第十二話 ネイン
下手をしたら大騒動になるところだった婚約内定パーティーも終わり、わたしは通常の職務に戻った。
その日、わたしは皇妃陛下のお部屋で、陛下の話し相手をしていた。すると、ヴィクター殿下の話が出た際に、皇妃陛下が思い出したように口にした。
「ああ、そういえば、あの子に話しておくことがあったわ。ローザリカ、悪いけど、ヴィクターを呼んできてくれる?」
傍に控えている女官は他にもいるのに、わざわざわたしを指名するとは。
皇妃陛下は、絶対にわざとやっているな。まあ、まだ内定とはいえ、婚約したばかりの二人に気を利かせているのかもしれないけど。
わたしは席を立つ。
「はい、かしこまりました」
「頼むわね。ヴィクターなら多分、今の時間は執務室にいるでしょう。場所は今から言うわね」
皇妃陛下の言葉を頭にメモし、わたしはお辞儀をして部屋を退出した。
廊下に出たわたしは、下の階にあるヴィクター殿下の執務室を目指した。廷臣用の階段を下り、一階に着く。皇妃陛下に言われた通りに長い廊下を通って、ヴィクター殿下の執務室の前に、ようやく辿り着いた。
両開きの扉の前に立ち、ふと思う。わたしが顔を見せたら、殿下はどんな表情をするのだろう。喜んでくれるといいな……。
は! 何を考えてるんだ、わたし!
恥ずかしい心の声を打ち消すように、近衛兵に守られた固い扉をノックすると、返事があった。
「どうぞ」
扉を開けて、お辞儀しようとしたわたしは、驚いて動きを止めた。
黒髪に浅黒い肌の、明らかに外国人だと分かる青年が一人、執務室の椅子に腰かけていたからだ。もちろん、ヴィクター殿下の座る奥の椅子ではなく、おそらく秘書官が座る席にだ。
あ、でも、この人の顔、見たことがある。確か、ヴィクター殿下と一緒に廊下を歩いていた。ということは、この人は殿下の秘書官なのだ。
そう考えたわたしが、もう一度お辞儀をしようとすると、青年はぷっと吹き出し、立ち上がった。
「……失礼。あなたはローザリカさまでしょう? わたしに対してお辞儀をなさる必要はございませんよ」
とても流暢なイスドラル語だ。それはともかく、わたしがどう答えてよいものやら困っていると、青年は異国情緒溢れる整った顔に微笑を浮かべた。胸に右手を当て、頭を下げる。
「申し遅れました。わたしはネインと申します。皇太子殿下の秘書官を務めさせていただいておりますが、今はただの留守番です。皇太子殿下なら、もうすぐお戻りになると思いますよ」
「あの……なぜ、わたしが皇太子殿下に用があると?」
「当然でしょう。あなたと殿下は婚約者同士なのですから。わたしたちは、ほぼ初対面ですから、わたしに用があるはずがございませんし」
改めて第三者から「婚約者同士」と言われると、面映ゆい。ランダルさまと婚約した時は、こんなに恥ずかしかったかな? 思い出したくもないけど。
執務机の前に設えられた応接セットを、ネインさんは手で示した。
「あなたのことは、よく殿下からお聞きしておりますよ。さ、そちらにおかけ下さい。ローザリカさまに椅子も勧めずにお待たせしたとあっては、わたしが殿下に叱られてしまいます」
「ありがとうございます」
わたしは礼を言うと、ソファーに腰かけた。ネインさんも秘書官用の席に座り直す。よくしゃべる印象のあるネインさんだけど、その瞬間、沈黙が満ちる。でも、気まずい沈黙じゃなかった。昔から知っている人との間に訪れる、ちょっとした静かな時間に似ている。
そこまで考えて、ふと気づいた。そうか。この人の他人を安心させる感じ、ヴィクター殿下に似ているんだ。
質問してみたくなり、わたしは自分からネインさんに声をかけた。
「あの、ネインさまはどこのご出身ですか?」
「わたしに『さま』付けする必要はございませんよ。それはともかく、出身はシャルダです」
シャルダ。帝国の植民地のひとつだ。でも、わたしは今までシャルダ人に会ったことがなかった。植民地の人は、帝国のことをどう思っているんだろう。確か、この前シャルダで反乱があったって、新聞に書いてあったよね。ネインさんはだいぶフレンドリーだけれど。
わたしは微妙な表情をしていたらしい。ネインさんが再び話し始めた。
「わたしと殿下が出会ったのもシャルダです。殿下はその時、シャルダを含めた植民地を視察なさっておいででした。殿下が大通りを通られた時、わたしはあろうことか石を投げたのです」
わたしは目を見張った。にもかかわらず、ネインさんは懐かしむような顔をした。
「もちろん、わたしはその場で捕らえられました。ところが、殿下はわたしをお赦しになり、その上、わたしと友人になりたいと仰せになったのです」
ヴィクター殿下なら、十分にありうる話だ。やっぱり、殿下の人の好さは底抜けだと思う。
わたしは尋ねた。
「それがきっかけで、こちらに?」
「はい。サリュースに来てからは、そりゃあもう必死で勉強致しましたよ。周りの偏見など気にしていられないほどにね」
色々、苦労したんだろうな。でも、ヴィクター殿下が守ってくれたはずだし、深刻なことにはならなかったのだろう。
と、扉をノックする音が響く。ネインさんが返事をすると、扉はすぐに開き、ヴィクター殿下が現れた。殿下はわたしを見て、驚いた顔をする。
「ローザリカ嬢、どうなさったのですか?」
「あの、殿下。皇妃陛下がお呼びでございます」
「ああ、そうでしたか」
頷いたあとで、ヴィクター殿下はわたしとネインさんとを交互に見やった。
「ローザリカ嬢、ネインが何か失礼なことを申しませんでしたか? 彼は気のよい男ですが、少しご婦人に対して失礼なところがありますので」
ネインさんが眉を吊り上げる。といっても、目と口元は笑っている。
「酷い言われようですね。ローザリカさま、そんなことはなかったでしょう?」
ちょっと笑われただけだから、失礼には当たらないだろうし、わたしも気にしていない。
それよりも驚いた。ヴィクター殿下が人をからかうなんて。よっぽどネインさんに気を許しているのだろう。そもそも、婚約者が自分以外の男性と一緒にいたら、少しは不愉快になってもおかしくないしね。
ほほえましくなって、わたしはにっこり笑った。
「はい。ネインさんには、殿下のお話を色々教えていただきました」
ヴィクター殿下は、なんとも言えない表情になる。
「わたしのことを?」
わたしは少し殿下をからかってみたくなった。
「そうでございます。でも、なんの話をしていたかは秘密です」
ヴィクター殿下は上を向き、赤髪をかき上げた。
「……それは困りました」
その様子が本当に困っている風だったので、わたしは思わず声を上げて笑ってしまった。
気づくと、ヴィクター殿下がわたしを見つめていた。そんなに穴があくほどじっと見られては恥ずかしい。わたしの笑い声、そんなに変だったのかな。そう思うと、問いかけざるをえなかった。
「……あの、何か?」
ヴィクター殿下は柔和にほほえんだ。
「あなたの笑顔と笑い声が、とてもかわいらしいと思って」
頬が熱くなるのを感じていると、ネインさんが横から言った。
「お二人とも、いちゃいちゃなさるのは、人目がない時にお願い致しますよ」
わたしとヴィクター殿下は、目を見合わせ、揃って赤面した。




