4、不信
「………………くそっ」
――最悪だ。
開放されて夜七時近くなった廊下を歩いていると、何もかも投げ出したい衝動に駆られた。
クラスメイト達は俺を犯罪者だと言った。
友達は俺を見捨てた。
教師達は俺に犯人役を求めている。
それでも俺はやってないのだ。
だが誰一人として、俺を信じてくれる人はいない。その現実は重かった。
「お疲れ様!」
伏せた顔を上げると、目の前には担任の大沼がいた。俺は返事の代わりに顔をしかめた。
「今日はもういいって。遅いし、帰りなよ。ね?」
「分かりました」
「あと、君の処分は二日後の職員会議で正式決定するってさ。校長が帰ってくるのが二日後だからね」
「……分かりました。あの、先生」
「ん? なに?」
「先生は俺が犯人だと思いますか?」
俺は無意識のうちに尋ねていた。誰でもいいから、信じて欲しかった。俺の無罪を。
「んー、僕は君が犯人だとは思ってないよ」
「あ……」
思わず声を漏らす。しかし。
「でも、詳しい事は僕じゃちょっと分からないから」
「――は?」
俺は盗難事件が起きた担任が発したとは思えない、あまりにも無責任な発言に驚愕した。
なんで担任が詳しい事を把握してないんだ。もしかしてこの人、何も考えていないのか?
「ごめんねー」
大沼はいつもの陽気なテンションでそれだけ言って職員室に消えた。
こちらの疲れを一切分かっていないらしい、あの能天気な喋り方が苛立って仕方なかったが、それよりも本当に何も分かっていない鈍感さに気持ち悪さを覚えた。
あの人は何も考えてない。
一瞬でも喜んだ自分がバカみたいに思える。それだけではない。他人事のようにあと二日と言い放ったのもやはりショックだった。
俺はまた重くなった気分を引きずって教室へ向かった。
猶予二日。それまでに事件は解決するのか。
今は考えたくなかったが、嫌でも浮かんでしまう。
いや、するわけがない。教師達もクラスメイトも犯人は俺だと半ば決め付けている。その時点で事件解決はないだろう。
じゃあ真犯人を自分で捕まえるか?
それも無理だ。
たった一人でクラス全員を敵に回し、教師達の考えを改めさせるなんて、そんな事は現実的に不可能だ。正直、クラスメイト達と話をするのも抵抗がある。事件の捜査なんてとてもじゃない。
そうなると、ジッと事件が風化するのを待つしかない。
それが一番の選択だとも思う。アクションを起こせば叩かれるだろう。なら一切起こさず沈黙を守り続ければいい。
そう、卒業まで残り半年の勝負だ。
だがすぐに思い直した。
半年。
――半年も犯罪者として扱われる日々が続くのか?
それを考えると目の前が真っ暗になった。
イジメの対象には何をしても許される。それがルールだと俺もよく分かっていたが、いざ自分がその対象になると狂気すら感じる。
学校が恐ろしい。
今までも嫌いではあったが、怖いと思ったのは生まれて始めての経験だった。教室に向かう足取りも鈍くなり、ついに壁にもたれて額を押さえる。
ああ、いっそどこかへ逃げたい。
世界全てが敵に見える。そして全てが俺を非難している気さえする。俺は何もしていないにも関わらずだ。
そう、何もしていないのに。
「せめて、本当に犯人だったら少しは気が楽だったろうにな」
そんなロクでもない事を呟いた。その時だ。
――ポケットが振動した。
スマホは持ち込み禁止となっているが、教師も授業中以外は持ち物として大目に見ているので、大多数の生徒がこっそり持ってきている。
ポケットから取り出して相手を確認する。
姉さんだった。
こんな時に……。
後ろめたさを感じた。学校で盗難事件の容疑者になったなんて、口が裂けても言えそうにない相手だ。それでも無性に声が聞きたくて電話に出た。すると開口一番。
“どこほっつき歩いてんだ!”
怒声だった。ガラの悪い口調の。だがそれがいつもの姉さんらしくて、少しだけ安心した。
俺を女で一人で育て上げた姉さんはこんな人なのだ。
「悪い。今はまだ学校にいる」
“あ? そうなのか。何かあったか?”
言ってから後悔する。盗難事件の容疑者になったなんてとても言えなかった。
姉さんに今以上の迷惑をかけられるわけがない。
「いや、臨時の委員会があって……」
“嘘だな”
「え?」
間髪入れずにバレ、俺は目を丸くしてしまった。
“委員会はそれっぽいけど、間の取り方が嘘を吐く時のそれだ。はい、ダウト”
ぐうの音が出ない。
“んで? 本当のとこは。アタシに嘘を吐く程の事なんだろ?”
言い淀む。もし犯人が見つからなければ、いずれ姉さんにもばれてしまう。その事を考えれば本当の事を言うべきだ。しかし……。
「ガキがいっちょまえに金の心配してんじゃねぇよ」
この高校に進学が決まった時に俺が金の杞憂をすると、姉さんはそう言って笑い飛ばした。だがそれが姉さんにどれだけの重荷だったのか、いつも心身ともに疲れ果て、ボロボロになって深夜に帰ってくる姿を見るとよく分かる。
女一人で俺を育て上げ、私立高校にまで入学させてくれた姉さん。その弟が盗難疑惑なんて――最低の裏切り行為だ。
俺は迷った末。
「ごめん、ちょっと言えない。だけど大した事じゃないから心配すんな」
姉さんの側にも少し間があった。
“あんただけで解決すんの?”
「ああ。大丈夫」
空元気だ。孤立無援で、俺を信じてくれる人も、味方もいない。それでも本当の事を言う勇気がなくてもう一度嘘を吐いた。
“ふーん。そう。じゃあ聞かねぇ”
嘘は通じない。
そう嘘を吐いてから気付いたので、てっきり一蹴されるかと思ったが姉さんは案外あっさり引き下がった。
「……いいのか?」
“あんたねぇ、もう高校生なんだろ? アタシの助けが必要なガキじゃねぇって”
自分で解決しろ。そういう事だろう。バレなくて良かったと思う半面で、少し寂しさもあった。
甘えたいのか俺は。
そう思って自嘲気味に笑う。だが同時に、少しの間だけかもしれないが、姉に要らぬ心配をかけずに済んだ事に安堵した。
「まぁ、確かにな」
“そうだ。それにアタシはあんたの唯一の肉親だ。アタシは何があってもあんたを信じてる”
――ぁ。
その言葉に全身から力が抜けた。
たぶんは意図する意味は違うけれど、耳にこびり付いて離れなかった。
自然と涙が溢れそうになる。涙だけじゃない、言葉に出来ない程の嬉しさも込み上げて来た。
なんだ。
なんだ、いたじゃないか。
クラスメイト、友達、教師、近い人間に尽く裏切られ、誰も俺を信じてくれるヤツはいないと諦めていた。
だが、俺を信じてくれる人はここにちゃんといた。味方になってくれる人がちゃんといた。
その事実が無性に嬉しかった。
「……うん、ありがと」
言葉では言い表せない感謝の気持ちが胸にあった。その気持ちを込めて、俺は搾り出すように礼を告げる。
“……はい。どういたしまして”
俺の涙に気付いたのかは分からないが、姉さんは今まで聞いた事もない程に、穏やかで優しい声で返した。
俺は、一人じゃない。
そんな思いが胸を過ぎり、俺の中で一つの決意が生まれた。
俺のすべきこと。最初から分かっていた。だが出来ないと否定して目を背けてしまった。
――俺が犯人を捕まえる。
全ての懸念事項をたった一つで解消する逆転の手。生徒だからなんだ、イジメがなんだ。この手でやってやる。
その決意と覚悟によって、俺の視界は一気に澄み渡った。
“まぁ体には気をつけな”
「分かってる」
最後にはもう一度、礼を言った。
“おう。ところで……関係あるかないか分からないが”
「どうした?」
“大沼とかいうお前の担任には気をつけろ”
「――え?」
思わず聞き返す。
あの何も考えていない男を?
“あれは良くない大人だ。下手に関わるな”
大沼がこの盗難事件に関与しているのか?
しばらく考えたが、俺は言葉の意味を結局は理解できなかった。どう考えても接点は無い。
“深くは考えんな。ただ距離はおけって事だよ”
「分かった。覚えておく……じゃあ、そろそろ行くよ」
“ん。頑張りな、男の子”
「おう」
そして電話を切った。
さて――。
俺はスマホを仕舞い前を向いた。
やるべきことは、ただ一つ。