ピエロが泣いた日
「ダメだ・・・」
男はそうつぶやいてその場に腰を下ろした。
男は評判の道化師だった。
見事な手品と軽業で人々を魅了していた人気者だった。
しかし彼は突然に芸を止めてしまった。
原因は道化師として致命的な『笑えなくなった』事であった。
どれだけ見事な芸であっても道化師である以上は笑顔なしでは人々を楽しませる事は出来ない。
彼は行き詰っていた。
彼は真面目な人間だった。
人々を楽しませる為に真摯に芸に打ち込んできた。
そしてそれは多くの人達に認められた。
その結果、真面目な彼はより良い物を見せようとより一層芸に集中した。
しかしどうしても限界を超える事が出来なかった。
それでも彼は必死に練習した。心の余裕を無くすほどに。
気がつけば、彼は笑顔を忘れてしまった。
どうして笑っていられたのかもわからなくなってしまった。
人気のなくなった夜の公園の片隅に力なく腰を下ろしていた彼の前に突然不思議なものがあらわれた。
それは一体の人形だった。
ただし自分で動く人形だった。
人形は男の元にやって来ると訝しげに自分を見つめる男に対してこう言ったのだった。
『芸を教えて欲しい』
酒に酔って悪い夢でも見ているのかと思ったが酒など一滴も飲んでいない。
何が起こっているのか頭の整理が追いつかない男に人形が事情を説明する。
人形は人間になりたかった。
ずうっとそう願い続け、ついにその願いが神へと届いたのだという。
しかし神は人形に条件をつけたのだという。
人間になるにあたり『喜怒哀楽』を身につけること。それが人間になる為の条件だった。
しかし人形には心が無かった。だからどうしたらそれを身につけられるかわからなかった。
途方に暮れていた時、人形は男の演技を見たのだという。
怒ったり笑ったり悲しんだりと楽しそうに『演技』をする男の姿を見て、
この男の芸を学べば自分も喜怒哀楽がわかるかも知れないとそう思ったのだという。
男は人形を薄気味悪く思いその頼みを断ろうと思った。
しかし相手は神を相手に自分の願いを貫き通した存在だった。
執拗なまでに頼み込んでくる人形についに根負けした男は人形に芸を教える事となった。
そして男と人形は夜、人気のなくなる頃合いを見計らって公園で芸を練習する事となった。
不思議な人形相手に自らの芸を教える作業と言うのは、いざやってみると自分の芸を見直すことにもなった。
慣れたおかげでどこか傲慢な気持ちが心の中に生れていた事に気付かされた。
自分が今まで磨いてきた芸が本当はどれだけ難しいものだったかを改めて理解した。
それは失いかけていた自信を彼の心に取り戻す事となった。
人形が一つ芸が出来るようになる度に、昔の自分を思い出し我が事の様に喜ぶようになった。
そして芸が出来る喜びや楽しさを、男は少しずつ思い出していくのだった。
人形と過ごす時間、それは男にとっても人形にとってもとても素晴らしい時間となるのだった。
だがそれ故に、終わりは確実に近づいて行った。
神との約束の最後の日、もはや人形が動く事は無かった。
男は人形との触れ合いのおかげでかつての自分を取り戻す事が出来た。
辛くとも楽しい日々だったからこそ笑っていられたのだという事を思い出した彼は、
再び道化師として前よりも多くの人々を魅了するようになった。
人形の方も少しずつ教えられた芸を身につけ、少しずつ確かに人間に近くなって来ていたのだった。
だが人形は、結局最後まで身につける事が出来ないものがあった。
それは『哀しみ』の感情。
人形にとっても男と過ごす日々は素晴らしいものだった。
自分が何か出来るようになる度に男は我が事の様に喜び、それがまた自分の喜びにもなった。
時には芸の事でぶつかる事もあった。男と怒鳴り合う事も最後の方ではよくあった。
だが男と芸について共に語り合う時間は楽しかった。
人形は幸せだったのだ。
だから人の持つ『哀しみ』を理解できないまま最後の時を迎えてしまった。
もう動かなくなった人形を男は拾い上げる。
「君は、最後まで泣く事が出来なかったね。・・・涙なんてこんなに簡単に流れてくるものなのに・・・」
男の眼からはとめどなく涙があふれ出ていた。
「ありがとう。君のおかげで私は再び道化師として笑いながら生きていく事が出来るようになった。
もう迷う事は無い。私はこれからも多くの人を楽しませて生きていくよ。だから・・・」
男は人形を強く抱きしめる。
「今だけは、君を失った事を悲しませて欲しい。君は私にとってかけがえのない友人だったよ・・・」
その後、男は道化師として大陸中にその名を広く知られるようになった。
一方で男は後進の育成にも力を入れ、多くの優秀な弟子達を輩出する事となった。
その育成方針は単なる芸の指導に止まらず、人間としての生き様や在り様についても深く関わるものであった。
共に喜び、時に反発し、哀しみに寄り添い、楽しさを分かち合う。
そして最期は多くの人々に見守られながら眠るように天に召されたのだった。
そんな彼の傍らには常に、一体の古くなった人形があったという。
『哀しみを知って、初めて人は人になれるのかもしれないね。
哀しみを知るからこそ、私達は人の心に寄り添う事が出来る気がする。
人の心に寄り添わない芸は、ただの技自慢に過ぎないのだから・・・』(完)