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中編

幻想扉、或いは門番の憂鬱

作者: 野庭 今日
掲載日:2017/06/28




 田舎のあぜ道に、大きな扉が立っていた。

 通せんぼをするように、でん、と構えられた2,3メートルはあるような、古めかしい木製の扉。

 その前でヤンキー座りをしている黒と白のフリフリのワンピースを着た少女。


 黄昏時、季節は夏。

 学校の帰り道、ボロボロの黒いランドセルを背負って、青い稲が見渡す限り全面に広がっては、風になびいている農道を歩いていた僕は途方に暮れている。


 まばたきを何度かした。

 田舎にはそぐわない服装、近所の人達がみてたら絶対にヒソヒソするであろう金髪の髪と奇妙な飾り。

 道を塞ぐ扉も問題であるが、扉の前で完全に目が据わっている彼女はもっと大問題だと当時の僕は思っていた。

 だが、ここを通れなければ家には帰れない。


「あの。ここ通りたいんですけど」

 恐る恐る声を掛けるが、反応はない。


「あのー通りたいんですけど!」

 彼女はゆっくりと顔を上げる。


「はあ。甘いものが食べたい」

 僕の方を見ているようで、見ていないうつろな瞳。


「お腹が空いてるんですか? 大丈夫ですか?」

 やっぱり、反応はない。


 僕はポケットをまさぐって、何か無いかと探した。

 かさり、という音とともに手を引き上げると、そこには透明な包装紙に包まれた赤いイチゴ飴が一粒。


「良かったら、これどうぞ」

 差し出したイチゴ飴を彼女は見つめると胡散臭げに受け取ってくれた。


「なにこれ」

「飴です。いちごの。甘いやつ」


 遠慮なくじろじろと僕を見た後、彼女はぺりぺりと包装紙を剥がして口に放り込む。

 飴を食べたことがないのだろうか。


「……美味しい」


 目を見開いて言う彼女の顔に首を傾げる。


「いいわよ。ガキンチョは嫌いだし、本当はダメなんだけどコレのお礼。通してあげる」

「ありがとうございます……?」


 年は僕とあまり変わらないように見えるのだけど。

 余計なことを言わずにジッと彼女の様子を伺う。


「ええっと。ガキンチョ、家はどこよ」

「ガキンチョじゃないです。けいです」


 反論する僕をふふん、と彼女は笑う。


「私から見たらみんなガキンチョよ。さっさと家を教えなさい」

「知らない人に教えたらダメって言われてるんだけど……」

「うるさい。帰れない所に繋げるわよ」


 意味はわからなかったが、彼女の気迫に押されて、親に覚えさせられた住所を、空で言う。


「はいはいガキンチョ。ここね」


 それでいいのよとばかりに扉に手をかけて一気にバターン、と開けた。

 扉の向こうはあぜ道だと思っていた。


 ――そこに広がるのは、海だった。


 青の鮮烈。漏れ出す月光の渦。色とりどりの魚達。

 かもめの群れが扉すれすれに滑空していく。

 白銀の泡と、淡い黄色の珊瑚と、おおきなクジラのような生き物。

 そして遠くの岩べりには、おとぎ話でみたような、長い髪を櫛で梳く、人魚がいた。


 目が合った、と思った。


「えっ!?」

「あ、間違えた」


 彼女は再びバタン、と乱暴に扉を閉める。


「今の忘れて。もう1回、リトライ。レッツゴー」


 バタン、と開くと、そこには僕の家が見えた。


「はっ!?」

「はいサヨナラー」


 彼女は流れ作業の如く、僕を扉の向こうに強引に蹴り出す。

 背後で再び扉の閉まる音がした。振り返ると、そこには綺麗さっぱり、何もなかった。


 あぜ道と、扉と、不思議な少女と海。

 それが僕と彼女の初めての邂逅と別れ。ずっと夢だと思っていた幼い日の思い出の一つ。

 僕はそれから、ポケットに飴を詰め込むのが癖になっていた。




 時は流れ、僕は高校生になっていた。

 受験を終えて、地元とは離れた都会の学校へ入学した。


 地元が嫌いであったわけではない。

 今も思い出せば優しく穏やかな日々が僕を落ち着かせてくれる。

 それでも離れたのは、少しの冒険心と田舎なんてなんにもねーよ!という子供特有のカッコつけ。


 新しい環境で、僕は美術部に入部した。

 あの頃の幻を今でも追っているのだろうか、鮮烈だった扉の向こうと少女と僕と。

 僕が描く絵はおとぎ話の世界や海、アンティークの小物や扉がほとんどだった。


 コンテストが近づいていた。

 思ったものが中々描けず、毎日のように遅くまで学校に居残る日々が続く。

 帰宅を告げるクラシックが鳴り響いても僕は対して気にせず、時間が許すまで描き続けた。

 

 カンバスに残るのは残骸ような焦燥。


「螢くん、もう時間だから」

「ああ、はい、そろそろ片付けます」


 部活の顧問にやんわりと告げられ、美術室を追い出される。

 今日も思ったものはやっぱり描けず、とぼとぼと帰路につく。


 にごった用水路に映る夕焼けにため息を一つ吐く。

 揺れる水面は、幼いころ見た青い海と月を連想させるのに、全くの真逆でもあった。


 ――揺れる水面に映るは夕日だけではなかった。


 目をみはる僕の後ろから、胸を貫くような、懐かしい声が聞こえた。

 舗装されていない踏み慣らされたあぜ道と、稲穂と、ランドセルと。

 鮮烈に蘇る光景。


「なあに? またアンタなの」


 そこには、あの日と全く同じ扉と、全く変わらない姿の彼女が佇んでいた。

 アスファルトと木製のドアのミスマッチ。


 夕日のコントラスト。ソプラノボイスは高らかに、傲慢を匂わせる。

 変わったことがあるとすれば、今日の彼女は黒いセーラー服だったということぐらい。


「……飴、食べる?」


 僕も唯一変わらなかったことと言えば、飴をポケットに常備していたということだ。


「貰おうかしら。同じ人間に会うなんて滅多にないのにね。アンタって運が悪いのよ」


 早速包み紙を破って口の中でカラカラと飴を転がしながら、彼女はせせら笑う。

 色々疑問はあった、どうして年を取らないの、とか、その扉と服はなんなの、とか。

 ……君は何者なの、とか。


「あのさ」

「何よ」


 憮然としている彼女に聞きたいことはあったが、それよりも僕は。


「君の名前聞き忘れてたな、って。あの時は送ってくれてありがとう」


 頭を下げる僕に彼女は拳骨を落とした。

 ガンガンとする痛みと格闘しながら眉を顰めて彼女を見上げる。


「お礼言うの遅い。これだからガキンチョは嫌い。それにちょっとはビビりなさいよ」

 名前の、答えになってない。それに何をビビるというんだ。表情で僕を読んだのか彼女は続ける。

「本当は名乗らないのよ。名前も繋ぐものだから。でもいいわ」

 

 名前が繋ぐ、どういう意味だろう。


「私はクリスタル。扉の管理者。どこへでも繋げるし、どこにも繋げない者」

「……どういうこと?」


 クリスタルはニヤリと笑う。


「体感してきなさい」


 それだけ言うと、扉を乱暴に蹴ると、僕を無理やり押し込んだ。


 何もない、白銀とも言える程、透き通った砂浜だった。

 コバルトブルーの海。どこまでも続く地平線。

 虹が遥か彼方で半円を描いていて、その下をイルカがジャンプしてくぐり抜ける。

 薄紫と桃色が混じり合って溶け合う空、星々はククリスタルのように色彩を変える。

 高く、低く、波の音が迫る。足元をさらう水飛沫がオーロラ色に輝いては霧状に広がる。


 3分にも満たなかったように感じたし、永遠の時間を過ごしたような気もした。


「はい時間切れー。さっさと家に帰りなさいよガキンチョ」


 不意に聞こえたクリスタルの声に現実に戻される。

 体を引っ張る突風が吹いた。思わず目をつぶってしまう。

 恐る恐る目を開けた時には、明かりの灯った寮が、しっかりと立っていた。


「お礼、また言いそびれた……」


 放心から立ち直った僕は、その日、コンクールで大賞を取ることになる絵を、一夜で描き上げた。




 それからまた数年経って、僕は大学生になっていた。

 絵を描くことはやめてしまった。

 大賞を取った僕は、もうなんといえば良いのか分からないが、あれで納得してしまったのだ。

 あれ以上のものはきっと描けない、そう思ってしまった。


 絵が描けなくなった。彼女の言った、運が悪い、はこういうことだったのかもしれない。

 本当に美しいものを前にした時、人はどうしようもなく満たされてしまう。


 それはそれとして、実は、クリスタルとはあれからよく遭遇している。

 バイト帰りの夜道、寮の階段、――驚くことに大学のキャンパス内。

 

 不思議なことに、誰もが彼女に気付かない。

 

 僕は通り過ぎるだけの時もあるし、からかいついでに話すこともある。

 それでも常に飴を強請りながら「またアンタなの」というのが彼女の癖だ。


 今日は深夜バイトが終わり、帰宅路についている所だった。

 相変わらず古めかしい大きな扉は変わらない。

 彼女が変わるとすれば、その服装だけだ。


「今日はチャイナ服……」

「何よ、悪いの?」


 悪くはないが、誰の趣味なのだろう。


「肉まん、食べる?」

 コンビニバイトで出た廃棄をこっそりオーナーの好意で貰った来たものである。


「頂こうかしら」

 僕の手から肉まんを取り、頬張るチャイナ少女は、正しいはずなのに滑稽に見えてしまう。


「何笑ってんのよガキンチョ」

「もうガキンチョじゃないよ、成人してるんだけどなあ、これでも」


 クリスタルにとってそんなことは関係ないらしい。


「私より長生きしてから言いなさいよ。それよりもアレはないの?」

 僕はお決まりとなった飴を手渡す。


「クリスタルのせいで飴の人って大学で呼ばれてる」

「別にいいじゃない。好きなものを好きで何が悪いのよ」


 好きなものを好き、か。

 彼女はいつだって自由だ。どこへでも行ける人だから。

 ソレに比べて僕は、何のために大学へ通っているのか。

 馬鹿みたいに遊ぶため?学ぶため?良い会社に入るため?

 ……いや、やめておこう。


「変な顔してるんじゃないわよ」


 デコピンが飛ぶ。僕の悩みも飛びそうなぐらい、強烈なやつ。


「じゃあ、もう帰るね。明日も講義で早いから」

「そう。頑張ってね」


 クリスタルが扉に向かって正拳突きをした。

 

 扉の向こうには、夜の砂漠とオアシスが広がっていた。

 ショッキングピンクにホワイトを混ぜたマーブル模様のヤシの木と、トルコ石色の泉。

 周りを舞う砂塵でも泉は濁ることなく、不思議と澄み切っている。


「砂漠。行ってみる?」

「んー……遠慮しとく」


 クリスタルは首を傾げて笑った。


「じゃあ、またね」

「ガキンチョ。あんた疲れてんのよ。またね」


 扉がバタン、と閉まる音がした。

 クリスタルはやはり、忽然と消えていた。





 社会人。毎日が怒涛のように忙しく、鬱屈した日々。

 そんな中、僕は一人の女性に恋をした。

 取引先の商社の、受付嬢。

 誰が見ても清楚系美人で気立てがよく、高嶺の花と言うやつだ。

 小さな会社の営業マンである僕にでも礼儀正しく接してくれる。

 分け隔てなく仕事をする彼女に惚れてしまった。


「ねえクリスタル」

「何よ」


 繁華街の路地裏で、扉にもたれ掛かって飴を舐める、ホットパンツとTシャツの少女、そしてスーツを着た僕は不審者にしか見えない。


「どうすれば彼女は僕を好きになってくれると思う?」

「アンタが今の稼ぎの倍ぐらいになって顔面整形したらどうかしら」


 グウの根も出ない。


「君と僕の仲じゃないか」

「人はそれを腐れ縁というのよ」


 さっさと切りたいんだけど、と言いながら渋い顔をする顔の彼女に手を合わせて拝む。


「女性の知り合いって君しかいないんだよ。神様クリスタル様、お願いします、何卒いいアイディアを」

「まあ……アンタって見た目はアレだけど中身は悪くないんだから、その女を博物館にでも誘ってみたら」

「なんでまた博物館」


 女性が好きそうなものと言えばもっとこう、可愛かったり、キラキラしているお洒落な雑貨屋とかカフェなんじゃないのか。


「……」

 クリスタルは何も答えず、扉をちらりとみて沈黙した。


「ねえ。もしかして」

「うるさい。ガキンチョ。私は暇だっただけよ」

「覗きは犯罪だよ」


 いつもより強めの拳骨が落ちる。

 目の奥がチカチカする。なんだか可笑しくなってしまって、笑いが止まらなかった。


「笑ってるんじゃないわよ。あーあ。アンタ振られるわ。絶対振られるわーデリカシーない男」

「クリスタル、ありがとう。博物館、誘ってみるよ」

「まあ精々あがきなさいよね」


 ありったけの飴を彼女に貢ぐと、路地裏を抜けた。

 背後で扉の閉まる音が聞こえた。

 僕はまた、『デリカシーもなく』笑ってしまった。


 かくして、日和と僕の交際は順調に始まったのであった。

 日和ひよりは星や自然が好きな女性で、デートを重ねる度に優しく聡明な彼女に惹かれていった。


 時々する喧嘩の度に街をうろつくと、決まってクリスタルに出会った。

 クリスタルは僕の愚痴を聞きながら飴を舐めては、時折見たこともない扉の向こうの話をポツリポツリと話してくれた。


「この扉は、どこにでも行ける。だけど行き着く場所は変わらない。過去も未来も現在も、観測するだけ」


 クリスタルの言葉は理解できることはなかったが、彼女の扉に対する使命感のようなものは感じていた。


 そしてついに、愚痴愚痴と情けない僕を叱咤する彼女の尽力もあって、僕と日和は無事結婚までこぎつけたのである。


「クリスタル、僕、結婚するよ」

「ガキンチョが結婚……月日は早いものねえ」


 しみじみいう彼女に僕も感慨深いものを感じている。

 なんだかんだで、彼女との付き合いは長い。


「まあ、おめでとう、と言っておくわ」

「僕が結婚すると寂しいかい?」

「むしろ清々する。これで情けない男とお別れかと思うと嬉しくて踊りだしそう」

「手酷いなあ」


 苦笑する僕を見つめるクリスタルの目は、温かかった。


「結婚祝いをあげる」


 クリスタルは立ち上がると扉にもたれ掛かって腕を後ろで組む。


「何が貰えるんだい? ハネムーン旅行?」

 茶化す僕とは反対に、クリスタルの表情は今まで見たこともないような目をしていた。


「扉をくぐれば、何も知らないまま戻れる。螢は人生をやり直すことが出来る。扉をくぐらなければ、選ぶことになる」


 クリスタルらしくない、感情のない声だった。

 僕の名前を初めて呼んだ。


「よく分からないけど、人生をやり直すって?」

 何を選ばなければならないのかも分からないが。


「最初から。生まれた日に、今のあなたのままで」

 何となく、ニュアンスは分かる。


「魅力的かもしれないね」

「くぐる?」


 クリスタルは扉をコンコン、とノックする。


「いや、くぐらない。クリスタルと会ったことも、日和と会ったことも、僕には宝物だから。ありがとう、そのプレゼントは受け取れないよ。誰か別の人にあげておくれ」


「……そう。分かった。あなたがそれでいいなら、そうする」


 うつむいたクリスタルは手に持った飴に視線を落とす。


「今日でお別れよ、螢」

「唐突なんだね」


 始まりも唐突だった。終わりも唐突ということか。


「さよなら、螢」


「いままでありがとう。君がいたから沢山のものを手に入れることができたよ。君も幸せになってね、クリスタル」


「あなたと二度と会わないことを願ってる」


 それだけ言うと、クリスタルはいつもの様に扉の向こうへ消えていった。




 あれから、クリスタルとは二度と会わなかった。

 街を歩くと、つい扉を探してしまうのが僕の新しい癖となったいた、ポケットの飴と共に。


 ある春の日のことだった。


「螢ちゃん、ドライブに行かない? いい天気だし」

「いいね、ちょっと遠くまで走ろうか」


 日和はドライブが好きだった。


「今日は私が運転するね」

「安全運転でよろしくお願いします」


 頭を下げる僕に、笑う日和。

 日和の提案で僕たちはドライブに出かけている。

 窓から入る風が心地よい。山桜が埋め尽くす、ドライブロード。


 のんびりと走行する僕達の車に、

 猛スピードで、逆車線から中央分離帯を乗り越えてくる吹っ飛んでくる車。

 日和がハンドルを咄嗟に切った。


 ぐしゃぐしゃになったフロントガラスと、ひしゃげた車体。

 血を流す日和と、真っ暗になる視界。


 その日、僕は、世界で一番愛する女性を失った。

 どうやって通夜と葬式を上げたのか覚えていない。

 何も覚えていない。全てが虚ろでどうしようもなかった。


 僕は、探していた。

 一人の少女を探していた。

『過去も未来も現在も――』

 万能の扉の番人を探していた。


 1日たって、3日たって、1周間が過ぎて、あとは数えていない。

 ひたすらクリスタルと出会った場所をめぐっていた。


 あぜ道、田んぼには青い稲が風でなびいている。

 カエルの合唱と、水田の水面に広がる波紋と。


「久しぶり。ガキンチョね、やっぱり。なんて顔と格好してんのよ」


 奇しくも、クリスタルはあの日と同じ服装だった。


「クリスタル……君を探していたんだ。日和が……お願いだ。お願いだよ」


 かすれた声と涙にまみれたぐしゃぐしゃの顔で彼女にひざまずく。


「だから言ったのに。くぐればよかったのに」


 クリスタルの言葉が突き刺さる。

 それでも僕は――。


「いいわよ。くぐらせてあげる」

「ああ! ありがとう、ありがとう」


 僕は顔を上げて彼女を、長い間見ていなかった懐かしい顔を見つめる。


「でも、最初からはもう無理ね。戻れるのはあの日よ、言ってる意味、分かるわよね」


 事故にあったあの日。日和を失ったあの日。


「都合よく戻せることなんて、ない。あなたは無欲ではなくて、欲しがった。だから、選択しなければならない」


 クリスタルが初めて僕から目をそらした。

 それだけで十分だった。僕は彼女の言いたいことを理解していた。

 僕はきっと、死ぬのだろう。だけど、日和が助かるならそれでもいい。


「……分かったよ。それでも、戻して欲しい」

「――いってらっしゃい、螢」


 扉が輝いて、開く。あの日が待っている。


「クリスタル。これ、最期の」

 最期の飴。彼女の手に握らせた。


 扉が背後で閉まる音がした。僕の声は聞こえただろうか。


「行ってきます、ありがとう」







 懐かしい日和の声。ずっと聞きたかった声。

「螢ちゃん、ドライブに行かない? いい天気だし」

「いいね、ちょっと遠くまで走ろうか」

 僕の声は震えていないだろうか、おかしい所はないだろうか。


「今日は私が運転するね」

 屈託もなく笑う彼女。

「いや、僕に運転させてよ。そういう気分なんだ」

「そう?じゃあ、たまにはお願いしよっかなー」


 ――これでいい。これでいいのだ。

 美しい山桜。

 中央分離帯を乗り越えて突っ込んでくる車。

 ひしゃげた車体。

 日和の泣き叫ぶ声が聴こえる。


「螢ちゃん、起きて! やだ! 起きてよ!」


 どうやら日和は無事なようだ。

 僕は何も答えられなかったが、辛うじて動く表情筋を精一杯使って微笑みながら、ゆっくり目を閉じた。











 質素なリビングにはそぐわない、チアガール姿の少女がソファの上に一人腰掛けている。

 隣のチェストの上には螢ちゃんと撮った写真が飾られていて、私は目を背けた。


「さて、夫婦揃って面倒くさい子達ね。泣きついてくるもんだから、てっきり螢に会いたいっていうのかと思ってたわ」


 クリスタルの言葉に思わず苦笑してしまう。


「ちゃんと現実を見せて死なせてやって下さい、ってアンタって私以上に鬼?」


 螢ちゃんはずっと彷徨っていた。自分の死を受け入れられずに。

 ――私を無意識の中で殺してしまう程に。


 愛する夫を失って、自宅でふさぎ込んでいた私に、この小さな訪問者はそれを告げに来たのだ。

 螢が、このままじゃどこにも行けなくなる、と。


「螢ちゃんって変な所で弱虫なんです」


 事故で助かったのは私だけだった。

 螢ちゃんは即死。頭の中をぐるぐる回る医師の言葉。


「弱虫なのは昔っからじゃない。何かあると直ぐに私の所に来て現実逃避してたわ。本人は全然気付いて無かったけどね」


 注文の多いガキって嫌いなのよね、と言いながらもクリスタルの顔はどこか懐かしそうだ。


「クリスタルさんは優しいですよね。螢ちゃんに見せたの、現実だけど、現実じゃなかった」


 初めから運転席に乗っていたのは彼だった。私ではなかった。ちょっとした、優しい夢。

 だから、クリスタルが見せたのは現実だけど現実じゃない。

 螢ちゃんの為に作られた、螢ちゃんが納得できる死に方。

 彼が次の生を歩めるように用意されたまやかしの過去。


「別にぃー。アイツが死んだってどうでもいいけどね、でも……私だってさ、懐いてたガキンチョがあんなドロドロした奴になったら寝目覚め悪いもの」


 あんなん、という言葉の先を考えて日和は黙り込んだ。

 なんでもないことのように言うが、地縛霊だとか浮遊霊だとかそんな生易しい物ではないことがクリスタルの口ぶりから分かる。


 軽いが重い。それが彼女という人間を表す言葉、だと私は思っている。

 短い時間の付き合いで私が見出した彼女の本質でもある。


「まあねえ。でもアイツとは割りと悪い付き合いじゃなかったと思うんだよね」


 その目はどこか遠い。

 二人の間にあった鮮烈で優しい時間。私の知らない螢ちゃん。

 嫉妬、より先に安堵した。螢ちゃんは確かに、一人じゃなかったのだから。

 私とはきっと違う感情。それでも螢を少なからず思って見守ってくれていた彼女には感謝の念しかない。


「螢ちゃんは、よく言ってました」

 クリスタルが片眉を怪訝そうに上げる。


「『見たこともない世界は意外とそこら辺にある扉で繋がってるんだから興味深い、しかも門番は超適当だ』って。私も可愛い門番さんだな、って思っちゃった」


 瞼の裏に浮かんでくる彼は、子供のように目を輝かせていた。

 その瞳は星が瞬いてるように純粋で、目をそらせなかった。



「アンタ達って本当にお似合い」

 呆れたようにうろん、とした目で私を見つめるクリスタルの意図は分からない。


「いいわよ、別に。分からなくていいの。仕事は終わった。私もう帰る」


 クリスタルのカップに紅茶は残っていなかった。

 盆に残ったクッキーをハンカチに器用に包みながら鼻歌を歌うクリスタルに私は何も言えなかった。


「ねえ」

 ふいに動きを止めたクリスタルが私を見る。

「なんですか?」

 クッキーの最期の一枚を口に頬張りながらもごもごと彼女は言った。


「アイツはちゃんと歩き出した。もう扉はいらない。アンタはどうなの」


 どこでも繋がる扉。幻想の世界にも、死者の世界にも、過去にも、未来にも。

 そして彼がこれから行き着くであろう世界にも。


 私はぎゅっと目を閉じて、彼のことを出来る限り思い出そうとした。

 思い浮かぶのは彼と過ごした取り留めのない日常。


 そこに、怖いものは何もなかった。ただ静かで穏やかな世界が広がっていた。

 二人きりの世界はもうない。手を取ってくれた螢ちゃんはもういない。

 これからは私一人で進まなければならない。


 クリスタルは、優しいから叶えてくれるかもしれない。

 それでも、私は。


 螢ちゃんは最期まで私を愛してくれていた。

 だから――。


「大丈夫。一人じゃないから、歩いていける。魔法はもう十分に貰ったもの。彼からもあなたからも」


「……そう。それでいいのね」


 クリスタルの顔は穏やかに見えた。寂しそうにも見えた。


「クリスタル。ありがとう。あなたの幸せを祈ってる」


 クリスタルの手を握る。その手に持たせたのは、飴。

 螢ちゃんがポケットに常備していたものの最期の一つ。


 どこからともなく現れた扉に手をかけて、彼女は去っていた。


「やっぱりアンタ達って似た者同士ね」


 まばゆい光に包まれる中、最期に振り返った彼女は確かに笑っていた。


 もう、扉は見ないと思う。


 それでもきっと、彼女は何処かとんでもない場所で扉の前に座り込み、今日も明日もあさっても、これからもずっといるだろう。


 退屈そうに飴を舐めながら。





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― 新着の感想 ―
[良い点]  後味が良かったです。  相手に死なれる辛さを分かってて、それでも彼女に生きて欲しいというのは、最高にわがままですね。やり直したらそっちを選ぶと信じられるのもまたスゴイですよね。
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