8、君と僕は
動くに動けなかった。
赤石は休み時間、職員室に行き教師に質問しているか、そうでなければ河原崎や他の生徒に絡まれているため、話し掛ける機会がなく授業も既に四限に入ってしまっていた。
しかし四限は選択授業のため河原崎等の絡む輩がいない。狙うのは授業が終わって教室に戻る間。サシで話せるタイミングがあるはず。
俺は黒板の模写を終えて赤石について考え始める。
カンニング事件以降、赤石はずっとイジメを受けてきた。
しかしそれでも赤石はイジメに屈していない。
俺はそう確信している。
カンニングが発端でイジメの対象になったが、あのプライドの高さだ。この程度で落ちぶれる様なヤツではなかった。何より赤石がイジメにあっている状況は特進からの脱落と似ている。それが死んでいないと思うのが最大の理由。
俺と赤石は特進からの脱落者だったが、決して腐らなかった。他の多くの者が淀みに飲み込まれて行く中、俺は姉さんのために、赤石は己のプライドのために折れなかった。だから俺は一方的な親近感を感じていたのかもしれない。そんな赤石がイジメ程度で腐るとは到底思えないのだ。
それにあいつは俺を未だに恨んでいるだろう。
俺が最も危惧するのは、情報を引き出すはずが赤石に飲み込まれる事だ。
息を潜めてヤツは俺への復讐を伺っているかもしれない。それは所詮、可能性の話。しかしもし、もしそれが事実だとしたら、やはり今は赤石にとって千載一遇の機会なのだ。
わざわざ皮肉を言われに行くのか?
そんな思考が頭を支配する。そう、俺は怖いのだ。もう五ヶ月もまともに話をしていないが、クラスの空気を読んでイジメた事もある。
そんな赤石が今の俺を見たらなんて言う?
――嘲笑うだろう。徹底的に。
「人から推薦を奪っておいてこの様か」
「結局、お前も俺と同じで犯罪者なんだな」
「ようやく人の痛みが分かったか卑怯者」
仕方ない。
そんな非難をされても、俺は返す言葉が無い。冤罪だなんて赤石の前で言う資格もない。
だがしかし、やらねばならないのだ。
チャイムが鳴った。
俺は一度被りを振って迷いを振り落とす。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。それに攻略法も考えてある。
俺は教室から出る赤石に声を掛けた。
「赤石、ちょっといいか?」
赤石はこちらを一瞬だけ見てすぐに目を逸らしたが、軽く頷いた。近くにある自販機の前に移動する。
俺は赤石と対峙して、あらためて考え巡らせた。そして声を掛けようとした矢先、逆に声を掛けられた。
「これ」
「え?」
そういって赤石が出したのはダイヤル式の鍵。
朝のHRで大沼が新しく追加すると言っていたヤツと同じタイプだ。
「……大沼先生に渡す様に頼まれて予備の鍵」
「予備もあるのか」
「番号は二四六八。番号は誰にも言ってないから、貴重品袋の管理担当の人だけに伝えてくれって」
「あ、ああ、分かった。山本にも伝えておく」
どうして容疑者の俺に? いや、それよりも……。
「なんでお前がこんな物を持ってるんだ?」
その言葉に赤石は一瞬――緊張した様に見えた。
「たまたま、進路で相談があって……」
「そうか……」
だがそれきり赤石は黙ってしまう。やや気になる所ではあったが、相手はあの大沼だ。実際のところは大して考えていないで渡しただけかもしれない。そう結論付け、俺はとりあえず鍵を受け取る。
それに伝えると言っても、実際に山本に伝えるつもりは全くなかったりする。必要がなければ、あまり顔を会わせたくない。
むしろ俺は歯切れ悪く、こちらを見向きもしない赤石が気になった。
再び沈黙が降りる。
赤石はただ黙っている。皮肉の一つも言わない。沈黙に絶えられず、俺が先に考えていた事を言う。
「なぁ、赤石……俺と手を組まないか?」
赤石に動く気配はない。
確かに赤石は俺を憎んでいる。しかし同時にイジメの中心にいる河原崎をも憎んでいるはずだ。
共通の敵。
ならば下手に交渉などせず、手を組んでしまえばいい。それが俺の策だった。
黙っているのをいい事に続きを話す。
「今回の事件、俺は河原崎が犯人だと思ってい――」
「それはないよ」
消えそうな声だった。
「え?」
「河原崎君は……たぶん、そんな大それたこと出来ない……」
俺は赤石の否定よりも別な所が強烈に引っかかった。
河原崎――『君』だと?
思わず赤石をまじまじと見た。目が合う。しかしすぐに逸らせれる。
……怯えているのか、あの赤石が?
だがこちらをチラチラと盗み見る姿は、顔色を伺っている以外に考えられなかった。
「き、気を悪くしたのなら謝るよ。別に木戸君が犯人だって言いたいわけじゃないんだ。その、ごめん……」
木戸『君』。
俺は赤石の君付けに戦慄する。カンニング事件が起こる前は一度だって俺の事を君付けした事はなかった。もちろん河原崎もだ。間違っても一度も呼ばなかった。プライドの高い赤石が同級生を『君』付けなんてありえないのだ。
「それに僕は、あんまり事件のこと分からないから……ごめんね」
『僕』。
一人称まで変わっている。前は俺と言っていただろう。
あらためて赤石を見る。怯え切った目、所在なく動く手、小さく縮こまった姿勢、口を開けば謝罪の言葉ばかり。
目の前にいるのは……一体誰だ?
無意識に尋ねる。
「河原崎が、憎くないのか?」
「僕と河原崎君は……いや、柳君達も含めて友達だよ……」
唖然とした。開いた口が塞がらない。
十人程で囲んで容赦なく腹にボールを蹴りこむ連中が友達だと?
お前は誰だ?
お前は俺のライバルじゃなかったのか?
『T大の推薦は俺がいる限り無理だ。さっさと諦めてはどうだ、木戸』
俺に推薦は無理だと宣言したのは。
『覚えていろよ、木戸……』
あの捨て台詞を吐いたのは。
他でもない、お前じゃないのか赤石。
「だ、だからあんまり悪口とか言わないでくれよ。僕は関係ないしさ……変な事を言うとまた、その……また僕がみんなに……」
ついに眩暈がした。視界が揺らぐ。目の前の現実を否定したかった。しかし出来るわけも無い。なぜだろうか、俺は泣きそうになった。
ああ――赤石は、死んだのだ。
プライドが高く相手を見下しながらも、がむしゃらだった野心家はもういない。俺への怒りも、河原崎への怒りも、何もない。今ここにいるのは他人の顔色を伺って生きる事しか出来ない、保身しか考えが回らない淀みに押し潰されたイジメの被害者だった。
「本当に、何も知らないんだな?」
俺は震えた声でゆっくり尋ねる。まるで壊れ物を扱うように。
「う、うん。ただ、河原崎君はちょっと無いかな」
そうか……そう言おうとしてある部分に引っかかった。
「じゃあ、河原崎じゃなかったら?」
「え? あ、いや、その……」
何か知っている様に感じた。俺は脅そうかと思い、一瞬だけ躊躇する。しかしすぐに腹を括った。それでも虚しさは消えなかった。
「あいつらに俺が、犯人としてお前が怪しいって事を言うとしたら、教えてくれるか?」
赤石の顔が真っ青になる。
「ま、待って……待ってよ。お願いだから」
「じゃあ教えてくれるか?」
そう言って俯いてしまう。そしてしばらくして。
「僕から聞いたって事は絶対に内緒にしてくれるなら……」
「分かった」
「ぜ、絶対だからね?」
俺は不安そうな赤石をなだめ、話をさせた。
自分の親の介護をするって、こんな感覚なんだろうかとふと思う。
「あの、その、柳君は……なんか、薬をやってるとか、売り捌いてるとか」
「柳が薬?」
赤石はビクビクしながらも頷いた。
確かに、ありえない話ではない。噂もあった。校内でも珍しいタイプの人間だ。お互いに罵りあい揉み合った経験からも、薬をやっていてもそんなに驚きは無い。
――だが高校生がそう簡単に薬物を手にできるのか?
さらに問題は別なところにもある。
――それは事件にどんな関係がある?
薬と財布。財布の中に薬が入っている? いや、それは盗む動機にはなりえない。
では薬を買う金欲しさだったとしたら? それはありえた。取引という事を考えれば集金を待てなかった可能性もある。金が入用という事にも納得がいく。ただ……あくまで犯人は河原崎で柳は関係が無いのだ。
俺が再び考えに没頭しかけると赤石が尋ねた。
「あの、もう行ってもいいかな?」
「ん、ああ。もう大丈夫」
赤石は安堵した様子で踵を返してクラスの方へ戻って行った。
その時ちょうど赤石に後ろから声がかかった。
「おい、おせぇよ赤石。早くパン買ってこいっつーの。今日は五個。選ぶのは任せる」
河原崎だ。昼休みは毎日の様に河原崎にパシられていると聞くが、事実らしい。なにより流石におどおどした赤石を前にすると、ヒョロっとした女々しい河原崎でも威厳がつくらしく、無駄に威勢が良く見えた。
「う、うん……すぐ買ってくる」
一方、愛想笑いを浮かべ他人の飯を買いに行く元選抜一位。その姿は痛々しかった。
河原崎の隣にいる生徒が尋ねた。
「お前五個も食うの?」
「まさか、残りは夜だよ。今こうやって赤石に買わせれば夜も金使う必要ねぇじゃん? 頭良いいっしょ?」
「うっわ、ずりぃ。俺も今度買わせようかな」
「バーカ、あれは俺専用だ」
そんな会話が聞こえる。赤石を何だと思っているのだろうか。
再び赤石が購買に行くためにこちらに来る。すれ違う時に思わず声を掛けた。
「……なぁ、お前はいいのか?」
俺はどうこう出来ない。だから、そう情けなく尋ねるしかなかった。それが昔ライバルだった男への、最後の気遣い。
その事実がまた何より悲しかった。
「……うん。しょうがないから。それより……木戸君も気をつけてね」
「え?」
後に続く言葉に、全身が硬直した。
それは俺が心の何処かで最も危惧し、最も恐れ、考えない様にしていた言葉だった。
「君と僕は同じなんだから」
赤石はそう言って購買へ向かった。
俺はただ今の言葉に動けず、遠ざかる弱弱しい背中をただ呆然と見つめる事しか出来なかった。
そして「自分の末路」はやがて、人ごみに消えていった。