第二十話 初めての喧嘩
皇帝アルバートがラヴィニアたちの直談判を受けて、ヴィクターにローザリカとの婚約を破棄するように命じたという話は、皇妃ジェーンの耳にも届いた。
皇妃はため息をつく。
つくづくダメな夫だ。こういう時は、息子とローザリカを守ってあげないといけないのに、よりによって婚約を破談にする方向に持っていくとは。
皇妃は女官たちとともに、自分たち夫婦の部屋の前で立ち止まった。
「あなたたち、もう下がっていいわよ」
女官たちはお辞儀とともに、控えの間のほうに歩み去っていく。
ノックもそこそこに、皇妃は部屋の中に入った。皇帝がはっとしたように顔を上げる。
「……なんだ、ジェイニーか」
「あら、ヴィクターのほうがよかったかしら?」
皇帝は苦笑した。
「君は、意地悪だなあ」
皇妃は皇帝の向かいのソファーに腰かける。
「意地悪にもなりますよ。わたし、ローザリカのことは気に入っているのですからね」
「彼女はそこまで肩入れするような娘かね? ヴィクターにはもっと──」
皇妃は、意識して眉を吊り上げて見せる。
「よろしいですか? ヴィクターには、絶対、そのようなことを言ってはいけませんよ。でないと、親子の縁を切られてしまいます」
皇帝の顔が強張った。
「……ジェイニー、わたしはヴィクターに、どうしても彼女と結婚したいのなら、皇太子の地位を返上しろ、と言ってしまったんだ」
本当に、どうしようもないことを言ったものだ。
呆れかえって、皇妃は盛大なため息をついた。
「あの子なら、本当に皇太子の地位を捨てかねませんね。何しろ、素直な性格だから。そんなことにも思い至らなかったの?」
「だが、もう言ってしまったことだし……」
だからなんだというのだ。
どこまでも情けない夫に、皇妃は気合いを入れるように言い募った。
「つまらない意地を張らないで、今から発言を撤回することだってできるでしょう? 大体、貴族たちに何か言われたからといって、わたしに相談もなしに、勝手に物事を進めて! 少しは反省なさい!」
しゅんとする皇帝がさすがにかわいそうになり、皇妃は夫の隣に座った。
彼は外では威厳ある皇帝として振る舞っているが、家庭では完全に尻に敷かれている。普段は父親の顔を立てているものの、そんな彼の言うことを、芯の強いヴィクターが聞くはずもない。
ラヴィニアが投じた一石は、まだまだ宮中に大きな波紋を描いて広がっていきそうだ。そう皇妃は思ったのだった。
*
わたしがヴィクター殿下に会いにいく決意を固めたのは、セラフィーナから話を聞いた翌日のことだ。
本当は、とても怖かった。でも、いくら会うのを避けたとしても、既にヴィクター殿下は、婚約を破棄するよう、皇帝陛下に命じられているかもしれない。このまま彼を苦しませるのだけは、耐えられなかった。
休憩時間に殿下の執務室を訪れる。入室したわたしを、ヴィクター殿下は優しい目で出迎えた。
「どうなさったのです? よろしければ一緒にお菓子をいかがですか? 珍しいものが手に入ったので」
いつも通りに振る舞う殿下の誘いに、わたしはかぶりを振る。
「いいえ、お気になさらず。今日は、お話があって参りました」
わたしのただならぬ様子に、ヴィクター殿下は何かを感じ取ったようだ。短い沈黙のあと、応接セットを指し示す。
「……では、そちらでお話ししましょうか」
わたしたちは、向かい合ってソファーに座った。今日も執務室で勤務中のネインさんは、紅茶を淹れてくれたあとで、「それでは、わたしはこれで」と、退室してしまった。
何か大切な話があると察してくれたのだろう。これからしなければならない話の内容を思うと、ありがたい。
緊張で乾いた口を紅茶で湿したあとで、わたしは切り出した。
「──それで、お話というのは、わたしたちの婚約のことです。皇帝陛下から、何か聞いておいでではございませんか?」
殿下の端正な顔が強張った。彼は嘘がつけない人なのだ。そう直感したわたしは、この方のことをとても愛おしく思った。
ヴィクター殿下は静かに問う。
「……誰が、あなたにそのような話を?」
「そのようなことは、どうでもよろしいでしょう。わたしの質問にお答え下さい」
セラフィーナのことを庇ったつもりはないけれど、少しきつい物言いになってしまった。
ごまかせないと悟ったのか、殿下は沈黙ののちに告げる。
「……確かに、昨日、あなたとの婚約を白紙に戻せないか、という話を父から持ちかけられました。ですが、わたしはこの婚約を破棄するつもりは、毛頭ありません」
ヴィクター殿下なら、きっとそう言うと思っていた。でも、わたしが本当に恐れているのは、殿下に婚約を破棄されることではない。わたしとの婚約に固執することで、彼がどんなペナルティを課せられるかだ。
子どもが帝位を継げなくなるくらいならまだいいが、下手をすると、殿下自身が帝位継承権を失うのではないか。
「お気持ちは、とても嬉しいです。ですが、皇帝陛下のお考えに従わなかった場合、殿下は……」
ヴィクター殿下は悲しそうにほほえんだ。
「あなたには隠し事はできませんね、ローザリカ。でも、仕方がないことなのかもしれません。わたしは、そういったあなたの聡さにも惹かれたのですから」
殿下は尋ねて欲しくないのだ。でも、ごめんなさい、殿下。これは、わたしたちだけではなく、この帝国全体の問題でもあるのだ。
「……皇帝陛下は、なんとおっしゃったのですか?」
「どうしてもあなたと結婚したいのなら、皇太子の地位を返上しろ──と」
わたしは、とっさに答えていた。
「それはいけません、殿下。あなたは次の皇帝になられるべきです」
ヴィクター殿下は、ロイヤルブルーの目を見開いた。
「あなたは、わたしと結婚できなくてもよいのですか……?」
「違います。そういうことを申し上げているわけではございません。ただ、あなたは次の皇帝になられて、なさるべきことがあるはずだと申し上げたいだけです」
殿下はぐいっと身を乗り出した。
「同じことではありませんか。わたしはあなたと結婚できるなら、帝位など惜しくはない」
本当に、まっすぐな方だ。けれど、そんな彼にしかできないことがあると、わたしは知っている。
「植民地を独立させるという夢は、お諦めになるのですか」
ヴィクター殿下は、痛いところをつかれたという顔をした。
「それは……」
「わたしは、自分が原因で、あなたが夢をお諦めになってしまうなんて、耐えられません」
殿下はソファーから立ち上がると、わたしの傍まで歩いてきた。わたしが腰かけているソファーの背もたれに手を乗せると、かつてないほど距離が近くなる。
「……ローザリカ、わたしはあなたのことが好きです。だから、あなたのことを誰よりも幸せにしたい。それは、いけないことでしょうか?」
まずい。心臓がドキドキしてきた。このまま流されるのはよくない。ヴィクター殿下が帝位に即くか即かないかで、本国だけでなく、植民地の運命も変わってしまうのだ。
自己陶酔癖のある人なら、「ああ、わたしって悪い女だわ」と悦に入れるのかもしれない。だけど、あいにくとわたしにそんな趣味はない。
ヴィクター殿下のことは大好きだ。でも、相思相愛だからといって、彼やその周囲の人たちの将来を、悪いほうに変えてしまってよいわけがないのだ。
わたしは、次に発すべき言葉を決めた。
「殿下、おやめ下さい」
ヴィクター殿下は、はっとして背もたれから手を離し、身を引く。
ちりちりする胸の痛みを感じながら、わたしは立ち上がった。うつむいたまま、ぼそりと呟く。
「……殿下は、ずるいです」
だって、そんなことをされたら、全てを放り出して、殿下と結婚したくなってしまうじゃないか。
わたしは立ち上がり、部屋の扉を目指す。
こうして、わたしたちの初めての喧嘩は、不完全燃焼に終わった。
殿下に呼び止められなかったので、わたしは扉を開けて廊下に出た。




