第一話 そして婚約破棄
たった今、わたしは婚約を破棄された。
皇宮の大広間で開かれている夜会の真っただ中で。
……いや、そういうことは、もっと場所を選びましょうよ。
動揺しながらも、冷静にならなくては、と思い繰り出した、わたしの心のツッコミも空しく、目の前の男女二人は、厳しい眼差しを注いでくる。
アッシュブロンドの男性は、わたしの「元」婚約者、ランダル・アークライト。公爵家の嫡男だ。
栗色の髪の女性は、セラフィーナ・ブラッドフォード。伯爵令嬢で、下町育ちのわたしとは違う、生粋のお嬢さまだ。
この騒動は、彼女が引き起こした、と言っても過言ではない。
セラフィーナはランダルさまの幼なじみらしい。
ランダルさまに連れられて、初めて彼女に紹介された時、わたしを見る目つきがそりゃあもう、ものすごく険悪だった。おそらくは、ずっとランダルさまのことが好きだったのだろう。
セラフィーナは、わたしの経歴をあらいざらい調べ上げ、ランダルさまに報告した。
そして、わたしはランダルさまを伴ったセラフィーナに、この場で糾弾されたのだ。
あの時の彼女の剣幕はすごかった。
何せ、「蒸気船で世界一周した」だの、「鉄道で大陸横断した」だの、景気のよい話に花を咲かせていた紳士淑女のみなさまが、水を打ったように静まり返ったくらいだ。
セラフィーナは、わたしが皇妃陛下付きの女官であることを利用して、ランダルさまに近づいた、と言い立てた。さらに、玉の輿に乗るために、召使上がりなことや実家が貧乏なことを隠して、婚約を持ちかけたに違いない、と。つまり、わたしがランダルさまをだまくらかしていたというのだ。
「本当なのか? ローザリカ」と、ランダルさまがわたしに詰め寄った。婚約に乗り気だったのは、あなたのほうでしょうに。
けど、実家の事情に関しては、認めざるをえなかった。確かにわたしの家は、貴族階級に次ぐ騎士階級でありながら、事情があって、母がメイドとして外に働きに出なければならないほど貧乏だ。
その件に関しては、両家が顔合わせをする前に、きっちり話すつもりでいたから、だましていたというのは言い過ぎだ。だけど、正直に打ち明けるのが怖くて、黙っていたわたしも確かに悪い。
ランダルさまはため息をひとつつくと、こう言い放った。
「……セラフィーナの言う通り、君はわたしをだましていたのだな。この婚約はなかったことにしてもらいたい」
セラフィーナに弾劾され始めてから、雲行きが怪しいな……と、覚悟はしていたが、ショックなものはショックだ。その上、こんな大勢の人前で、婚約破棄を言い渡されるなんて。
それにしても、つい最近まではあんなに甘々な言葉をかけてくれていたのに、この掌返しは酷くないですか、ランダルさま。
婚活のために参加したパーティーで彼に声をかけられ、デートを重ねてプロポーズしてもらった時は、本当に嬉しかった。ランダルさまを心からすてきな方だと思い、身分違いでも、この方となら大丈夫、と信じたものだ。……さすがに今は、自分の目が節穴だったことを痛感するけれど。
こういう時は、泣いて縋るべきなのかもしれない。だが、彼の態度に一気に冷めてしまった自分がいる。代わりに込み上げてきたのは、怒りだ。
圧倒的な悔しさが精神的なダメージに勝ったので、わたしは言い返すことにした。
「それは、あんまりではございませんか。実家の事情を黙っていたことは謝罪致します。ですが、わたしはランダルさまを利用して玉の輿に乗ろうだなどと、考えたこともございません」
それは、ちょっとばかりは考えた。公爵家の嫡男と結婚すれば、もうお母さまは無理をして働かなくてもいいんじゃないかとか、弟もいい学校に進学できるじゃないかとか。
でも、わたしだって栄えある女官として働く身。断じてランダルさまを利用するつもりで、プロポーズを受けたわけではない。
「嘘おっしゃい!」
セラフィーナがぴしゃりと言う。その確信は、どこからくるんだ。
貴族令嬢とはかくあるべき、というイメージを体現したかのような、楚々とした美貌の彼女は続ける。
「玉の輿狙いでなければ、どうしてあなたのような生まれの卑しい方が、ランダルさまに近づくというの?」
聞き捨てならないものを感じ、わたしはセラフィーナを真正面から睨みつけた。
「今の言葉、訂正して下さらない? わたしはれっきとした騎士階級の生まれでしてよ」
セラフィーナは鼻で笑う。
「あら、妻子を捨てた父親と、メイドに落ちぶれた母親の間に生まれたあなたが?」
全身の血液が逆流したのかと思うくらい、頭に血が上っていくのが分かった。
自分の悪口を言われるのなら、まだ我慢できる。でも、お母さまを悪し様に言われるのだけは、絶対に許せない。
「おやめなさい」
わたしが怒りを爆発させる寸前、深みのある静かな声がかけられた。
いつの間に近づいてきたのだろう。全く気づかなかった。
傍らにたたずむ声の主を見た瞬間、ランダルさまとセラフィーナの顔色がさっと変わる。ランダルさまが呻くように言った。
「皇太子殿下……!」
そう、立っていたのは、この帝国の皇太子、ヴィクター・サディアス殿下だったのだ。
暖炉で踊る炎のような赤髪に、ロイヤルブルーの瞳。ずば抜けた長身に、国中の若い娘たちが、黄色い悲鳴を上げずにはいられないような端正な顔立ち。
皇妃陛下にお仕えするわたしでも、めったに近づけないヴィクター殿下の登場に、息を詰めて事の成り行きを見守っていた周囲も、ざわつき始めた。
ヴィクター殿下は、わたしを守るように、ランダルさまとセラフィーナの前に立ちふさがった。
「先程から見ていましたが、セラフィーナ嬢、言い過ぎではありませんか? それに、ランダル殿。事情があるとはいえ、このような場所でご婦人の名誉を傷つけるのは、どうかと思いますが」
ここまでおっしゃって下さるなんて……。
ヴィクター殿下のお言葉に、わたしは少し留飲を下げた。
ランダルさまは黙り込んだが、セラフィーナはレースの手袋に包まれた右手で左手をぎゅっと握りながら、反論した。
「ですが、皇太子殿下は彼女をよくご存じないから、そのようなことをおっしゃるのですわ。そのご婦人が、いかにランダルさまをだましたか──」
「知っていますよ。ローザリカ・フィールド嬢は信頼の置ける女官だと、母が話しておりましたから」
皇妃陛下のお言葉を持ち出され、さすがのセラフィーナも沈黙した。
と、今まで来客たちの会話の邪魔にならないように、落ち着いた音楽を奏でていた楽隊が、華やかな曲を演奏し始めた。曲に合わせるように扉が開き、皇帝陛下と皇妃陛下が入場してくる。
この騒動ですっかり忘れていたけれど、今夜は皇妃陛下主催の音楽会なのだ。今日はお休みをいただいているから、わたしはこうして夜会に出席している。
でも、こんなことになるのなら、皇妃陛下のお供を務めていたほうがよかったなあ。せっかく皇妃陛下に、「婚約者と楽しんでいらっしゃい」というお言葉をかけていただいたというのに。
皇妃陛下がわたしを見つけ、艶やかにほほえんだ。すると、ランダルさまとセラフィーナは、揃ってすすーっと立ち去っていく。この人たち、権力に弱いな。
皇妃陛下に会釈を返していると、ヴィクター殿下がくるりとこちらに向き直った。
「大丈夫ですか? ご不快な思いをされたことでしょう。……もう少し早く、間に割って入るべきでした」
いい方だなあ。
今まで、この皇太子殿下に対する悪口は、ほとんど耳にしたことがない。男性にとっては主君にしたい人格者。女性にとっては、旦那さまにしたい完璧な殿方──それが、ヴィクター殿下への宮廷での評価だ。
わたしはにっこりと笑う。
「いいえ、とんでもないことでございます。助けて下さって、ありがとうございました」
ヴィクター殿下は、見る者がとろけそうな笑顔になった。
「お気になさらず。──ところで、その……嫌なことを思い出させてしまうかもしれませんが、ランダル・アークライトとの婚約は……」
わたしはきっぱりと答えることにした。断じてやけになったわけではない。
「はい、先程、破談になりました」
「それは……なんと言ったらよいのか……」
「殿下がお気になさるようなことではございませんわ。正式に婚約式を行ったわけではないですし、当人同士の口約束のようなものでしたから」
……それでも、腹はものすごく立つし、裏切られた思いが強い。
といっても、ヴィクター殿下が悪いわけではないので、わたしは腸の煮えくり返るような思いは顔に出さないでおいた。
ヴィクター殿下は、「そうですか。それでは……」と、爽やかに微笑して去っていった。
そういえば、彼はどうしてわたしを庇ってくれたのだろう。
職業柄、顔を合わせることはあるけれど、今まで親しく言葉を交わしたわけでもないのに。
もっとも、殿下のご性格なら、大して縁のない女性でも助けてしまいそうだ。それどころか、仔犬やら仔猫やらが雨に濡れそぼっているのを見かけただけで、保護して里親まで見つけてしまうだろう。
少なくとも、ヴィクター殿下という方は、宮中ではそのように認識されている。
いったんは首を捻ったものの、わたしはそう結論付けて音楽に耳を傾ける人々の輪に戻っていった。