第三話 市中での鉢合わせと皇太子殿下の気遣い
曇天と雨の多い帝都サリュースにしては珍しい、晴れ渡った五月の休日、わたしは街に出た。買い物をするためでもあるけれど、主な目的は銀行での送金だ。
事情はこうだ。お母さまは離婚したあと、いったんはわたしと産まれたばかりの弟を連れて実家に戻った。だが、古いタイプの騎士階級の祖父母は、娘の離婚を恥だと思っており、お母さまとの仲は子どもだったわたしの目から見ても、日々悪化していった。
たまらなかったのだろう。わたしが教会学校を卒業した九歳の時に、お母さまは仕事を見つけ、わたしと弟を連れて出ていった。移り住んだ貸家は下町にあり、幸いにも、隣家の家族はいい人たちだった。
お母さまの仕事は、とある伯爵家のタウンハウスで働く、住み込みのメイドだったので、七歳下の弟、レミュアルの面倒はお隣のおばさんの力を借りて私が見た。その合間に内職をして、ちょっとではあるけれど家計を助けたりしたものだ。
今のわたしは女官で俸給もお母さまよりいいから、月に一度、給金の一部を、こうして銀行から送金している。お母さまは、「お金は自分のために使いなさい」と言ってくれる。けれど、家族同然のお隣の存在があるとはいえ、多感な時期なのに一人で暮らしているレミュアルに惨めな思いはさせたくない。
レミュアル自身は、「姉さんにはこれ以上世話になれないよ」と会うたびに言う。姉のわたしがびっくりするくらい優秀な彼は、いずれ奨学金をもらって進学するつもりらしい。
わたしとしては、せっかく頭がいいんだから、もっと大学進学に有利な学校に行って欲しいと思ってしまう。ただ、そういう学校は、貴族や資本家の令息が通う、お金のかかる寄宿制だから、わたしの俸給ではとても学費が払えない。
ままならない現実に思わずため息をつきながら、銀行を目指して華やかな大通りを歩く。車道を進む馬車を横目に、行き交うたくさんの人々とすれ違う。
銀行の大きな建物が見えてきた。中に入り、窓口で送金する分のお金を預ける。電信のおかげで、翌日にはお母さまの口座に送金されるから、とても便利だ。レミュアルの将来のためのお金も預金しておく。持参金になる予定の、自分のための貯蓄も。……使う機会がちゃんときますように。
銀行を出たわたしは、買い物のために繁華街に出かけた。体面を重んじなければならない皇宮の外に限り、安い既製品の服を着ている身としては、その分、新しいものを見ておきたい。余程安っぽい生地でない限り、遠目には値段なんて分からないものね。
街角のウィンドウを見ながら、マネキンの着ている服の中に、自分に似合いそうなものがないか探していく。
長く着られる高価な服もいいけど、流行りを追える手頃な服もいいなあ。安いとはいえ、無駄遣いはしないようにしないと。
買い物を満喫して、皇宮へと戻る帰り道、高級な衣料品店が並ぶ通りに差しかかる。
と、向こうから絶対に出会いたくない人たちがやってくるのが見えた。思わず、手近にあった店に入り、見つからないように避難する。
間違いない。あれは、ランダルさまとセラフィーナだ。一緒に街中を歩くなんて、デートだろうか。
ふと、マダリーンに言われた、「……これは、のちのち、あなたには嬉しくない展開になるかもね」という言葉が、脳内に反響する。
「何かお探しですか?」
声をかけられて顔を上げると、ハウスマヌカンがすぐ傍に立っていた。
彼女の身に着けている服に目をやったあとで、店内を見回す。あー、かなり高い店だ。なんとか、買わなくてもすむ言い訳を考えないと。
……これも、あの二人のせいだ。
*
「あれは、絶対あの二人だったって」
その日、皇宮へ帰ったわたしは、廊下で捕まえたマダリーンに力説した。
マダリーンは皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「ふうん。あの人たちのことは、どうでもいいんじゃなかったの?」
そういえば、言ったな。そんなこと。わたしは押し黙った。
マダリーンは声を立てて笑う。
「冗談よ、冗談。まあ、わたしの予言が当たった、といったところかしら」
わたしは唇を尖らせた。
「当たりつつあると言ってよ」
「同じじゃない」
にやにやしていたマダリーンが、ふと真顔になり、壁際に下がる。
はっとして顔を上げると、向こうからヴィクター殿下が、見るからに外国人のお供を連れて歩いてくるのが見えた。わたしも素早く壁際に下がる。
ヴィクター殿下が通り過ぎるのを待つ。すると、殿下がわたしの前で立ち止まった。
「ローザリカ嬢、その後、いかがですか?」
背の高いヴィクター殿下を見上げる。殿下のロイヤルブルーの瞳には、からかうような光は一切なく、ただ気遣わしげな表情が浮かんでいた。
これって、多分、婚約破棄をされたその後の経過を気にしてくれているんだよね。わたしは、訳もなく慌てた。
「も、問題ございません。お気にかけて下さって、ありがとうございます」
ヴィクター殿下は眉尻を一層下げた。
「……本当に?」
本当は問題大ありなのだが、優しいヴィクター殿下の気を煩わせるのも考えものだ。わたしは力強く答えた。
「はい、本当でございます!」
ヴィクター殿下はほほえんだ。
「そうですか。ならば、よいのです。では……」
ヴィクター殿下とお供の姿が遠ざかってしまうと、マダリーンがほうっとため息をついた。
「やっぱり、皇太子殿下は、いつ見てもすてきねえ」
皮肉屋のマダリーンだが、ヴィクター殿下への評価は以前から高い。確かに、わたしも殿下のことはすてきだと思う。でも、雲の上の存在すぎるから、いまいち騒ぐ気にはなれないんだよねえ。
人は、自分の身の丈にあった相手に目を向けるべきなのだ。ランダルさまとのことで失敗した今では、余計にそう感じる。
わたしが沈黙していると、マダリーンが細い眉をひそめた。
「反応くらいしてよ。あなたは、そう思わないの?」
「思うわよ。ただ、恋愛したいとか、結婚したいとは思わないだけ」
「夢がないわねえ。……まあ、仕方ないか」
マダリーンは訳知り顔で頷いたあとで、何かいいことを思いついたように、にやりと笑った。
「でも、羨ましいわあ。皇太子殿下に気にかけてもらえるなんて」
からかうにしても、もっと上手い言い方があるだろうに。わたしは呆れてしまった。
「あのねえ、マダリーン。殿下はお優しい方だから、わたしを気遣って下さるだけよ」
「そうかしら?」
「そうよ。皇太子殿下は誰に対しても公平でおいでだって、あなたも知っているでしょ?」
わたしの問いかけに、マダリーンはわざとらしく腕を組んで考え込む。
なんだか否定するのも、無駄に必死になっているようで馬鹿馬鹿しい。わたしはマダリーンにいったん別れを告げて、部屋に戻ることにした。