第十九話 皇太子の苦悩
顔を見たくもない相手に会ってしまった。天敵の登場に、わたしは身構える。
「……セラフィーナさま、今日はパーティーもないのにお珍しいこと。わたしに何かご用ですか?」
セラフィーナは微笑した。
「ええ、あなたにとっておきのことを教えて差し上げようと思って」
反応しちゃいけない。直感的にそう思ったが、言葉が口をついて出た。
「とっておきのこと?」
セラフィーナは勝利を確信したような笑みを浮かべる。
「そうですわ。近いうち、皇帝陛下は、皇太子殿下とあなたの婚約を破談になさるでしょう」
なんですって? 頭の中が真っ白になりかけたものの、わたしはなんとか踏みとどまる。
「──それは、どういうことですか?」
「こういうことですわよ。ラヴィニアさまが、わたしを含めた貴族たちとともに、皇帝陛下に直談判なさったの。陛下は提案を持ち帰って下さいましたわ」
それじゃ、まだ決定事項というわけではないのだ。いや、その考えは楽観的すぎるか。ラヴィニアさまには気をつけるよう、皇妃陛下に注意されていたけれど、まさかそこまでしてくるとは思わなかった。
ヴィクター殿下の婚約を受ける前、絶対厄介な事態になるだろうと思ったことを、今更のように思い起こす。
でも、今のわたしは殿下との婚約を破談にしたくない。だって、彼のことが好きだと、ようやく自覚したばかりなのだ。
皇妃陛下を頼るべきだろうか。それとも、殿下に──。
どうしてよいか分からなくなって、わたしはうつむいた。
勝ち誇ったようなセラフィーナの声が聞こえる。
「ランダルさまばかりか、皇太子殿下までたばかるから、そんな目に遭うのですわ」
聞き捨てならなくて、わたしはばっと顔を上げた。
「わたしは殿下をだましてなんかいない! ランダルさまのことも。あなたたちが勝手にそう思い込んでいるだけでしょう」
わたしの剣幕に、セラフィーナは驚いたようだ。
「……じゃあ、どうして素性をランダルさまに隠して近づいたのです?」
「ランダルさまとは、たまたま知り合ったの。その時は彼に惹かれていたから、本当のことを話せなかった。嫌われたくなかったから、本当のことを言えなかっただけです」
セラフィーナは黙ってしまった。言い足りなくて、わたしは続ける。
「殿下は、わたしを疑うようなことは一言もおっしゃいませんでした。そればかりか、わたしの家族のことも受け入れてくれた。全部、あなたの思い違いです」
セラフィーナは、反論の糸口を探そうとしているようだった。ふと、わたしは空しくなった。ここで彼女を言い負かしても、問題の解決にはならない。
もしかして、皇帝陛下はこの件で殿下を呼んだのかもしれない。
だとしたら、今すぐには、ヴィクター殿下と会うことはできないだろう。彼と会うまでに、考えを整理しておかなければならない。
冷静にそんなことができるか疑問だったけれど、わたしは「失礼致します」とだけセラフィーナに言い残すと、その場を去った。
*
お茶に誘った時、ローザリカは嬉しそうだった。そんな彼女の様子を思い出し、ヴィクターは温かい気持ちになる。
父との話が終わったら、またローザリカを誘いにいこう。
そう密かに誓い、ヴィクターは父の待つ両親の部屋に入った。
「失礼致します、父上」
「うむ。まあ、座れ」
父に促され、ヴィクターは向かいのソファーに腰かける。
「それで、ご用とは?」
父は言いにくそうに口を開いた。
「……実はな、お前の婚約のことだ」
ヴィクターは眉をひそめた。父がローザリカとの婚約について口出ししてくることなど、今まで皆無だったからだ。
「それが、何か?」
「今更言うのもなんだが、この婚約、白紙に戻すわけにはいかないか?」
予想だにしていなかった言葉に、ヴィクターは絶句した。
ローザリカとの婚約を破談にするなど、考えられない。まして、最近の彼女は、ようやく自分に好意を示してくれるようになってきたのだ。
体温が急激に下がったような気さえしたが、ヴィクターはぴしゃりと言い放った。
「全くそのような気はございません。父上は何をおっしゃるのです?」
父はため息をついた。
「そう言うと思った。だが、ローザリカ嬢の立場は脆弱すぎる。お前とは不釣り合いだ。それに、まだ婚約式を挙げてもいない」
頭に血が上りそうになって、ヴィクターはぐっとこらえた。
それは、ランダルに婚約破棄をされた彼女が、最も気にしていることだろう。未来の舅である父が、そのようなことを口にするとは……。
それにしても、どうして父は、突然、そのようなことを言い出したのだろう。
不審に思いながらも、ヴィクターは再度否定した。
「何度でも申し上げますが、わたしはローザリカ嬢との婚約を破談にする気はございません。父上に命じられようと、これだけは譲れない」
「そこまで彼女と結婚したいのならば、皇太子の地位を返上しろ」
突き放すような父の台詞に、ヴィクターは胸をつかれた。父はそこまで、この婚約を取りやめにしたいと考えているのだ。
ヴィクターは、しばしの間、目を閉じた。
「……わたしの気持ちは変わりません。ですが、少し考えさせて下さい」
──皇太子の位を、返上するか否かを。
ヴィクターは父の返事を待たずに、部屋を辞した。
今の自分の表情を、ローザリカには見られたくない。
強くそう思ったヴィクターは、彼女の元へは向かわずに執務室に戻ることにした。
執務室で顔を合わせるなり、ネインが驚いたように言った。
「殿下、何かございましたか? お顔が怖いですよ」
ヴィクターは力なく笑う。
「実は、さっき父上に、ローザリカ嬢との婚約を諦めろ、と言われたよ」
「え……どうして突然」
「分からない。訊くべきだったのかもしれないが、そんな余裕もなくて……」
ヴィクターは、執務机の前に置かれた椅子に腰かける。
「実は、『どうしてもローザリカ嬢と結婚したいのなら、皇太子の地位を返上しろ』と父に告げられた」
ネインは黒い瞳を見張った。そのあとで、真顔になる。
「……わたしは反対です。殿下は、以前、わたしとお約束なさいましたよね? 必ず、ご自分の代でシャルダを独立させると」
ヴィクターの胸は痛んだ。
一人の女性と、責任を伴う皇太子の地位とを天秤にかけるような男には、植民地を独立させ、対等な関係を築くなどという夢は、過ぎたものだったのかもしれない。
ヴィクターの表情を見て、ネインは視線を外した。
「ですが、わたしは、あなたがどれだけローザリカさまのことを大切に想っておいでか、知ってもいます。……ご自分がご納得なさる道をお選び下さい」
それが、彼なりの自分に対する精一杯の好意なのだと分かっていたので、ヴィクターはほほえんだ。
「ありがとう、ネイン。ローザリカを選んだら、君はきっと秘書官を辞めてしまうのだろうね」
ネインは何も答えなかった。
ヴィクターは答えのない問いを、何度も何度も自らに投げかけ続けた。




