20、決戦
俺は八組の扉に手をかけた。
しかし教室を前にして事件の始まりと同じ錯覚に陥り、俺は一瞬躊躇する。
――だからって今更引けるか。
扉にかけた手の震えを気のせいだと、俺は無視して扉を開いた。
「……」
柳、赤石、河原崎の三人は何処だ?
クラス全体を即座に見渡す。
しかし――いない。
柳は何処にもいない。それだけじゃない。河原崎も赤石もいなかった。
裏切られた。そんな可能性が頭を過ぎる。
だがすぐにそんな余裕はなくなる。何人かがこちらを向き、動きを止めた。
沈黙。
それは徐々にクラス全体に波及して行く。クラスの意識が俺に統一された。しかしそれも一瞬のこと。HR五分前のチャイムがショーの開始を告げる合図だった。
「おせーぞ犯罪者」
「おい、クズ。さっさとこっち来いよ!」
「その前に先生達は?」
「職員会議してるから来ないでしょ。見張りを一人立たせておけばいいよ」
そうして教卓の前に集まるクラスメイト達。
黒板前はちょっとしたブロックがあり、そこだけ一段高くなっている。何人かの生徒が教卓を退かし始めた。そこで土下座させるつもりなのだろう。
時計を見る。二十五分。
――構っている暇はない。
俺は無視して進もうとする。しかしその行く手を男子生徒数人に阻まれる。
「ほらっ、てめぇはこっちだ」
「早くしろよ。逃げてんじゃねぇよ」
内心で舌打ちした。
こっちは三十分まで時間が無いのに。
俺がどうするか考えていると、誰かが土下座のコールを始めた。それは瞬く間にクラス全体に広がり、俺を囲んでいる三十人近い生徒が手拍子を揃え、土下座を要求してくるという異様な状況になった。
その迫力に怯む。音とその数から圧迫感は昨日の比ではない。無邪気な悪意が塊となって俺を潰そうとしている。
――パシャ。
「え?」
音が聞こえた方を見る。写メだ。
それが合図となって近くにいる一部の生徒達がスマートフォンを出し、俺を撮り始める。
まるで珍しい動物を撮る様に。
俺はこの空気の前に何も反応が出来なかった。そんな俺を何人かの生徒が突っつく。
「早く土下座しろよ犯人!」
「どうした犯人、ビビッてんのか?」
「社会のゴミでも約束はちゃんと守ろうぜ」
嘲笑う声が重なる。
俺は出来る限り自分を落ち着かせる。正直、ここでもたついている余裕はないのだ。
けれど現状は一対三十人弱。
どうする?
……いや、答えなら出ている。手がないわけではない。
しかしそれは危険も大きい。失敗すれば火に油を注ぐ事になる。それを考えると怖気づいてしまう。
「土ー下ー座!」「土ー下ー座!」「土ー下ー座!」
そうこう考えているうちに回りははしゃぎ始める。ショーか何かだとしか思っていないのだろう。もし失敗したら……だがその考えを振り払う。
“アタシは何があってもあんたを信じてる”
姉さんの言葉をかみ締めると俺は腹を括った。大丈夫、俺は戦える。
そしてなるべく大声で、堂々と言い放つ。
「土下座はしない」
続けて。
「俺は犯人じゃないからな」
断言した。注目が再び集まる。
しかしその言葉に周囲は失笑した。
「ハッ、ちょ、なに言ってんのこいつ?」
「笑わせんなよ、犯罪者」
どうやら延命の逃げ文句だと思ったらしい。俺はさらに声を大きくして続ける。
「じゃあもし、俺が犯人じゃなかったら、誰がどう責任取ってくれるんだ?」
周囲が少しだけ静かになるが、すぐに当然と言った様に答える。
「それは柳君が――」
その期待していた言葉をわざと遮って、事実を突きつける。
「柳ならこの約束を破棄した」
「え?」
その言葉にクラスが騒然とする。
柳がこの中にいると思っていたヤツらが、周囲を確認している姿は滑稽だった。
その隙に俺は絶対に応えられない要求を出す。
「だからお前らの中の誰かが、責任を取ってくれるんだろ?」
集団が急激に萎えた。
お互いに気まずそうに顔を見合わせる。土下座のコールも止んだ。
誰一人として前に出るヤツはいない。
「おい、誰が責任取ってくれるんだよ。三好か? 川本か? 西島か?」
適当に名指しするたびに、指されたヤツは縮み上がり目を逸らす。
――やはり烏合の衆。
全員が保身のために寄り合っているために、責任者なんて出せるはずがない。今はっきりと手応えを掴んだ。
――俺がこの場を支配している。
だが何人かが紛れる様に反論をしてきた。
「でも、それは別としてお前が管理者だったじゃねぇか」
「そうだ、その責任は果たせよ!」
その事が決め手になって、再び俺を非難する声が上がる。
「管理者として責任を取って財布返せよ。出来なければ土下座しろ!」
「財布を取り戻せないなら土下座もしょうがないよなぁ?」
再び勢いづく集団。
だから大声で、ハッキリと、要求どおり、それを認めてやった。
「ああ、そうだな。取り戻せないなら土下座もしょうがない――そうだ、だから俺は土下座をしないんだ」
「はぁ? どういう、意味だよ」
その言葉に多くの視線が向けられる。
「俺はもう既に財布を回収した」
絶句。
それから囁き声が広がる。明らかな当惑。
俺の貴重品袋の管理責任を非難して、最初に追求した男子が恐る恐る尋ねる。
「……何処にあるんだ」
「金庫の中」
指差して答えた。周囲がまたお互いの顔を見比べ始めた。少し補足する。
「昨日、犯人が戻したんだよ」
「それはやっぱり、お前が犯人じゃ――」
「俺が登校したのは八時だ。それに昨日の放課後は施錠のため入れない。施錠する前に確認した時、財布はなかった。柳もそれを確認している」
「……嘘じゃねぇだろうな?」
「ああ。柳に確認してみろ。それに袋があるというのも嘘じゃない。二十八人全員の財布が、中身が手付かずでそのままそこにある」
中を確認しろという空気が出来上がる。
男子生徒が一人、仕方なく集団から外れて金庫へ向かう。
「本当にあるんだな?」
「見てみろよ」
……本当はハッタリに近かった。
正直、確信なんてない。柳・河原崎・赤石。教室には誰もいない状況はむしろ、無いという結論を導く方が容易い。
それでも引く気は毛頭なかった。赤石が共犯で河原崎が実行犯という構図しか考えられないのだ。柳がいなくても、そこにある。俺はそう信じた。
何よりそれに賭ける以外に道も時間もない。
男子がダイヤル鍵の番号を合わせているが、少し手間取っている。待っている時間がもどかしい。
他の生徒も全員が金庫を見つめている。
だがまだ鍵は開かない。
「おい、この鍵開かないぞ。壊れてるのか?」
「そんなはずはない。もう一度やってみろ」
「いや、無理だ。……なぁ、開かないって事はやっぱりないんじゃ」
馬鹿な。開くはずだろ。鍵くらいすぐに開く――しまった。
そこで俺は初歩的なミスに気づく。
開くはずがないのだ。
思わず怒鳴る。
「番号は二四六八だ!」
男子生徒が何事かと振り返った。
「え? 番号は――」
「いいからそれで入れろ!」
俺の怒声に困惑しながらも彼は従う。
再び顔を戻して、左端から番号を変えていく。
最後に五を八に変えた時だ。
――ガチャ。
静寂の中で外れる音が響いた。その音に周囲が驚き、顔を見合わせた。
生唾を飲み込む。
男子生徒は金庫の扉に手をかける。ゆくりと開いていく。
もしあれば、それで全てにケリがつく。
しかし。
――。
三十分を告げるチャイムが鳴った。予定時間を回ってしまう。
もう間に合わない。
あってくれ。
そこにあるはずなんだ。
――頼む。これが最後のチャンスなんだよ。
扉が完全に開く。こちらからは男子生徒の背中で中が見えない。彼は中に手を伸ばす。
――あったのか?
――なかったのか?
そして男子生徒がついに声を漏らした。
「……た」
「どっちだ!」
空気が震えた。静寂が破られる。
「………………あった。 あったぞ! 貴重品袋だ!」
電流が走った。拳を握り締めたまま叫ぶ。
「中身は!?」
「だふん全員分ある! しかも、金も入ったままだぞこれ!」
クラス全体がどよめいた。
男子が袋を取り出して近くの机の上にばら撒く。そこに群がる生徒達。
「中身の確認が済んだら職員室に来い!」
俺はそう言い残して駆け出していた。
――三十二分。
二分オーバー。際どい。
思い切り扉を開き、廊下に出る。
「くそっ、間に合えよ!」