第九話 気になる新事実
その翌朝、わたしは緊張しながら食堂へ向かった。昨日はまだだったが、そろそろ、わたしがヴィクター殿下と婚約したという噂が広まっていても不思議ではない。
その反応いかんで、わたしの女官人生の進退が決まってしまう。……本当に、みんな、どこから情報を集めてくるのやら。
恐る恐る食堂の扉を開けると、予想通り、中にいた同僚の女官たちがぴたりとおしゃべりをやめ、いっせいにこちらを見た。
最初に声を上げたのはマダリーンだ。
「おめでとう! ローザリカ!」
おめでとう、と言うからには、わたしがヴィクター殿下と婚約したことは、少なくとも女官たちには知れ渡っているということだ。
満面に笑みを浮かべ、マダリーンは駆け寄ってきた。そのあとでわたしの両肩をがしっと掴み、「でかした!」と小声で褒め称えてくる。
すると、他の女官たちも口々に「おめでとう」と言ってくれた(中には、複雑な表情をしている娘もいたが)。祝福ムードを即座に作ってしまうとは、さすがマダリーン。これでわたしは、結婚ぎりぎりまで女官を辞めなくてすむ。
彼女の隣に着席したわたしは、早速質問攻めにあう。
一体どういう経緯でヴィクター殿下と婚約することになったのか、というのが、最もみんなが知りたいことだった。わたしは自慢にならないように気をつけながら、事実を簡潔に話す。
「そっかあ。皇太子殿下は前からローザリカのことがお好きだったのね……」
「しょうがないわよ。ローザリカは女官の中でも、五本の指に入るくらい美人だし」
「あら、ローザリカは苦労してる分、これくらいの見返りがあってもおかしくないわよ」
「わたし、殿下はてっきり、フローレンス嬢と婚約なさるものと思っていたわ」
フローレンス嬢って誰?
聞き捨てならないものを感じたわたしの表情の変化に、周囲が静まり返る。隣のマダリーンに視線を送ると、彼女は仕方なさそうに答えた。
「フローレンス・エイヴォリー。マリゴット公爵令嬢で、皇太子殿下ファンの間では有名人よ。家格からいっても、殿下の婚約者候補間違いなしって噂されていたの。それにね……」
意味ありげな口振りに、わたしは危機感を覚え、続きを促す。
「それに?」
「フローレンス嬢自身が、殿下との婚約を熱望していたらしいの。パーティーなんかで、殿下に積極的に声をかけるのを、何人もの女官が目撃しているわ」
本人も周囲も乗り気だった、幻の婚約者か……。きっと、綺麗な人なんだろうな。ヴィクター殿下は、どうして彼女を選ばなかったんだろう。
なんだか気分がもやもやしてきて、わたしはマダリーンに、「そう……」とだけ、答えた。
「気になるなら、殿下に直接訊いてみれば?」
出し抜けにマダリーンが言い出したので、わたしはびっくりする。
「え?」
「だって、あなたと殿下はもう婚約者同士なのよ。気になることがあるなら、婚約式や結婚式の前に確認しておかないと」
言われてみればその通りだ。今までのヴィクター殿下の態度を見るに、ランダルさまのように、いきなり婚約破棄はしてこないと思うけど、不安材料は潰していったほうがいいに決まっている。
それに、殿下がフローレンス嬢のことをどう思っているのか気になるし。
「そうね。ありがとう、マダリーン」
わたしは休憩時間を利用して、ヴィクター殿下に会いにいくことに決めた。
*
皇宮の一室、「思索の間」。ヴィクターは座り心地のよい椅子に腰かけ、その日の枢密院会議に臨んでいた。
ヴィクターは枢密顧問官であると同時に、貴族院議員でもある。議会制の発達したこの国で、皇太子たる自分が発言の機会を得ている。その機会が、自分の成し遂げたいことにとって、いかに重要であるかを、ヴィクターは理解していた。枢密院会議で議決された事項は、議院に上げられ、改めて審議されるのだ。
議題に優劣などないと考えるヴィクターだが、今回は特別に興味を引かれている。
それは、イスドラル帝国の支配する植民地政策についてだった。
淡々と進んでいた会議が、急に熱を帯び始め、ヴィクターは眉をひそめた。昨年、植民地のひとつであるシャルダで鎮圧された反乱に話が及んだとたん、そうなったのだ。
「植民地人は、もっと厳しく統治する必要がある!」
枢密顧問官の一人がそう発言すると、同意する者たちが続々とあとに続いた。
冗談ではない。
ヴィクターは唇を噛んだ。シャルダは他の植民地よりも、特に帝国による締め付けが厳しい。今よりも統治を厳しくすれば、民は疲弊し、より追い詰められた彼らは、また反乱を起こすだろう。
そうなれば、イスドラル人、シャルダ人、他の植民地から集められた兵を問わず、多くの人々が命を落とすことになる。
ヴィクターは不穏な場の空気を変えるため、発言を決めた。
「それよりは、シャルダ人の不満を和らげる政策を取ってはいかがですか」
枢密顧問官たちが、いっせいにヴィクターを見た。帝国主義が蔓延する枢密院会議で、こんな提言をすれば、一笑に付されるところだが、あいにくヴィクターは皇太子だ。彼らも一応、意見を聴かざるをえない。
議長が穏やかに尋ねる。
「皇太子殿下には、何かお考えがおありですか?」
「はい。本国のように、シャルダの工業化を進めるのです。そうすれば、インフラは整い、民も豊かになります。生活水準が上がれば、自然と、シャルダ人の帝国に対する不満も減りましょう」
ヴィクターの次に発言したのは、先程、厳しい統治をと訴えた枢密顧問官だった。
「皇太子殿下のご賢察、感服致しました。ですが、今は本国も不景気でございますし、とてもシャルダの工業化に投資する余裕などございませんことを、賢明な殿下ならばご承知いただけるかと存じます」
ヴィクターはウォールナット材の机の下で拳を握り締めた。
植民地から散々労働力や兵力、資源を収奪しておいて、その言い草はなんだ。この机にしたって、別の植民地で伐採された木材から作られたものではないか。
ヴィクターは訊かずにはいられなかった。
「ですが、シャルダもまた、我が帝国の一部では? シャルダを発展させることは、帝国にとって利益にこそなれ、不利益にはならないかと考えますが」
青臭いほどの正論に、ヴィクターと相対している枢密顧問官も鼻白んだようだった。ヴィクターが、なおも言葉を重ねようとした時、重厚な声が部屋に響いた。
「そのくらいにしておけ、ヴィクター」
それは、会議の上座に腰かける、皇帝たる父の声だった。
「シャルダの工業化と申したが、今はまだその時ではない。みなの者、会議を続けよ」
その場に充満していた奇妙な緊張が解かれ、枢密顧問官たちは再び発言を始めた。
ヴィクターは密かにため息をついた。
父はああいう人なのだ。がちがちの帝国主義者というわけではないが、常に物事のバランスを取るように行動する。それだけに、これ以上、シャルダに過酷な統治を敷こうとは考えないだろうが……。
ヴィクターは、ふと、ローザリカに会いたくなった。自分と話している時は、あまり笑顔を見せてくれない彼女だが、それでもよかった。ただ、他愛もない話をして、傍にいて欲しい。
そして、いつか自分のことを好きになって欲しいと願うのは、贅沢だろうか。
それは、ある日、ローザリカが女官仲間と笑い合う光景を廊下で見かけてからの、ヴィクターの希望だった。
ヴィクターは窓の外を眺めたあとで、その切実な想いから会議へと意識を戻した。