第二十一話 ローザリカの決意
どうしても、女官仲間たちが集まる場所には顔を出したくない気分だったので、わたしは自室に戻った。
ベッドに腰かけると、どっと疲れが押し寄せてくる。
強がってしまったけれど、ヴィクター殿下への返答は、本当にあれでよかったのだろうか。
そもそも、わたしはここ数日、殿下に告白することばかり考えていたのに、どうして逆のことを言ってしまったのだろう。
殿下に皇帝になって欲しいから、なんて、いかにもごたいそうな理由だけど、本心はこんなにぐらぐらしている。
ベッドに寝転ぶ。すると、涙があとからあとから溢れ出し、シーツを濡らした。
ランダルさまに婚約を破棄された時とは、全然違う。
だって、あんなにわたしを好きになってくれて、しかも、自分でも好きだと思える人には、もう二度と出会えないかもしれないのだ。
涙、なかなか止まらないなあ……。
わたしは、これから、どうすればいいんだろう。
殿下との婚約が破談になるなら、女官を続けるのも正直厳しいだろうが、情けないことに決心がつかなかった。
相談できそうな人々の顔が頭に浮かぶ。
マダリーンは、今回のことを知ったら、また怒るだろうな。
皇妃陛下は、きっと今頃、ヴィクター殿下と皇帝陛下の仲を取り持つのに忙しいだろう。
お母さまは……。
わたしは思わず起き上がった。
前に考えたことがある。父と離婚した時、お母さまはどんな気持ちだったのだろう、と。
不思議なもので、お母さまに相談できないかと思ったとたん、少し、気持ちが楽になった。涙を拭うと、わたしは立ち上がり、翌々日が休日だということを思い出したのだった。
*
休日、わたしは街に出た。お母さまが働く伯爵邸に向かう。
貴族街にあるタウンハウスは、わたしがメイドとして働いていた頃と、何も変わっていなかった。門衛のおじさんはわたしのことを覚えていてくれて、来意を告げるとすぐに通してくれた。
邸内に入り、執事にお母さまと会いたい旨を伝える。この人も会うなり「久し振りですね」と言ってくれて、すぐにメイドをお母さまの元に遣わしてくれた。お世話になった奥さまにも挨拶をしたいところだけど、手間を取らせるのも悪いから、わたしは使用人用の客間でお母さまを待つことにした。
ほどなく、メイド服姿のお母さまが現れる。わたしは立ち上がった。
「お母さま、お仕事中にごめんなさい。実は相談したいことがあって……」
お母さまは、にこっと笑う。
「いいのよ。でも、珍しいわね。あなたがここに来るなんて。……もしかして、ヴィクターさんと何かあったの?」
さすが、お母さまは鋭い。図星を指されたわたしは、思わず口ごもった。
「……当たらずとも遠からずなんだけど、ちょっと、どうしたらいいのか分からないことがあって」
「何があったの?」
ええい。なんのためにここまで来たんだ。
わたしは、思い切って自分の背中を蹴飛ばした。
「実は……わたしと結婚すると、彼が大切な夢を諦めなければならなくなりそうなの。それでも、彼はわたしと結婚したいと言ってくれていて……。わたし、どうしたらいいのか分からない」
いつの間にか、涙が一筋、こぼれ落ちていた。
お母さまは、わたしに駆け寄ると、背中をさすってくれた。そのまま、隣り合って腰を下ろす。
「ローザリカは、本当にヴィクターさんのことが好きなのね」
わたしは、こくりと頷く。お母さまは、わたしと同じ翡翠色の目を細めた。
「わたしにもね、あなたのお父さまを大好きだった時期があったのよ。だから、彼に家を出ていかれた時は、とてもショックだった。裏切られたことに腹も立ったし、おまけに向こうが悪いのに、離婚裁判まで起こされて……」
話の内容のわりに、お母さまの口調は穏やかだった。
「でも、裁判が進むにつれて、思うようになったの。この人もこの人で、色々思うところもあったのだろうから、もうそろそろ解放してあげるべきなんじゃないか、って。それが、わたしが彼を好きだったことの証のようなもの──わたしにとってのけじめだった」
「……本当に好きなら、離れたほうがいいのかな」
わたしがぽつりと言うと、お母さまは首を横に振った。
「わたしの場合はね。でも、あなたは違うわ。ローザリカ、よく考えて。どうすれば、彼に幸せになってもらえるか。そしてね、あなたが幸せになれるか」
お母さまの眼差しは、とても優しかった。
*
──どうすれば、彼に幸せになってもらえるか。
お母さまに別れを告げて、わたしはお屋敷の外に出た。晴れているわけでもないのに、時折差し込む日差しが、やけに眩しい。
皇宮へ向け、貴族街を歩いていると、夫婦らしき若い男女が仲睦まじく笑い合いながら、向こうからやってくる。
ちょっと羨ましい。わたしも、またヴィクター殿下とああやって街を歩きたかった。
皇宮に帰り着く頃には、日差しは陰り、ぱらっと雨が降り始めていた。
わたしはいったん着替えると、皇妃陛下にお目通りした。皇帝陛下への謁見を申し出るためだ。皇妃陛下は、わたしの内心に感付いたのかもしれない。なんとも言えない表情でこちらを見ていたが、謁見を取り持つ旨を承諾してくれた。
謁見は翌日に決まり、わたしは眠れぬ夜を過ごした。
謁見当日。正装したわたしは謁見の間に通された。玉座に腰かけた皇帝陛下にお辞儀をする。顔を上げると、皇帝陛下と目が合った。
「……今日は何用だ?」
「はい。お時間を取っていただき、誠にありがとうございます。……実は、皇太子殿下との婚約について申し上げたいことがございまして……」
皇帝陛下は眉根を寄せた。
「ほう?」
「誠に勝手ながら、婚約を辞退させていただきたく存じます」
目を見張ったあとで、皇帝陛下は口を開いた。
「……それは、そなた自身で決めたことか?」
陛下は暗に、わたしがラヴィニアさまに膝を屈したのか、と訊いている。冗談ではない。わたしは、自分の意志でこの場に立って、この決断をしたのだ。
「はい。さようでございます。皇太子殿下にはよくしていただきましたが、おそらく、ご縁がなかったのでしょう」
「本当に、それでよいのか?」
ラヴィニアさまになびいた皇帝陛下にそう言われると、なんだかなあ、と思ってしまう。だけど、わたしは陛下のためではなくて、ヴィクター殿下のためにこの決断をしたのだ。彼には皇帝になった上で、幸せになって欲しいから。
「はい」
揺るぎないわたしの言葉に、陛下は頷いた。
「……分かった。予から息子に伝えておこう」
皇帝陛下から話を聞いたヴィクター殿下がどう思うのか──それだけがわたしのたったひとつの心残りだった。
はあ……また、婚活を始めないとなあ……。
謁見の間を出ると、今まで堪えてきた涙が溢れ出てくる。わたしは涙を拭うと、歩き出した。




