない。
やはり、新訂黒田家譜を読まねばなるまい。
小兵衛がこの件で、どう処分されたかわからない。陰謀だとしても何の処分もされずに勤王派へ戻れば、二重スパイを疑われるだろうし、喜多岡勇平同様に変心したとして殺されたはず。それほど当時の勤王派は獰猛で、テロルに酔っていた。
ただ小兵衛は、乙丑の獄で姫島へ流罪となっている。そして佐幕派が勤王派の巻き返しで失脚し、数馬が切腹となった時、小兵衛は罪に問われていない。
やはり、小兵衛は真なる勤王の志士か。
ん~~~わからない。
成松氏に質問したいが、18年前に他界されておられる。
今後も、調査を続けよう。
新訂黒田家譜で確認次第、アンサーを投稿します。