1、二十八の消失
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なお拙作「宿屋の倅」から来られた方は、あちらと180度方向性が異なるのでご注意下さい。
一話の途中から話が動き始めるので、流し読みでも構いませんので一話だけでも最後まで読んでみて頂けると大変有り難いです。
内部構造が外から見えず、どのような仕組みでその結果が算出されたのか分からない、ただ結果だけが現れる箱。
または内部に記録媒体があり、周囲の全てを記録している箱。
――Black box――
青いジャージを着た男子生徒達は、体育教師の発した「自習」という言葉に喜びの声を上げた。
それは俺、木戸幸一も例外ではない。
十月中旬、中間テストが終わり久々の体育。
外は非常に寒く、校庭は昨日の雨で少しばかりぬかるんでいた。しかし中間テストから開放され、最初の体育が自習になった生徒達の喜びは寒さを上回っている様に見える。
「木戸君。男子のサッカーするみたいだけど、木戸君もサッカーするの? 私達はバスケやるけど、良かったら一緒にやらない?」
数少ない友達である山本が寄ってきた。小動物を思わせるボブカットの小柄な少女。俺とは同じ中学の出身者で付き合いも長く、同じ体育委員の相方でもある。
「俺はどっかで勉強してる」
山本は答えを予想していた様に肩をすかした。
「はぁ、自習だからいいけど、感心はしないよ。もしバレて成績に響いたらどうするの。せっかく推薦も取れたんだし、少しは気をつけた方がいいよ?」
「大丈夫だ。バレたら腹痛とでも言うさ」
山本は真面目な性格だが、こうやって心配してくれる辺り、やはり優しい。
「もー、今回は特別だからね。もし先生が来たらそう言っとく」
俺は山本の気遣いに感謝しつつ、教師が体育館に消えたのを確認して生徒達の輪から外れた。
そして校庭から木々で影になって見えない、校舎脇のベンチに腰掛ける。こちらからは見えるが、校庭からも傍にある水道場からも死角に位置している場所だ。
単語帳をポケットから出す。少し寒いので近くの自販機でコーヒーでも買おうかと思ったが、財布は貴重品袋に入れてしまった事を思い出した。
袋は教室の金庫だ。管理は体育委員の仕事で、今日は山本が鍵を掛けていた。さっき鍵を借りれば良かったと思いながら校庭に目を向けると、山本は河原崎と話し込んでいた。
――珍しい組み合わせだな。
山本は容姿に反してガリ勉そのもの。片や河原崎は長身のなよなよしたチャラ男。簡単に言えば真面目と不真面目の二人。今までもあまり見た事のない組み合わせだった。
河原崎のヤツ、テストが悪かったのか。
そんな正反対な二人が一緒にいる理由は一つしかない。自由課題の貸し借り。
三年の二学期になればたとえ遊び人でも成績を意識せざるを得ない。
河原崎は今回の中間が悪かったのだろう。それを補填するため、各教科に出されている自由課題を提出するのが一番の手だ。ただし、山本から借りた答えを写してだが。
しかし山本は先程から首を縦に振らない。やがて河原崎は諦めたらしく山本に背を向け――ふと、こちらを見た。
目が合う。そしてあろう事かこちらに来る。
ここにいるのがバレたか?
別に自習なのだから良いと思う反面、エスケープをしている後ろめたさもある。
しかし横を通り過ぎただけで、こちらには気づかず奥の校舎に消えていった。
トイレか。
俺は溜息を吐いた。河原崎には若干の苦手意識がある。思わず身構えてしまったのはそのためだ。
会話した事はないが、お互いに嫌っているのは空気で分かる。俺は河原崎の軽いところが、河原崎はおそらく俺の優等生なところが気に食わないのだろう。だから接触はしない。しかし何かあればお互いに非難しあうかもしれない。そんな微妙な関係だ。
そう、そんな河原崎ですら成績のため、俺と同じ嫌な優等生である山本に頼み込んでいる。
どいつもこいつも――。
圧迫感すらあった。河原崎にしろ、山本にしろ、俺にしろ、誰もが成績に追われ、追っている。
俺はコーヒーを諦めて校舎を見上げた。
県立J高校。
全国でも上位に入る進学校。クラスは学力によって上から特進、選抜、文理の三種類に分けられ、それぞれの目標する大学への合格を目指しカリキュラムが組まれている。
特進はトップクラスの私立と国公立大学を、選抜は有名私立を、文理はそれ以外の大学を目指す事になる。
ただ目指すという表現はあまり正しくない。
この高校には地元中学の上位者が集まりしのぎを削っている。クラスメイトすら敵なのだ。
そんな中で俺は中堅に位置する選抜クラスに在籍し、選抜内ではトップの成績を誇っていた。
「特進からの『脱落者』だがな」
少し自嘲気味に呟いた。
俺は一年の時、特進の勉強について行けず選抜に落ちた。
「覚悟だけはしておけよ」
一年生の個人面談で成績の話をした後に担任が無機質に言ったこの言葉は、今でも耳にこびりついている。
進学校。井の中の蛙、それを地で行く人間達の世界。当時それを身を以って感じた。
中学でかなりの成績を維持し、他者よりも自分が優れていると心の何処かで自負している人間達が集まる。しかしその中で実際に他者より優れているのは全体の一割に満たない。残りの九割は「凡人」のレッテルを貼られるのだ。
当然、心が折れる者は多い。
俺も担任に脱落を宣告された時の絶望感と羞恥心は、今も心の淀みとして心に残っている。
こんなはずじゃない。その言葉を何度繰り返しただろうか。
そしてこの学校の大多数の生徒は、俺と同じ淀みを抱えている。
――されど学校生活は続く。
天才だろうが、凡人だろうが、三年は平等に存在する。問題はその後、その心の淀みとどう向き合っていくか。
俺は勉強から引かなかった。いや、引けなかった。
俺は両親と死別しており、歳の離れた姉さんに面倒を見て貰っている。
その上、この高校に入学を勧めたのは毎日深夜にボロボロになって帰ってくる姉さんなのだ。
「お金の心配は私の仕事です」
三者面談でそう言って、近場の公立へ進学すると言った俺と担任の意見を跳ね除けた。面談中にも関わらず泣きそうになった。
そう、姉さんのためにも、一度負けたくらいで根を上げる訳にはいかないのだ。
――だがそれも、今回の中間で報われた。
俺は中間テストの結果発表に合わせて、第一志望の国立T大学の指定校推薦、しかも特待生としての内定を得た。
指定校推薦とは大学が高校に与える推薦枠で、高校側から枠に応じた人数の生徒を選抜し送ることになる。この選抜さえ通れば、ほぼ確実に合格できる制度だ。
ただ合格したら他校を受けれなくなるので、特進クラスの受けが悪い。『脱落者』に残された蜘蛛の糸がこの制度だった。
今でこそエスケープしているが、授業・提出物・試験は全て抜け目なくやってきた。内申は校内でも上位に位置する。おかげで俺はたった一枠しか無い、公立上位のT大に内定出来た。
が、しかし。俺のような形で淀みを解消できる生徒はほんの一握りだ。
大多数の場合、もっと歪んだ形でそれは現れる。
そう、例えば……。
「おい、避けんなよ! 垢!」
怒声。校舎からは死角の校庭の隅に目を向ける。そこでは同じクラスの男子生徒達がサッカーを楽しんでいた。
ただ、三つ異質な事があった。
一つはキーパー一人に対し、キッカーが十人以上である事。もう一つは両者の距離が十メートル程度の近距離である事。最後にキーパーは両手をゴールネットに括り付けられて身動きが取れない事。
キーパーは震えながら何かを訴えている様に見える。
しかしキッカー達はその言葉に耳を貸さず、的と化したキーパーへボールを蹴り込もうとする。
ただすぐには蹴らない。何度もフェイントを入れ、ビビるのを愉しんでいる。そしてそれに引っかかり隙が生じた直後、次々とボールが蹴り込まれた。
――ドスッ。
そんな音がして、まず腹に一発直撃する。
垢と言われたキーパーが痛さに耐えられなかったらしく、体をくの字に曲げて跪く。その直後に今度は顔面にボールが蹴り込まれて頭部が後ろに飛ぶ。そして再び無防備になった腹に今度は二発連続で打ち込まれる。
キーパーの腕に絡んでいたゴールネットが解け、彼はよろめき顔面から泥濘に倒れた。蹴りこんだやつ等が近寄っていく。口の中に泥が入ったらしくキーパーが泥濘から顔を離そうとすると、一人が後頭部を足で踏みつけて再び泥濘に顔面を叩き付けた。
そして顔が上がらない様に足を乗せたまま、ぐりぐりと踏み躙る。
踏みつけている生徒は腹にピンポイントに当てた事を誇示して、ポーズを取る。そのポーズに応えて、手の開いている一人が少し下がり、スマホを取り出し写真を撮り始めた。
頭を踏まれ泥濘に顔を押し付けられた生徒と、その頭を踏み躙りポーズを取る生徒の図がカメラに収められた。
――有体に言えばイジメ。
弱者を甚振る事で自分の強さを感じる、等と言われる事もあるが、端的に言えばストレス発散だ。
いつ見ても胸糞が悪い。
俺も嫌悪感はある。しかし内心で仕方ないとも思っている。いや、俺だけではなくクラス全員がそう思っている。少なくとも誰もが抱える淀みを解消するため、生贄は必要だった。それが共通意識となり、やがてルールになった。
実際、イジメによってクラスは平穏だ。担任に密告する者はいない。生贄がいるおかげで生徒同士の諍いも減る。アイツが全て悪い。何をされても許される相手。そんな全てを引き受けてくれる、都合の良い藁人形がこの進学校には必要なのだ。
――そんな馬鹿な話があるか。
本心はそうだ。しかしイジメ自体を無くす事は出来ない。またクラス全員を敵に回す勇気もない。何よりこれ以上、姉さんに迷惑はかけられない。だから確かに掴んだ推薦を守るためにも、わざわざ自分から危険に身を晒すつもりはなかった。
だから空気を汚さない範囲でイジメという行為を遠ざけてきた。正直、加害者も被害者もごめんだった。
その罰だろうか、『脱落者』のためクラスから浮いていた事も重なって、俺はいつもこうして一人でいる。友達なんて女子の山本くらいだ。
無意識に校舎を見上げた。二年半過ごしてきた学校は高圧的にこちらを見下ろしている。
――何かが、狂っている。
俺は校舎を見上げる度、ふとそんな妄想にとり憑かれる時がある。
しばらくしてチャイムが鳴り、校庭の生徒達が引き上げて行く。水道場まで来る生徒は何人かいたが、こちらに気付く生徒はいなかった。
俺は少しだけ時間を置いて腰を上げた。
教室は三年八組で、校舎から突き出した廊下の一番端にある。この場所から目と鼻の先だ。
教室へ行く経路は二つ。
一つはここから見える奥の非常口から入る外部の経路。クラスは非常口の目の前にあるのでここからならすぐだ。もう一つは昇降口から中に入り、五から八組が連なっている一本道の廊下を行く内側の経路。
前者の方が近くていいのだが、俺は上履きを履き替える必要があるため昇降口に向かう。
一階昇降口から入って、突き当りを右に曲がるとそこから真っ直ぐに一本の廊下が続いている。廊下の右側は窓が続いており、左側は手前から五組、六組、七組、八組が連なる。そして廊下の突き当たりに先程の非常口となっている。
クラスの近くに来た時だった。
「だから、どこにも無いんだよ!」
突然の怒声に思わず伏せていた顔を上げた。
さらに中からいくつかの怒声が聞こえる。
「――探せよ、何かの間違いだろ!」
なんだ?
思わずドアに掛けた手を止める。
明らかに空気が違った。怒鳴り声も冗談ではなく、本気で怒っているようだ。今まで聞いた事もない怒声が飛び交う教室。事態の異常さが伝わってくる。
何が起こっている?
固まっていると後ろにいた他クラスの女子生徒の話し声が聞こえた。
「何かあったの?」
「いや、またイジメじゃないの?」
すると他の女子生徒が得意げに答えた。
「盗まれたんだってさ。ヤバイよねぇ」
……盗まれた。何を?
振り返って尋ねようとした。
その時だ。中から今まで一番大きい怒鳴り声がして廊下に響き渡った。
「そんなバカな話があるかよ! クラス二十八人の財布が全て盗まれるってなんだ!」
クラス全員の財布――貴重品袋か。
緊張が走った。
金庫の中に保管していた貴重品袋が盗難にあった。クラス二十八人にも及ぶ数の財布を盗む。そのあまりにも大胆な犯行に唖然とした。
だが直後に、自分の財布に入っているものを思い出す。
待て、俺の金は?
俺は推薦が内定した関係で大学から書類を買う予定があった。今日、その支払いのために二万を持ってきている。放課後に支払う予定だったので財布に入れたままだ。
家の金を無駄にした。
先程の不安や恐怖よりも怒りが込み上げてくる。俺にとって二万は手痛い損失だ。いや、金額よりも無駄にした事実に言いようのない憤りを覚える。
ふざけるな、管理者は一体なにを――。
「管理はどうなってたんだよ山本!」
そこで我に返った。
――山本?
体育委員には一クラスに男女にそれぞれ南京錠を買う事になっている。教室を出る時に確認した際には俺の物ではない南京錠がついており、閉めた人間が分かる様に目印にぶら下げる札も山本のものになっていた。
怒りは急激に薄れていき、代わりに先程のイジメの光景が過ぎった。犯人がわからない以上、怒りの矛先は別なところへ向けられる。
管理者の山本は何をしていたんだ?
当然そうなる。そもそも貴重品袋は盗難防止の措置だ。しっかり管理していれば盗まれるはずはない……むしろ鍵を持っている管理者にしか盗めない。その事実に疑いを向ける。俺だけじゃない。おそらくクラス全員が。
「山本……」
友達と言っても薄っぺらいものだ。だがそれでもクラスで唯一、友達と呼べるヤツだった。何より俺と同じ中学時代を過ごし、同じ受験生としてこの高校を目指した仲間だ。
それだけじゃない。
他の連中は特進から落ちてきた俺と関わろうとしないが、あいつだけはいつも俺の傍に寄ってきた。
「木戸くんといると、なんか落ち着く」
俺に妹はいないが、それでももし自分に妹がいたら彼女の様な子だったのだろうと思う。
山本を見捨てるのか?
だが巻き込まれ進路に影響が出たらどうする?
選択を迫られる。友達か、家族か。
しかしその選択から逃避する様に新たな疑問が浮かぶ。
だが本当に鍵の不備によるものなのか?
山本の性格は良く知っている。だからとても考えられなかった。鍵をかけたなら確認するはずだ。それに鍵自体は教室を出る時に俺自身も閉まっているかどうか確認している。
となれば、金庫に入れられていた貴重品袋が、鍵を閉める前にすり替えられていたか、または山本が鍵を紛失及び盗まれたか。どちらかの可能性が高い。
そうなれば責任はあれど、犯人は山本とは限らない。だがもしそういった確信のないままイジメの犠牲になったら?
『例の事件』が頭を過ぎった。またあれを繰り返すのか?
そのせいか、山本が一方的に攻められるのは安易だと思う。
「わ、私は――っ」
案の定、中から危惧する声が聞こえてきた。
――止めなくては。
イジメが始まってからでは手遅れだ。山本のせい、その空気が出来上がる前に何とかクラスの空気を濁す。疑惑は疑惑のまま、一生燻っていればいい。
――論点を変えてやればいい。
俺はかつてない程に殺伐とした教室を前に、山本を助ける覚悟を決め、扉を開けた。
「木戸」
静寂の中で扉を開けたせいかクラス全員が俺を見つめている。
一人の男子が尋ねた。
「木戸、貴重品袋が無いんだ。お前は――」
「俺は何も知らない」
続けて語気を荒げて言う。
「それより、管理者に責任があると言うのは安易じゃないか?」
「なんだと?」
「考えても見ろ。あの生真面目な山本が管理を怠ったとは思えない」
俺はクラスの後ろにいた山本を見る。
アリバイがあればそれで多少、管理責任もうやむやに出来る自信はあった。後は、どうやって誘導するかだ……。
本番はここからだ。
だが。
だが、俺の一言にクラス中が凍り付いていた。誰も口を開く者はいない。皆そろって青ざめている。
数秒に渡る完全な沈黙。
――な、何だ?
周囲が言葉を失っている状況に困惑する。教室の空気は微動だにしない。
どうかしたのか?
「……木戸君。その、あれ」
そういって山本が怯えた顔でゆっくりと指差した。
その先には――。
貴重品金庫使用者
十月十二日 担当――『木戸』
【純白の教室《Black box》をその手で閉ざす―― 始】