魔に魅入られた女の話・あるいは拙い愛情の記録
ぐさりぐさり。
男は何度も何度も女の足を、握り締めたナイフで串刺しにする。
女は苦痛の声を微かに漏らしながらも、自らに降りかかるその凄惨な行為を必死に耐えていた。
ふと、女は自らの足にナイフを突き立てる男の頬から涙が零れ落ちていることに気付く。
「どうして、貴方がそんなに苦しそうな顔、してるの?」
「………キミが苦しむ姿を見ること以上に苦しいことなんて、あるものか」
男が言って、女は幸せそうに笑った。
「愛しています」と、口にした。
あるところに、孤独に魅入られたような男がいた。
それ自体は、決してその男が望んだわけではないが、人の縁、というものに、彼は遠く離されていたのだ。
両親は早くにこの世を去り、兄妹は無く、住む家は近くの村々から離れているために近隣には他の誰も住んでいない、そんな辺境に彼は住んでいた。
かといって、生きることに困ることは少なかった。
男の住んでいる所は乾いた土地ではあったが、ごく少量、それでも男一人が飢えることが無い程度の食料ぐらいは収穫でき、何とか歩いていける距離に廃棄されたと思わしき古井戸があったからだ。
困る、と言えば、ごくたまに、寝る前や朝目が覚めたときに耐えて忘れてしまうには少し辛すぎるような孤独感に縛られることぐらい。
ある意味、そこは彼だけの王国で、彼は誰に侵されるわけのない国の、一人きりの王として成り立っていたのだ。
とある朝のことだ。
何時ものように、朝早くから起きだして、畑を耕していた彼の目に少しだけ離れた岩地を歩く人影が映った。
それは、異様な姿をしていた。季節はすでに夏始めだというのに、足元まで延びた黒いローブを着て、顔はフードによってすっぽり隠され、片足を引きずりながら歩いていた。
久方ぶりに目にする、人の姿をしたシルエット。男は手に持っていた農具を放り出し、警戒心など、露ほども持たずに喜々としてその異様な人影に近づいた。
その行為自体は、男の頭が取り立てて可笑しいものだからではなく、その人影に対し、疑念を抱けるほど、人付き合いの経験を持つことができなかったゆえの結果だ。
まぁ、そういう変り種を含めての、変人と言う言葉なのだろうが。
「今日は。道行く人」
「―――っ!?」
足の傷がよほど痛むのだろうか。その人影は、男が至近距離にやって来るまで気づかなかったようだった。
男の声に驚いた風をして振り返り、拍子、フードの隙間から顔が覗けた。
果たして、そこにあったのは予想外に若く、美しい女の顔だった。
「おや、お嬢さん。どうしてキミは、こんな所を歩いているんだい?」
男は、初対面としては少々軟派なほどに親しげに話しかけた。
「―――近寄るな、私はお前を、今すぐにだって殺すことができる」
対して、返されたのは先の尖った険しい声だった。
「キミは、どうして、そんなに怖いことを言うのだ」
「………あなた、見てわからないの」
「何を、だい?」
「私、魔女なの。幾つか言葉紡ぐだけで、軽くあなたなんて殺せるわ」
女がきつく、男をにらみつけ、言った。
けれど、男はソレが彼女からの威嚇だと理解できなかったのだろう。
「―――そっか、なら、君はすごい人間なんだな」
場違いに、朗らかに言った。
「あっ、あなたって、もしかして、すごく頭が悪いの? 私はあなたに、あなたの命を握っている、と言ったのよ? 貴方、死ぬことが、怖くは無いの?」
「えっと、怖いって、どういうことなんだ」
「死んで消えてしまうことを、あなたは恐れないのかって聞いているのよ。誰かの記憶にだけ生きて、実体を失う。たとえどんな悪評をうけたところで、ソレを否定することも、足掻くこともできなくなるのよ?」
「あぁ、それが、怖いってこと」
「………ええ、少なくとも、私にとっては、ね」
「なんだぁ、じゃぁ、平気だね」
「どうしてよ」
「だって」
男は、笑顔で言った。場には合ってなかったのかもしれない。
「この世界で僕のことを知ってるのなんて、たぶん、今は君だけだから」
「………あぁ、貴方って、さびしい人間ってわけ」
「いや、別に、君と同じって、だけなんだと思うけれど」
浮かんでいた険しい表情、女はそれを崩し、少しだけ笑った。
「―――だから、よ」
それからの生活を形容するに最も適した言葉がある。
十分と言えた食料が少しだけ足りなくなったのだ。
けれど飢えて死ぬほどでもない。少々腹が、二人分鳴るくらいだ。
だが、それも幾月か経って、しだいに解消されるようになった。
それは彼女が魔女と呼ばれる由縁。女は不思議な技術を身につけていたのだ。
専門家が見れば、まるで魔法のよう、に彼女はその枯れた土地に作物を実らせていった。
そうして穏やかな日々が過ぎていく。
男は久方ぶりに出会った人間に対して、並々ならぬ思いを抱き、女は純粋過ぎる男の思いに戸惑いながらも、次第にそれを受け入れていくようになっていった。
「ねぇ、魔女さん。キミは、いったいいつまでこの場所にいてくれるんだい?」
繰り返された日々の中、そのとある日、男が女にそう尋ねた。
「さぁ、足の傷が癒えるまで、かしらね」
本当は足の傷などとうに癒えているというのに、女はそう言った。
照れ隠し。女には今まで人間の住む世界に隠れ住んで生きてきた時に培った、建前があったのだ。
「そうしたら、キミは、何処かに行ってしまうのかい?」
「そうね、そうかもね」
「それは、いったい、いつなんだい?」
いつまでもこの足の傷は癒えないのよ、なんて、一瞬、本当に言ってしまおうと思った。
長年魔女として追われ続けた彼女にとって、この辺境の地で安寧は本当に好ましいものだったのだ。
「………じゃぁ、明日にでも」
けれど口から出てきたのはそんな言葉だった。どうやら彼女の口は、本当に必要なときには捻くれてしまうものらしかった。
「そっか」
「………うん、それ、じゃ、ね。おやすみなさい」
言ってから、女は居たたまれなくなって、自分に宛がわれていた寝室へと引っ込もうとする。
「………あぁ、そう、最後の夜だからって、変な事はしないでよ? 私は、明日からまた、たくさん体力を使わなければいけないんだから」
場をごまかすかのように、女は男をからかいの言葉を口にした。
まぁ、意味なんて大して理解できやしないんだろうけれど、と思った。
けれども、その心配は実現することになった。
いや、ある意味で、女の願いが成就したというのだろうか。
その夜、男は凶変し、女に襲い掛かった。
女がベットに入り、毛布を被ってからしばらくして、女の使う寝室に、ひとつの足音が聞こえてきた。他の何に聞き違えるまでもない。男の足音だ。
案外、貴方も獣なのかしら、なんて、女は胸を高鳴らせて、笑みを漏らす。さぁ、どうからかってあげようかしら、なんて。
けれども、それは女が想像していた何かとは激しく違っていた。
男は、その手にナイフを握り締めていた。
顔を毛布の隙間から覗かせ、素早くそれに気づくまでは良かったが、そこは個室のベットの上。部屋の入り口はひとつで逃げ場など他にはない。
「………なに、する、気?」
「僕は、キミを」
男は魔女に向かってナイフを突きつけた。自らが、これから彼女に行う行為を宣言するかのように。
女は恐怖など感じなかった。ただ、多分に心を許していた人物に裏切られたことを、さびしい、なんて思っただけだった。
でも、思えば、それはあたりまえだった、と女は考える。
魔女とは、人間にとってはそうある存在だったのだから。
「………あーあ。貴方だけは違っているって信じていたかったのに、な」
女は呟き、両腕を広げた。まるで、十字架に括られた、聖者のごとく。
「どうぞお好きに。私はどうせ、もう逃げられない」
何もかもを受け入れるかのように、軽く笑む。
男に裏切られたのだという思いは、彼女の中にあった生の衝動を打ち消していた。
「………ねぇ、どうせなら、一思いに、ね? いくら私だって、こういうの、怖いから」
女は気づかなかったが、その口元は微かに震えていた。
生きたいと思えなくても、恐怖は消えることはなかったのだ。
男は女に飛び掛り、押し倒す。そして、ナイフを振り上げ、突き立てた。
激痛。女は声を上げる、その後で足を貫かれたのだと気づいた。
「………なぁに、少しずつ、苦しませて、殺す気、なのかしら?」
「殺さない」
「あら、私の首に懸賞金でもかかっていたのね。知らなかったよ。私を引き払えば、幾ら貰えるのかしら?」
「渡す、ものか」
「………何を、言ってるの?」
「キミを、誰にだって、渡すものか」
女は気づく。男の手も、体も、小刻みに、おびえるように震えていたことに。
「僕は、僕を知っていてくれたキミがいなくなることが怖い。そう、思うようになってしまった。キミが教えたから、教えてくれたから、こんな気持ちなんだ。分からないんだ。どうすればいいかなんて。もう、こうするしか、できない、ごめん、本当に、ごめん、ね」
「………馬鹿みたい」
「………ははっ、キミに比べたら、きっと誰もが馬鹿だよ」
「そうね、でも、あなたは一段と、馬鹿なのよ」
声は届かなかった。男は再びにナイフを振り被っていた。
「―――行かないで、って言ってくれたのなら、きっと、それだけですむ話だったのに、ねぇ?」
微笑んだ女に、男はナイフを振り下ろす。
それは、そう―――
大切な人を連れ去ろうとする、憎い対象から守るかのようにして。
「―――そうね、きっと、人間と魔女では、まだ、近すぎたのね」
女と男は、それから幾分かの時間を生きた。
その日々の中のいつかに、こんな会話をしたこともあった。
「人と人はいつでも争ってる。人と魔女でも、人は一方的に糾弾し、争おうとする。けれど、魔女の私と、人間を学ばなかったあなたは、こうして共にいられたんだもの」
「そんなことを言ったって、僕らだって人間の一員じゃないか」
女に寄り添うようにして立つ男が言う。
共に生きていた時間、いつだって二人は一緒だった。
「………そうね、確かに私たちは人間の器の中に入っているわ。けれど、その中にあるものが、決して人間ではないのよ」
「誰がそんなことを決めたの?」
「可笑しなことを聞くのね。神様がそんな細かな基準に気を使うと思うのかしら。いいえ、神様には、私たちなんて同じ形をした生き物程度にしか思われていないのよ。人が鼠の個性なんて見分けられないように、人間なんかに、さほどの違いだってないのだから」
「ねぇ、なら誰が区分したんだろうね。それが神でないのなら」
「当たり前じゃない。そんなもの、人間が決めたのよ。私を魔女と、そしてあなたを、異常者と」
「意味がわからないことだね。どうしてそんなことなんてするんだろう。そう思うのは、僕があまり人間としての生活をして来れなかったからなのだろうか」
「人が恐れるのは山奥に潜む猛獣よりも、営みの中に隠れる異端者ってこと。見えて想像できる恐怖より、見えなくて想像できない恐怖のほうが恐ろしいのね」
「僕は、熊のほうが怖いけれど」
「熊には猟銃を使えばいいけれど、魔女には果たして何をすればいいのかしら―――さしあたっては、火あぶりかしらね?」
「―――あぁ、うん。何だか、馬鹿みたいだ」
「うん、馬鹿みたいね。人って、そんなことをしなくても、簡単に死ぬのに、ね?」
「ねぇ、それならキミはどうすればこの世界がまともになると思うんだい?」
「………そうねぇ、結局のところ、普通に生きようとしている人がみんな死んじゃえばいいんじゃない? 『普通』なんて基準があるからいけないんだから」
「ずいぶんと物騒なことを言うんだね」
「だって、『普通』の人は何もできないし、しようともしないのよ? 必死になってみんなを普通にしようと足を引っ張っているだけじゃない。どうして気づかないのかしら。普通って結局、何もできないってことなのにね」
「それなら人って、何もできないってことを求めてるんだね。そんなの進歩しないわけだ。きっといつまでだって争いを続けるんだろうね。彼らの言う普通同士が、僅かにでも衝突したときにでも、すぐ」
「………私はきっと、誰かを幸せに出来たのに。誰も私を受け入れてなんてくれなかった。普通じゃないからかしら。普通の人間になれたら、受け入れてもらえたのかな」
「それは無理だ。僕はそう言うよ」
「………どうしてよ」
「それが無理だったから、キミがここに来てくれたからだ。キミが魔女であることを選んで生きてきてくれたから、ここまでやって来てくれたんだろ。なら、僕にはそれが無理であったことを嫌悪する理由なんて何処にもない。愚かでも、馬鹿げていても、彼らは彼らで好きにやればいいのさ。だって、僕らには関係ない」
「ふふっ、そんなこと言ってたら、そのうち人類滅びるわよ。好き勝手やったあげく」
「いいよ。それはたぶん、ずっと先だ。そこに僕らなんてもういない」
「あーあ、人間の頭がみんな可笑しくなってしまえばいいのに。そうしたらきっと、もう少しだけ、いい世界になるのに、な」
「キミは、本当にそう望んでいるのかい?」
「ううん、別に。ちょっとだけ、偽善者ぶっただけ」
「そっか」
「そうよ、だって私、嘘つきだもの」
「嘘つきなの?」
「………貴方と出会ったとき、幾つかの言葉を紡げば、貴方を殺せるといったよね」
「うん。そんなことも言われたかもね」
「―――ごめん、アレ、嘘なの。そんなすごいことなんて、私、できっこない」
「そっか」
「うん」
「でも、何にも変わらないね、キミが少しだけ、すごくなくなっても」
「あら、そうなの? これから私に、何かひどい事をするんじゃないの? そしたら私、抵抗なんて、できっこないのに」
「だって」
「だって?」
「キミがどんな存在でも、僕は、キミをこの場所から逃がしたりなんかしないんだから」
男は微笑む。狂ってなどいない。ある意味で、それが彼の学んだ、ひとつの愛情の形だっただけだ。
そうして、これからも男は女のことだけを思って生きていくのだろう。
「・・・・・・・・・それならきっと、あなたの愛は、いつかアタシを殺すわね」
「なら、その時にでも、僕は死ぬことにするよ」
「どうしょうもなく悪質なのね。教会だって、死が二人を別つまで、って言うのに」
「嫌だよ。死んでからも、一緒だよ」
「・・・・・・・・・あぁ、もしかして」
「なんだい?」
「―――魔に魅入られる、って言うのも案外、貴方みたいな生き物に、好きになられること、なのかしら、ねぇ?」
あぁ、そっか、それなら頷ける、と女は思った。
自分と違う何かを受け入れるということが、どれほどに危険なことなのか。
魔女と呼ばれた自分が、どうして社会に受け入れてもらえなかったかを。
女は理解した。
既に二本目の足を失いかけている女は「愛している」と言って笑った。