2、目
……。
……。
……え?
二の句が出なかった。
なぜ?
なにがどうなっている? どうして俺の名前が入っている? 山本は何を言っている?
――ありえない。
俺はこの目で確認した。教室を最後に出るとき、そこには「山本」と確かにあり、ちゃんと南京錠はつけられていた。
南京錠は体育委員の男女に一つずつ。あの南京錠は自分のではない。ならば必然的に山本のになる。加えて鍵を掛けた人間が分かる様に用意された担当の札まで山本になっていた事を確認している。
そんなバカな、どうして……。
「おい」
誰かが言った。視線を戻すとクラス全員が俺を責める様な目で見ている。混乱した頭で否定する。
「――違う。俺じゃないぞ。教室を出る時には確かに南京錠がされ、山本の札が張ってあった!」
どう考えてもありえないのだ。自分は間違ってない。俺は鍵がされている事と、閉めた人物の札をこの目で確認してきた。
しかし。
「そ、そんな――なんでそんな嘘を吐くの? 私は鍵なんてしてないよ。なんで……なんでそんなこと言うの」
山本が怯えた声で必死に叫ぶ。拳は強く握られていた。優しそうな顔つきは怒りと失望に染まっている。誰が見ても山本が嘘を吐いているとは思わないだろう。
「それに……鍵の当番は交代制でしょ。なら今日は木戸君だったじゃない。もう半年以上も火曜日は木戸くんだった、今日が木戸君の当番だってのは皆も知っている事だよ!」
何より周知の事実として今日の当番は俺だった。だがもちろん、自分だってそれは分かっている。
しかし。
――じゃあ俺が最後に教室を出る時に見た見た南京錠は、一体なんだったのか。
もし可能性があるとしたらそれは。
まさか――。
そこで思い当たった。こうなると可能性は一つしかない。
――偽物。
俺が誤認していた。あの南京錠は山本の物でも俺のものでもない“貴重品袋を盗もうとした犯人が用意した鍵”。そして札も犯人が、あたかも山本が体育教官室へ行った俺の代わりに、南京錠で閉めた様に見せ掛けるために付け替えたもの。
――利用された。
思わず目の前が真っ暗になり、足元がグラつく。
だがそれでも何かアリバイがあれば……。
「それにそもそも木戸くん、体育の授業中いなかったじゃない!」
「――ッ!」
しかしアリバイなどないのだ。俺は確かにエスケープしていた。その事実を山本にバラされる。
校庭から見えなかった事が逆に仇になり、俺は自らのアリバイを消してしまっていた。
――確かに犯行が一番やり易いのはどう考えても俺だ。
助けようと入った俺が、その山本に糾弾され反論できずにいる。
あまりに滑稽だ。
こちらを信じるどころか、突き落とそうとする山本に悔しさとやるせなさが込み上げてきた。
「だがッ! 俺じゃ……」
半ばどうしようもなくなって否定するが、周囲の目線に気付き我に返った。
痛い。
痛いほどの周囲の冷めた目。相手を見下すような、汚い物を見るような目。
俺はこの目を知っている。輪の中からの阻害、排除の宣告。全身が硬直した。無数の敵意が自分に向けられている。クラス全員対俺。そんな形が出来つつある。
落ち着け、飲まれるな。
俺は無理に落ち着こうとして、自分の状況を考える。しかし、考えれば考える程に逆に自分がどれだけバカな事を言っているか気付く。
真相を知らない彼らにとって、鍵の当番は間違いなく俺であり、教室には確かに鍵を閉めた人物に木戸と札があった。さらに体育の授業中にいなかった男が、全く無関係で真面目な生徒を名指ししてお前が管理者だと主張しているのだ。
――ダメだ。
言い訳にすらなっていない。山本が声を荒げるのも分かる。
だが――違う。俺じゃない。
そう、どれだけ思っても俺が担当である事実によって、木戸犯人という空気は既に出来上がっている。誰も俺の言葉を信じてくれない。山本さえも。
絶望が目の前に広がっていた。
突然、一人の男子生徒が核心を告げる。
「……そんなこと言ってさ、ホントは木戸が盗んだんじゃね?」
河原崎だ。
髪の毛を弄りながら、空気を読む様にやや口ごもりながら言う辺りに、その長身に反して生来の小心者を感じさせる口調。だが今この場では十分な言葉だった。
「馬鹿を言え、俺じゃない!」
当然否定する。だが周りが口を挟まないのをいい事に、河原崎は先程よりハッキリとした言葉で非難した。
「でも盗めたのは木戸しかいないじゃんかよ」
俺は感情を逆撫でされ声を荒げようとするが、今度はもう一人別な男に遮られる。
「ハッ――ザマァねぇな。認めろよ、本当はてめぇが盗んだんだろ?」
「柳……」
整った顔に刈上げた髪。身長は小さく痩せているがかなりの筋力があると聞いた。喧嘩、煙草、恐喝の常習犯で悪い噂が絶えない。河原崎とは違う絵に書いた様な不良。
そう、体育で垢の腹にボールを蹴りこんだ男だ。
柳の声に他の連中も声を上げる。
「そうだ、財布返せよ!」
「下手な言い訳してんじゃねぇよ!」
「最悪、死ね!」
野次の様な罵倒が続く。それに怒鳴り返す。
「俺じゃない!」
「てめぇだろうが!」
柳の怒声にこちらも再び怒鳴り返す。
「俺は! 俺は知らなかっ――」
「うるせぇんだよ犯罪者! 財布返せよ!」
そして胸倉を掴まれる。続けざまに腹に鈍い衝撃が走った。鉛を打ち込まれたような感覚。
殴られたのか。理解した時には次の一撃が迫っていた。
拳が打ち込まれる一瞬、柳の表情が見えた。
その表情に処刑、生贄、罰――そんな言葉が頭を過ぎった、その時だ。
「皆、財布は見つかった?」
三十歳くらいの男が一人教室のドアを開けて乱入した。
小奇麗な格好をしているが、どこか抜けていて鈍く、生徒から「能天気」と囁かれる八組の担当教師、大沼。
それが今、とても頼もしく見える。
柳は巧妙に一撃を外して殴っている様に見えない動作に切り替えた。そして腹を殴られただけの俺に外傷はない。
「財布見つかりません」
女子の一人が何事もなかったように答える。それが合図となって次々の担任への質問が飛んだ。
「お、落ち着いてよ。とにかく皆には財布の中身などを教えてもらうので、席について待っていて。僕もすぐに戻ってきてホームルームを始めるから」
その声に渋々従って生徒が席に着席していく。
「木戸君、君は僕と一緒に」
「分かりました」
助かった。
そう思いながら二つ返事で了解して教室を出る。俺はその際に、恐る恐る一度だけ振り返った。
全員がただ、汚物を見る様な目で俺を見ていた。