Blood moon
お姉様のお話によりますと、夜の湖に星屑が流れ出す頃、願い事を続けて三回途切れずに言いきることができたならば、その願いは何でも叶えられるとのことでした。そのお話を聞いてからというもの、私は毎晩毎晩欠かさず湖へと向かう日々でした。しかし星屑が流れることなど、一度たりともなかったのでした。
私が湖で天使を見かけたのは、そんなある夜のことでした。天使の白羽根は美しく、月光を吸い尽くしたかのように煌々と光輝いていたのでした。星の綺麗な夜でした。私はとても目が良いので、見渡す限りの星という星が見えるのです。やがて天使の羽が一層の輝きを帯びて光を放ち始めました。羽根で隠されていた天使の顔が露わになったとき、私は思わずあっ、と声をあげてしまいました。そのお顔はまさしくお姉様のお顔なのでした。妹である私が見間違えるはずがないのです。私は身体が弾かれたような気分になり、即座に湖を後にして家へと飛んで帰りました。
明くる日、お姉様に湖で出会った天使のことをお話しました。駆け引きの苦手な私は単刀直入にお聞きしたのです。お姉様は天使なのですかと。お姉様は「何をおっしゃっているの」とまるで相手にしてくれないのでした。その夜も湖へと足を運びました。待てども待てども天使は現れませんでした。
湖へ通う日々は続きました。しかし困ったことに、あるときいつも通り家を出ようとすると、村の人々が挙って喚きたてているではありませんか。指さす先を見てみますと、赤黒い月が異様な雰囲気で居座っているのでした。まるで血に染められたかのような様相です。聞き取れない何かを口々に叫ぶ人々を押しのけ、私は湖へと全力で走り急ぎました。お姉様の顔をした天使のことがひどく気にかかりました。あれからそのお姿を見ることはもうありませんでしたが、今日この日であればもう一度そのお姿を拝めるような、そんな気がしていたのです。
湖は暗く、夜空を黒雲が覆っているものですから、視覚よりも聴覚が鋭敏になっていました。何やら、甲殻類を食すような音がぼそぼそと聞こえます。よくよく目を凝らすと、音の主は巨大な何かの影なのでした。天使ではないようです。
「天使を知りませんか」
私は何者かに尋ねました。返事はありません。
「以前この湖でお姿を見たのです。天使を知りませんか」
何かを食べていたような音が止みました。どうやら私の声は影の主に届いたようでした。静けさが漂う中、暗闇に慣れた私の目がきらりと小さく光るものを捉えました。星屑でした。あれだけ彼方にあった星々が何と今、こんなにも近くで見ることができるではありませんか。そしてそれらの星々を、影の主は零すまいと抱きかかえているようなのです。
「その星屑を湖へ流してください。私はお願い事があるのです」
影の主はしばらく迷ったようでした。しかしまた、先ほどのばりぼりと骨を砕くような音を立て始めたのです。私は初めに聞こえた音が、星屑を食す音であったことを知ったのでした。
やがて雲間から赤黒い月が顔を覗かせました。影の主が次第に鈍赤色の光に照らされていきます。それは巨大な肉塊でした。本来は羽根になったのでしょう、背中から伸びた骨の先端は腐り、踏みつぶされた雪のような色をした毛が所々絡みついているではありませんか。顔らしき部分は目がすっかり潰れているせいで、不器用に星屑を頬張る姿からかろうじて口を認識するのが関の山なのでした。口に入りきらなかった星屑が湖へ零れ落ちます。お姉様から聞いていたのとはだいぶ状況が違う気もしたのですが、私はお願い事を唱えることにしました。
「天使に会わせてください、天使に会わせてください……」
三度きちんと言い終えました。途切れずに言えたかは自信がありませんが、最善を尽くした結果です。月が肉塊を射しました。身体の内側がぶくぶくと膨れ上がったかと思えば、次第に赤橙の肉塊が爛れるようにして縮んでいきます。腐っていた骨は脆さが目に見えるくらいの崩れ落ちようでした。私は私で身動きが取れず、ただただその変化を凝視していました。次第に肉塊は滑らかな皮膚表面を形作り始め、先刻までの巨体は嘘のようでした。余分な肉は溶け落ち、彫刻のような肉体美が広がっていきました。
「天使……」
星屑が敷き詰められた花のように散り広げられた湖に、「天使」は立っていました。本当に願い事は叶ったようです。私は初めて天使と出会った時のように、また身体を弾かれるようにして急いで家まで駆けて戻りました。
翌日、村は昨夜の血染めの月の話で持ちきりでした。私はお姉様に昨夜の出来事をお話しました。お姉様は静かに微笑んでいらっしゃいました。お姉様は言います。あの湖でお願い事をすると、同じ願いを持たなくなってしまうのだと。湖に落ちる星屑は、捨てられた、あるいは忘れ去られた願い、希望の集合体なのだそうです。仮に星屑が流れる場面に出会えたとしても、自身の願いもまた、叶えられた途端に流れてしまうそうなのです。何とも皮肉なお話です。