第六話 断ることに決める
パーティーに出席している場合じゃない。
ヴィクター殿下から逃げるようにバルコニーを立ち去ったわたしは、殿方と踊り終えたあとのマダリーンを引っ捕まえて断りを入れ、早々に自室に戻った。
ドレスを脱ぎながら、「どうしよう、どうしよう」という言葉が漏れる。
わたしは非常にうろたえていた。国中の女性から憧れられる皇太子殿下に結婚を前提で付き合って欲しいと言われたのだ。普通なら舞い上がって、「是非、お願いします!」と即答してもおかしくはないだろう。
だが、わたしは違った。正直、話を受けても悪い予感しかしない。ランダルさまの時も、向こうから声をかけてきたしね。
第一、「好きです」の一言もなく、いきなりプロポーズまがいの台詞を言うってどうなんだ。ヴィクター殿下って、もしかして恋愛スキルが低いのか!? そういえば、殿下の恋の噂って聞いたことがない……。
第二に、婚約破棄をされたばかりの女に、告白してくる男性の心理が分からない。仮に、前からわたしのことが好きで、だからこそ庇ってくれたのだとしても、腑に落ちないのだ。セラフィーナに糾弾された場にいたのだから、わたしの実家の貧乏具合はヴィクター殿下も知っているだろうし。
ランダルさまとわたしが不釣り合いなら、殿下とわたしはさらに不釣り合いだ。恐れ多いと言っても過言ではない。それこそ、宮廷中の女性から羨ましがられるどころか、敵意に満ちた目で見られそうだ。セラフィーナが手を下すまでもなく、居場所がなくなって離職の危機だろう。
その上、彼しか心と生活のよりどころがなくなったところで、捨てられでもしたら目も当てられない。身分が高すぎる相手と結婚するということは、生殺与奪の権が先方にあるということなのだ。
うん、今回の話は断ろう。
でも、断ったら、さすがにヴィクター殿下も気を悪くするだろうしなあ。どうしたものか……。
途方に暮れたわたしは、シュミーズ姿のまま、ベッドの上に転がったのだった。
*
翌日の午後、わたしは仕事の合間を縫って皇宮の庭園に赴いた。昨夜の返事をするために、ヴィクター殿下とそこで待ち合わせる約束をしていたからだ。
新緑と咲き乱れる色とりどりの花々が美しい庭園に出ると、背の高いヴィクター殿下の姿はすぐに見つかった。曇り空の下でも、彼の赤髪は輝いて見える。
ヴィクター殿下は、わたしの姿を見つけるとほほえんだ。
「ローザリカ嬢、よく来て下さいました」
なんだか、殿下の人のよさそうな顔を見てしまうと、これからお付き合いを断ることに対して、罪悪感をひしひしと感じる。でも、もう決めたことだから、心を鬼にしないと。
わたしは、ヴィクター殿下とは少し距離を置いて立ち止まる。
「こちらこそ、ありがとうございます。……あの、殿下、昨夜の件ですが」
「はい」
ヴィクター殿下は全く罪のない顔をしている。うう、困った。退くも地獄、進むも地獄とはこのことだ。わたしは、なけなしの勇気を総動員した。
「……まことに申し訳ないのですが、お断りさせていただきたいのです」
ヴィクター殿下は、ロイヤルブルーの瞳を見張った。沈黙が雪のように降り積もっていくような錯覚に囚われる。
やがて、殿下は形のよい唇を開いた。
「……どうしてもですか?」
わたしは居心地の悪い思いで頷く。
「……はい」
「そう……ですか」
ヴィクター殿下は眉尻を下げて、困ったような笑顔になった。
「では、仕方ありませんね。困らせてしまってすみませんでした」
殿下の笑顔がなぜだか胸に突き刺さり、わたしは立ち去ろうとする彼に声をかけずにはいられなかった。
「あの……どうして、わたしを?」
ヴィクター殿下は振り返ると、微笑した。
「あなたの笑顔が、とても好きだったので」
あ……、殿下って、ちゃんとわたしのことを好きで、付き合いたいって言ってくれたんだ。でも、殿下は「好きだった」と、過去形を使った。
仕方ない。わたしは殿下の申し出を断ってしまったのだから。
何も言えず、わたしは彼のうしろ姿をただ見送った。
*
「ありえない! どうして断っちゃったのよ!」
こちらの懺悔を聞くなり喚き立てるマダリーンを前にして、わたしは耳を塞ぐ仕草をした。
「ちょっと、耳元で大声を上げないでくれる?」
「ローザリカ、あなたはことの重大さを分かっていない!」
マダリーンは熱弁を振るった。ここは彼女の部屋なので、別に構わないが、その様子は今までに見たことがないくらいに暑苦しい。
「あの皇太子殿下が付き合ってくれとおっしゃったのよ! この帝国で二番目に地位の高い男性な上に、顔、頭、性格! 全てが申し分のないお方が! そのお申し出を断るなんて、あなたは神さまにでもなったつもり!?」
参った。マダリーンに話すんじゃなかった。わたしは、ただ、こう言って欲しかっただけなのだ。「しょうがないわよ。あなたが乗り気じゃなかったんだから」と。
しかし、目の前にいるのは、こちらに都合のいいことは言ってくれない友人だ。わたしは言い返した。
「だって、面倒なことになりそうだと思ったんだもの。冷静に考えてみてよ。皇太子殿下とわたしの仲が上手くいくと思う? また失敗するのはごめんよ」
「そんなことは、実際に失敗してから言いなさい。大体、皇太子殿下とランダルさまを一緒にしないで」
「そんなに皇太子殿下が好きなら、あなたが付き合いなさいよ」
これはさすがにマダリーンに対しても、ヴィクター殿下に対しても酷い台詞だと、言ったあとで思う。しかし、一度した発言は、もう取り消せないのだ。
マダリーンはますます呆れ顔をした。
「無理よ。皇太子殿下は、あまり恋愛には興味がないって、もっぱらの噂なんだから。そんなお方が、せっかくアプローチして下さったというのに……」
藪蛇だったか。とにかくヴィクター殿下を推しまくってくるマダリーンに辟易し、わたしは撤退することに決めた。
「マダリーン、話を聞いてくれてありがとう。それじゃ」
軽く手を振って出ていこうとすると、マダリーンが「ローザリカ」と、わたしの名を呼んだ。面倒だと思ったけど、一応、立ち止まる。
「何よ?」
「あなた、ほんのちょっぴりでも後悔していないの?」
思わず考え込む。それは、何も引っかかるものがないか、と言われれば嘘になる。だけど、しょうがないじゃないか。わたしはヴィクター殿下に特別な想いを抱いていないし、何よりも分不相応だと思ってしまったのだから。
あるとすれば、ちょっともったいないことをしたかな、という気持ちだけ。
「……後悔するくらいなら、断らないわよ」
そう答えると、わたしはマダリーンの部屋を出た。