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カクテルの紡ぐ恋歌(うた)  作者: 弦巻耀
第3章 ハンターの眼差し
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嘘と偽りの世界(3)


 美紗の目の前に、透明な袋に入ったブレスレット型の時計が置かれた。華奢なデザインのチェーンベルトに、色のついた小さなガラス玉がいくつか付いている。よく見ると、留め具の部分が壊れていた。


「この時計にも細工がないか確かめたくて、無理やり外したら、壊してしまった。修理できるといいんだが」


 美紗は、大学時代から使っている安物の時計を、不思議そうに見つめた。

 前日、左腕にしていたはずの腕時計が無いことに気付いたのは、自宅に帰り着いてからだった。どこで失くしたのか、そんなことを気にかける余裕もなかった。


「これが何らかの記録装置を内蔵した『小道具』だったら、取り上げれば、大抵の持ち主はそれなりの反応を示すものだ。しかし、君は無反応だった」


 不審な物を身に付けていないか調べた時に腕時計を引き抜いた、そう言って、日垣はふと話すのを止めた。


 壊れた時計を指し示す、大きな骨太い手。


 それを、美紗は身じろぎもせずにじっと見つめていた。思い出したくない感触の記憶が、身体を凍り付かせる。


「君を直接、統合情報局の保全課に引き渡せば、私がああいうことをしなくて、済んだんだが……」


 顔色ひとつ変えずに嘘を操ってきたはずの男は、目を伏せ、戸惑いがちに言葉を押し出した。


「不愉快な思いをさせてしまって、申し訳ない」


 詫びる声は、なぜか、ひどく誠実そうに聞こえた。それはしかし、店の中に静かに流れる物悲しい音楽と混ざり合うから、そう聞こえるだけなのかもしれない。


 美紗は、目の前に座る男をこわごわと見た。


 やや困惑の色を滲ませる眼差しは、なぜか、とても誠意に満ちているように見えた。しかしそれも、頭上のペンダントライトの落ち着いた灯りのせいで、そう見えるだけなのかもしれない。


 戸惑いと安堵が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり、どうしようもなかった。こらえようとしても嗚咽が漏れる。止まらなくなってしまった涙を、美紗は手で何回もぬぐった。

 その仕草を、日垣は黙って見ていた。窓ガラスに映る彼の顔は、子供が泣き止むのを待つ父親のようだった。




「お待たせいたしました」


 マスターの渋めの声が、二人の間に入り込んできた。日垣が手を上げて合図をすると、衝立の向こうに立っていたマスターは、日垣には琥珀色の水割りを、美紗の前には冷水の入ったグラスと夏野菜がふんだんに盛られたパスタ料理を置いた。


「七階に入っているイタリアンレストランのものですが、こちらが今、女性のお客様に一番人気の冷製パスタなんだそうですよ」


 無口そうに見えたマスターは、にこやかな笑みを浮かべた。そして、涙顔を隠そうとする美紗にそれ以上話しかけることなく、静かにその場を離れた。


 日垣は、ほっとしたように顔をわずかにほころばせると、温かみのあるアイボリー色のソファの背にもたれた。水割りを少し口に含み、思い出したように、美紗に声をかけた。


「すきっ腹にアルコールはダメだ。それを全部食べたら飲んでいい」


 美紗は、目の前に置かれた色鮮やかな料理を見つめた。前日の夜からほとんど何も食べられずにいた。一日ぶりの食事となったスパゲティは、清涼感の溢れるスパイスが効いていて、とても美味しかった。


 言われたとおりに完食すると、日垣はカクテルのメニューを美紗に見せ、耳に心地よい低い声で尋ねた。


「アルコールは弱くなかったよね。好きなものはある?」


 美紗は緊張しながらマティーニを指さした。



       ******


「この席で、すごい話をしていたんですね…」


 征は上ずったかすれ声を出した。丸い藍色の目がますます大きく見開かれ、まじまじと美紗を見る。

 美紗は、適当な相槌も思いつかず、征の視線を避けるように、窓の外に広がる夜景を見た。


 あの時と、同じ景色が広がっている。十五階にあるバーで誰がどんな話をしていようが、都会の街は、無機質に光るばかりだ。


 自分がもっと気丈な人間だったら、あの人に余計な気遣いをさせずに済んだのかもしれない。

 あの後、この店に来ることがなければ、共通の秘密を抱えた二人は、それ以上交わることなく、それぞれの人生を歩んでいったのかもしれない――。



 夜の街明かりに浮かぶ追憶を、険のある声が遮った。


「そんな大事なことを、僕なんかに軽々しくしゃべっていいのですか?」


 美紗は、はっと目の前に座る人間を凝視した。先ほどまで冷や汗でもかいていそうな顔で話を聞いていたはずのバーテンダーは、眼光鋭く美紗を睨んでいた。


「今のあなたにとっては、もうどうでもいいこと、ですか? でも、さっきの話が表に出たら、二年半前のこととはいえ、日垣さんにも迷惑がかかりそうですね。もし、僕が公安かマスコミ関係者と知り合いだったら、どうなると思います?」


 バーテンダーは、薄ら笑いを浮かべて立ち上がった。


「さ、篠野さん?」

「どうしました? 新しいお飲み物をお持ちしようと思っただけですよ」


 アンティークな照明の暗い光の下で、征は、意地悪そうな顔で美紗を見下ろした。黒いエプロンのポケットからわずかに見える薄い長方形のものに、手を当てているのが見えた。


「篠野さん! 待って!」


 美紗は慌てて席を立とうとした。しかし、征の方が一歩早くテーブルに手をつき、美紗に覆いかぶさるように顔を寄せて、その動きを封じた。


「ここでお待ちください。すぐにお持ちしますから」




*ハンター

  ウィスキーベース/甘口

  アルコール度数 32度

  カクテル言葉:「予期せぬ出来事」


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