15、地の獄
――河原崎先輩は中学時代にイジメを受けていました。
――今でこそあんな格好ですが、中学時代は暗くて、臆病な人でしたからイジメられてたそうです。
――河原崎先輩、前に言ってたんですよ。やっぱ俺は一人がいいなぁ、って。それで僕があの席を勧めたんです。そしたらよく来るようになってしまって。
図書室を出る時に聞いた、図書委員の後輩の話が今も耳を離れない。
河原崎は犯人じゃなかった。イジメの密告は柳を売り飛ばすのと同じ。大沼が大した問題と理解していないから良かったものの、下手をすればどうなっていたか分からない。そんな二人が繋がっているとは到底思えない。
俺は河原崎と別れ図書室を出ると、覚束ない足取りで教室に荷物を取りに向かった。
――河原崎は俺と同じだった。
イジメるのもイジメられるのも嫌だった。しかし過去の経験から、イジメなければ自分がやられるという強迫観念があった。俺も赤石をイジメた経験があるから、その気持ちは理解できてしまう。
でも俺は成績という盾があった。流石に選抜で成績トップのヤツが無口にしていれば、絡もうとするヤツはいない。それに姉という心許せる存在もあった。
しかし河原崎にはそれがない。ゆえにチャラくなったのだろう。もし俺が河原崎の立場なら……加害者になって自分を守ったかもしれない。だから赤石をずっと手放さない。自分よりも弱い者を保険として傍に置いていたのだ。
そして柳達に近づいて仲間になった。
だが、元々はイジメを受けていた人間だ。人をイジメるのにも慣れてないし、加害者側と一緒にいる事も相当な苦痛があっただろう。
そこで嘘を吐いた。
先に帰ると言ってあの図書室の死角に来ては一人になった。煩わしい人間関係、イジメから離れるために。
そうだ、俺が体育でエスケープしていたのと全く同じ。
河原崎にとってあの死角は、この学校の淀みから開放される唯一の居場所だったのだ。
今考えると河原崎が俺を嫌っていたのは一種の同属嫌悪だった様にも思う。だからお互いに嫌っていた。人から見ればただの臆病者に過ぎないのだ、俺達は。
「……そんな真実で誰が喜ぶ」
そう、俺は河原崎の内心を得る代わりに、完全に希望を見失った。
考えられる残り二人、赤石と大沼の可能性も限りなく低い。
赤石のイジメに河原崎が同情したとしても、それだけの理由で罪まで犯すとはやはり到底思えない。むしろイジメが嫌で立ち回った人間がなぜ同情だけでその渦中に、こんな大胆な事ができる。大沼にしても面談中にハッキリとお互いが無関係である様に会話している時点で、この二人も全くシロと考える他にない。
結局、目ぼしい柳、赤石、大沼の三人は誰も河原崎の共犯ではなかったのだ。
「そして単独犯の可能性もない……」
そう呟く事で全ての可能性が潰えた。
――土下座。
俺はふと、逃げ出したい衝動に駆られる。これから待ち受ける地獄。それが脳裏を過ぎった。
明日の朝にはクラス全員の前で土下座。
卒業まで永遠と続くであろうイジメ。
いわれの無い罰の自宅謹慎。
そて何より姉さんへの裏切り……。
やめろ。考えれば考える程に頭が痛くなる。
俺は思い体を引きずってようやく教室に辿り着き、扉を開けた。
「よう、犯人は見つかったかよ?」
硬直した。
今最も会いたくない人物の声。俺は恐る恐る顔を上げる。
「……柳」
他の二人も合わせて三人の男が俺を見て笑っていた。サッカーが終わり教室で駄弁っていたのだろう。
「もう時間切れだぜ? その様子じゃ無理だったみたいだな。なんだ、所詮は口先だけのクズかよ」
柳の見下した言い方に他の連中も俺を嘲笑った。
『なら――俺が犯人捕まえてやるよ!』
俺は唇をかみ締めた。否定なんて出来るわけが無い。
悔しさと情けなさが込み上げてくる。そして無意識に目を逸らしてしまう。
すると、柳がこちらをのぞき込んで来て――パンッ。
俺の左頬軽く頬を叩いた。
「おい。明日の土下座、分かってんだろうな」
叩かれた事を理解した瞬間、頭に血が上った。
「お前!」
「あ? 何だよ、負け犬」
俺は拳を握り締めた。……しめたが、負け犬は情けない事に否定し難い事実だった。
ここで殴っても犯人を捕まえられなかった事に、何も変わりはしない。
俺はただ、拳をきつくきつく握り締める。
耐えろ。耐えてしまえばいい。この件が大きくなって、姉さんにまで影響が出たらどうする。
――それと比べたら俺のプライドくらい安いもの。
「土下座楽しみにしてるぜ。それに準備もしてあるしな……」
そういって柳はポケットからスマートフォンを取り出した。
「なに?」
準備とはなんだ。
「お前がクラス中に非難されて、泣きながら土下座しているところを、記念にしっかり撮ってやる」
「――動画、だと?」
犯罪者として財布を盗んだ冤罪を自白させられ、土下座して謝罪する自分の動画。
一生の傷。言われなき犯罪の自白。それがデータとして半永久的に残り続ける。「僕が犯人です」それは生涯に渡って俺を苦しめるだろう。
血の気が引き、視界が暗転する。
「そしたらその動画、お前の推薦取った大学に送りつけてやろうか?」
「――ッ」
この男ッ!
今自分がどんな顔をしているか分からない。だがそれでも、抑えていないと殴りつけそうになる。
「どうした? 殴れよ……こないだはどっちつかずになっちまったが、一発くらいやらせてもいいぜ?」
――駄目だ。
こないだの様な夜遅い人気のない放課後ならいざ知らず、今の時間帯で殴りあいをすれば騒ぎになる。そうなればそれこそ推薦は取り消される。
その一心で殺意を押し殺す。手は出さない。我慢すればいい。それでいいじゃないか。
「まぁ、でも今ここで『ごめんなさい、僕が悪かったです。許して下さい』と頭を下げれば許してやってもいいぜ」
「なんだと?」
一瞬、見下した言い方に怒りを感じもしたが、逆に心の中では安堵の方が大きかった。
「俺は別にお前に土下座されてもなんの得もならないしな」
どうする?
もう既に時間切れによって俺が責任を取ると結論は出た。後はそのツケを払うだけ……動画を取られ、進路に影響が出るくらいなら、こいつらの奴隷にでもなって赤石の様に“死んだ”様に生きればいい。
守りたいのは俺のプライドじゃない。そこを履き違えるな。
しばしの沈黙。
「……本当にそれでいいのか?」
むしろ願う様な気持ちだった。
「ああ。別に、俺はそんな興味ねぇし。元々は俺達二人の約束だろ?」
嘘かもしれない。だがそう思っても、希望を全て失った俺にこの囁きを跳ね除けるだけの力はなかった。
――嫌だ。
目を閉じる。唇を血が出る程にかみ締め、爪が食い込むまで拳を握る。
――絶対に嫌だ。
どれだけ覚悟を決めても心は抵抗する。それでも俺は思考を放棄した。
柳達の前に跪く。
手を床につけると少し冷たかった。
ゆっくりと頭を下げる。
込み上げてくる羞恥心と屈辱を奥歯でかみ殺した。床に添えた手に顔が近づくにつれ、無意識に手が震えていたことに気づく。
そして頭を下げて、止まった。
もう、顔は上げられそうにない。ただ下だけを見ている。
耐えろ。耐えろ。
これで済むなら安いものだろう。
最後に、乾いた喉で搾り出す様にして言った。
「……ご、ごめんなさい……僕が悪かったです。……許して、下さい」
沈黙が降りた。
顔を上げると三人がこちらをジッと見ていた。
そして――。
「……くっ、はっはっは、こいつホントにやりやがった、馬鹿じゃねぇの!?」
「そんなんで許すわけねーだろバーカ!」
柳以外の二人が大爆笑する。
「――っ」
俺は、何をやっている?
ただ呆然と顔を上げる。怒りすら沸かない。全身は屈辱によって動かなくなっていた。
笑う二人とは違い、柳はただ俺を汚い物でも見るような目でジッと見ていた。
「じゃあな犯罪者」
「明日の土下座もしっかりやれよ?」
他の二人が愉快そうに俺に声を掛け、横を通り過ぎて行く。
そして最後に残った柳が、姿勢を下げて放心状態の俺に耳打ちした。
「……思ったより脆かったな。てめぇにはガッカリした。自業自得だ……あーあ、クソッ。これでも俺はお前に――」
だがその言葉も俺に微かにしか聞き取れない。
俺は一人教室に取り残される。正座したまま、その場に腰が抜けた様にして動けなかった。
――そりゃ、そうだよな。
ここで頭を下げれば許してくれるなんてどう考えても嘘じゃないか。それすら分かってないかった。いや、そんな虚言を信じようとした、縋りついた。それこそ、弱さの露呈。
羞恥心が襲ってきたのはそのすぐ後だった。
俺は顔を両手で覆って前のめりになる。
――死にたい。消えてしまいたい。
心からそう願う。もう学校には二度と来れない。
生き恥を晒すのだ、もう一度。今度はクラス全員の前で。これなら不登校になった方がマシだ。
そう、それだったらいっそ……いっそ、俺のために必死に働いて育ててくれた姉を裏切り、部屋に閉じこもる方がいいだと?
推薦を取るために頑張ってきた三年間。
姉さんに負担を強いてまで進学した。
全て――無駄。
それが嫌なら教室の一番前で、クラス全員を前に土下座しながらもう一度「僕が犯人です、皆の財布を盗んでごめんなさい」と謝罪するか、冤罪にも関わらず。
どうして、こうなってしまった。どうして、こんな事になってしまったんだ。
「俺はやってない」
そうだ。俺は、俺は悪く――そう正当化しようとして、柳の言葉が蘇る。
『自業自得だ』
両手を膝の上で握り締めた。
本当に責任がないのか?
甘く見ていた。土下座を、イジメを、犯人が捕まえることを。
最後にはどうにかなると、心の何処かで俺は見くびっていた。その自覚がある。大丈夫だと高をくくった事も覚えている。
だから正当化する事も許されない。
なんで、なんで俺がこんな目に……。
しかし。
――三年八組、木戸君。
――三年八組、木戸君。
――大沼先生がお呼びです。生徒指導室までお越し下さい。
再び放送が入る。
行かなければ。
審判が下る。だが、もしかしたら処分されないかもしれない。可能性はゼロじゃない。
それに自宅謹慎ならば、登校しなくて済むんじゃないか?
結論が延期される事だって考えられる。
「……」
そこまで思って溜息が出た。
ありえない。どう考えても、そんな都合の良い事は起こらない。逆に必死に考えれば考えるほど、虚しさが込み上げてくる。
それでも。
それでもまだ、推薦は残っているんだ。
それが唯一の希望だった。他に縋るものはなかった。もし土下座する事になっても、イジメを受ける事になっても、卒業して大学に行ってしまえば姉さんを助けられる。
例えどれだけ罵倒されても、どれだけ批判されても、どれだけイジメられても、俺はそれさえあればやっていける。俺はそう自分に言い聞かせる。
気力を振り絞って立ち上がった。そして自分の席へと向かうが、自分の机とバッグの惨状に気付き声を漏らした。
「こんな時に……」
机の油性マジックが目に染みる。
――死ね!
――財布返せ犯罪者!
――刑務所に入ってろ!
机にそれらの文字が無数に落書きがされている。
ノートや教科書はバラバラに解体され、バッグも裂かれて底が開いてしまっている。
三年使ったバッグはもう戻る事はないだろう。半年使った教科書は一年を待たずして使い物にならなくなってしまった。朝の報復だろう。
俺はしばしその場に立ち尽くした。
その後、俺は震える手で机とゴミになった持ち物の掃除を始める。
早く片付けて行かなければ――そう死刑宣告を受けるのに、遅刻しない様に考えている自分が、嫌に滑稽に思えた。
……絶望の底は、まだ見えない。