奇妙な打診(2)
美紗は、厚生棟の地下にあるコンビニで小さなサンドイッチを買うと、多くの職員が行き交う地下通路を通って、とぼとぼと来た道を戻った。人の流れに押されるようにして高階層用のエレベーターに乗り、ここ半年ほどの間のことをぼんやりと思い返した。
年度が変わってから、所掌の地域担当部との調整はほとんど一人でこなし、大きなトラブルもなく過ごしてきたと思っていた。直轄チームの最年少メンバーとして、雑用的な業務も積極的に引き受けてきたつもりだった。
それでも、直属の上司である松永の求めるレベルには、やはり至らなかったということなのか。
言いたいことはその場ではっきり言うタイプだと思っていたイガグリ頭の彼は、いつから自分をチームから外そうと考えていたのだろう。
エレベーターが減速するのを感じて、美紗はため息をついた。「直轄ジマ」に戻って松永と顔を合わせるのが、辛い。
「あ、美紗ちゃん」
開いたドアの向こうに、深いグレーのパンツスーツを着た吉谷綾子が立っていた。長く伸びた脚が、ますます背を高く見せている。思わずその姿に見とれ、それから美紗は慌ててエレベーターの階数表示を見上げた。
統合情報局第1部がある十三階ではなく、航空幕僚監部が入る十六階のランプが点灯していた。
「最近どう? 元気にやってる?」
「あ、はい……」
小気味よい靴音を立てる吉谷の後ろから、航空自衛隊の制服を着た白髪の男が入ってきた。背丈は吉谷と同じくらいだったが、水色の半袖シャツの肩に付けられた階級章には大きな「桜星」が付いている。
初めて見る将官に驚いた美紗は、またエレベーターから降り損ねた。吉谷は、それに気付かないまま、十八階のボタンを押した。
白髪男の将官は、吉谷の陰に隠れるようにして小さくなる美紗をちらりと見た。
「吉谷君の後輩、いや、手下かね」
「何を人聞きの悪いことをおっしゃってるんですか」
吉谷は、厳めしそうな顔をした将官相手に、ためらうことなく切り返す。彼のほうも、そんな会話を楽しむことに慣れているのか、狭いエレベーターの中で豪胆に笑った。
「吉谷君に可愛がられるとは、あなたも優秀なんだろうね」
「えっ……。いえ、そんな」
美紗が完全に狼狽しているうちに、エレベーターは展望レストラン風の食堂がある十八階に着いた。吉谷は、「またね」と美紗に手を振ると、将官をエスコートして、絨毯敷きの食堂の中へと消えていった。
「白髪頭? ああ、それたぶん空幕副長(航空幕僚副長)じゃないよ」
自席でコーヒーを飲んでいた宮崎は、銀縁眼鏡を光らせながら、美紗の問いに答えた。
「肩の『お星さま』、二つじゃなかった?」
「そこまでは……」
航空幕僚副長の階級は中将相当である。吉谷と一緒にいた白髪頭の航空自衛官がその役職に就いていたのなら、階級章に付けられた「桜星」は三つのはずだ。
「その人、総務部長じゃないかな。空幕の総務部長、前に会ったことあるけど、確か、もっさもさの白髪頭だったから」
「副長は、黒々染めてて全体的にテカってる感じの人。まあ、僕は部内誌の写真でしか見たことないけど」
日垣と因縁のある空幕副長を毛嫌いする片桐は、さも不快そうに肩をすくめた。一方、片桐の横に座る高峰は、口ひげに手をやりながら嬉しそうに目を細めた。
「さすが吉谷女史、VIPを早速、手なずけてるねえ」
己の発言が吉谷の人事異動のきっかけとなったことを悔やんでいた高峰は、「色」の違う空幕に様子を見に行くこともできず、ずっと彼女のことを気にかけていたらしい。
安堵の表情を見せる彼に笑顔を返して、美紗は、窓際にある直轄班長の席に視線を移した。昼休み中も自席にいることの多い松永が、珍しく不在だった。
「松永2佐、まだ戻ってませんか?」
シャワーを浴びてさっぱりした顔の佐伯が、美紗の代わりに、直轄チームの面々に尋ねた。その場にいる全員が首を横に振った。宮崎が高そうな腕時計に目をやる。
「どうしたんですかね。いつも早飯の人がこの時間まで帰ってこないなんて。片桐1尉、何か聞いてる?」
「僕は何も……。そう言えば遅いっすよね。松永2佐、陸自のモットーを地で行く人なのに」
「何、陸自のモットーって」
「あれ、小坂3佐、知りません? 陸は『早寝早飯早グソ』が基本っすよ」
「それ、『早飯早グソ早風呂』じゃねえ?」
1等空尉と3等海佐がゲラゲラ笑う傍で、陸上自衛隊の制服を着る高峰は不快そうに咳払いをした。
「女性の前でなんちゅう話してんだ。そんなだから、吉谷女史に『小僧』って言われてたんだぞ」
「何すか、それ。『小僧』って、僕?」
「うまいこと言うなあ。『小僧』かあ!」
再び小坂が大声で笑う。その小坂も同じく吉谷に小僧呼ばわりされていたことを知る美紗は、余計なことを口走らないよう、後ろを向いた。
「直轄ジマ」から一番離れた場所にある事業企画課が目に入った。そこの課長と渉外班長の席も空いている。松永を含めた管理者三人で、会合でもしているのだろうか。
いい年をした男たちが騒々しく雑談する声が、美紗の耳を通り過ぎていった。
直轄班長が第1部に戻ってきたのは、一時ギリギリだった。片桐が、第1部長室のほうを見ながら、汗を滲ませたイガグリ頭に声をかけた。
「松永2佐。もうすぐ課長会議、始まりますよ」
「もうメンツ揃ってんかな。外で同期とメシ食ってたら、すっかり遅くなっちまった」
松永は、自席に座る暇もなく、机の上の筆記具を適当に掴んで日垣の執務室に走った。ドアが全開にされた部屋の中では、すでに第1部所属の課長職たちがテーブルをぐるりと囲んでいた。
その中に、渉外班を所掌する事業企画課長の姿も見える。
美紗は、後ろ手でドアを閉める松永の背を見ながら、小さなため息をついた。自分の処遇は、管理者である松永の一存で決まる。佐伯は「自分の希望をきちんと伝えたほうがいい」というようなことを言っていたが、そんな余地などあるのだろうか。
先ほどエレベーターで会った吉谷綾子ほどの実力の持ち主なら、己の意見も要望も、堂々と言えるのだろうが……。
希望だけははっきりしている。このまま、直轄チームにいたい。しかし、その理由を聞かれたら、と美紗は自問した。
今の仕事が好きだから?
日垣さんの一番近くにいられるから?
自分の中では、どちらの比重が大きいのだろう。
「鈴置さん、今ちょっといい?」
あまり聞き慣れない声に、美紗の意識は現実に引き戻された。自席の傍に、亜麻色の無地のワンピースを着た八嶋香織が立っていた。
「あ、はい……」
美紗は、驚きを隠しきれずに、こわばった顔で八嶋を見上げた。同じ部に勤務しながら、彼女と直接話すのは初めてだった。
「ここじゃ、なんだから……」
ややつり上がった目が、フロアの隅にある小部屋のほうを見やる。美紗は、さほど急ぎでもないデータ整理を中断し、席を立った。
備品類が無造作に置かれた小部屋の前で立ち話を始めた二人を、小坂は伸びあがるようにして凝視した。
「渉外班の八嶋さんて、鈴置さんと何か似てない?」
「そう……っすかね?」
「二人揃ったら、そうだな、『ジミーズ』って感じ?」
「何すか、それ?」
パソコンに向かっていた片桐が、斜め前に座る3等海佐に怪訝な目を向けた。
「顔も地味、服も地味、化粧も胸もすっげー地味。何でも地味な二人だから、複数形のS付けて、地味ーズ」
「また始まった」
高峰が嫌そうな顔をするのも構わず、小坂と片桐はいたずらを思いついた子供のような笑みを浮かべた。
「じゃあ、8部の大須賀さんみたいなのは、……『コイーズ』?」
「あっはあ、いいね! まさに濃いもんな! もう一人、ド派手な『濃い』のがいないと、複数形の『S』がつかんけど」
「小坂3佐は、やっぱりコイーズ派っすよね?」
「まっ、そーだな」
小坂と片桐は派手に笑った。高峰がいよいよ二人を怒鳴りつけようとした時、銀縁眼鏡を光らせた宮崎がニヤリと口角を上げた。
「小坂3佐。まだまだ観察が甘いわねえ」
「何で?」
愛嬌のある目を丸くする小坂に、宮崎は手を頬に当てながらオネエ言葉を返した。
「うちの鈴置さんと渉外班の八嶋さん、見かけは似てても、中身は思いっきり真逆。お隣にいて、全然お分かりにならない?」




