ファルコのノート
ファルコのノート
1
一機の偵察機――アメリカ軍のB17が、ナチス・ドイツの領空を飛行していた。
「機長、敵の通信です。感度は良好」通信士から機長の機内受信機に連絡が入った。
「内容はわかるか?」
通信士は舌打ちした。「だめです。例によってエニグマ暗号です」
それはドイツ軍が誇るエニグマ暗号機によって変換された暗号だった。
「よし、帰投しよう」
B17はプロペラ音を響かせて大きく旋回した。
皮肉にも、先ほどの通信はB17の位置を知らせる内容だった。ただちに国境近くの基地から、ドイツの戦闘機が八機、離陸した。
機体の腹にある回転銃座に閉じこもっている射撃手が叫んだ。「機長、前方に機影。敵です。メッサーシュミットが八機」
左右の射撃手が、機銃を構えた。B17は急上昇して回避行動を取ろうとした。しかし、鈍重なB17にドイツのメッサーシュミットを振り切るのは無理だった。たちまち、左右から群がって来る敵機に、機銃掃射を浴びせられた。
B17の射撃手も、一斉に爆音を立てながら迎撃し始めた。だが、メッサーシュミットの機敏な動きに追いつけない。
「通信士、基地に敵戦闘機と交戦中と報告しろ」機長がマイクに怒鳴った。
その十五分後、B17は撃墜された。
* * *
「エニグマって何ですか」
新任の士官が、基地の通信室で、先輩の通信士に尋ねた。
「ああ、機密だから、新任の君がまだ知らないのも無理ないな」
先輩はヘッドフォンを外して首にかけた。
「ドイツ軍が使っている暗号機だよ。非常に高性能で、『I love you.』が、滅茶苦茶な文章に変換される。ローターという変換器が三〜四個入っていて、一文字打つ度にローターがずれていき別の文字に変え、その変わった文字をさらに次のローターが変換し…という具合に文章をぐちゃぐちゃにしてしまう。だが、ローターの種類と最初の位置が分かっていれば、元の文章に戻せるらしい」
「われわれには解読できないのですか」
「今のところ、お手上げだ。初期型のエニグマは一九三〇年代にポーランドで解読に成功している。
だが、その後、エニグマの後発機はどんどん複雑化されていき、I love you.のような簡単な文でも解読に丸一日かかるようになった。まして、一般の戦時通信、たとえば爆撃命令などは解読に膨大な時間がかかって、解けたときには、すでにその町は瓦礫の山だよ。
ドイツは全軍に四十万台のエニグマ暗号機を配備している。エニグマ暗号を素早く解読できなければ、われわれはこの戦争には勝てない」
それを聞いて、新任士官はため息をついた。
2
一九四二年七月。
東亜通信社パリ支局の記者、関豊が、アパルトマンに帰ると、ドアの前で子どもが待っていた。茶色のチョッキに、半ズボンから膝小僧がのぞいている。
豊は笑顔を見せた。「シャルル。久しぶりだな」
シャルルは十二歳。子どもだが、占領下のパリで地下活動を続ける抗独レジスタンス組織「七月の狼」の立派な連絡係だった。
豊は、ドアの鍵を開けると、シャルルを連れて部屋に入った。
「今月の暗号だよ。
『歩いてきたのか』
『自動車が故障してね』
『見てやろうか?』
『いや。叔父が整備工なんだ』
だって」
「そうか、月初めだったな」メンバー同士を確認する合言葉は毎月変えられていた。
「それとジョルジュからメッセージを預かってきてるよ」
ジョルジュは「七月の狼」の中で、豊の上官にあたる人物だ。豊はジョルジュの下で活動しているが、一度も会ったことはない。
豊は、シャルルが差し出した真鍮の小箱を受け取った。ポケットから鍵を取り出し、箱の鍵穴に差し込んでひねった。箱は開いた。古典的だが、無線のように傍受されやすいものより、意外に実用的な連絡方法だ。
中に、小さくたたんだ便箋が入っていた。
―― ユタカ、アメリカ諜報部からの情報だ。
先月、マルセイユ大学の数学者ルネ・ファルコ博士という人物が、フランスの科学誌に短い論文を寄稿した。イギリス軍がこの論文を入手、アメリカの暗号解読の専門家に分析を依頼したところ、この理論を発展させれば、エニグマ暗号を解読できる可能性があるとの見解だった。しかし、一見しただけでは、この理論がエニグマ暗号と関係あるとは分からない。専門家の、それもエニグマにも知識がある人間でなければ、この関連は分からないとのことだ。
数学の論文など、世界中で毎月山のように発表されている。したがって今はドイツはまだこの論文の存在に気づいていないし、まして、エニグマとの関連など、全く知らない。
しかし、万が一、ファルコ博士の理論を知り、彼を逮捕して、理論を発展させるよう強要すれば、エニグマ暗号機に対策を施してしまうだろう。このため、ファルコ博士一家をフランスから脱出させる。七月十五日夜八時にビスケー湾、ジロンド河河口沖に、米国潜水艦が迎えに来る。接触地点は『北緯×××度○○分……』だ。
マルセイユにはわれわれの同士は一人しかいない。ルイ・ヴリュノーという男だ。まだ組織に入って日が浅く、彼一人に任せるのは無理だ。そこで、君はマルセイユに行き、ヴリュノーと協力して、ファルコ博士を接触地点まで無事に連れて行ってもらいたい。――
ジョルジュからのメッセージは、そこで終わっていた。
豊は懐中からライターを取り出すと、便箋に火を付けた。ジジ…とかすかな音を立てて、すぐに便箋は燃え尽きた。
「ユタカ、どうしたの?怖い顔だよ」シャルルが顔を覗き込んで尋ねた。
豊は我に返って、シャルルに微笑んだ。
「何でもないよ。ほら、駄賃だ」ポケットから一フラン銀貨を出してシャルルに渡した。シャルルは破顔して、銀貨に息を吹きかけ半ズボンに擦りつけた。その銀色の光沢を楽しむかのように片目をつぶって窓からの光にかざして反射させた。
「ありがとう。じゃあまたね」
そう言うと、シャルルは部屋から出て行った。
ドアが閉じると、豊はまた気難しい顔に戻った。頭の中では、これからやらねばならない事を、次々と並べていた。
3
七月十二日、日曜日。
豊はマルセイユに向かう汽車の中にいた。パリですべき事は、すべて終えた。任務の価値は重大だが、内容は大したことはない。博士らを連れて汽車旅行をし、海岸で米軍に引き渡す――それだけだ。
マルセイユは、取材で何度か訪れたことがある。豊の好きな町のひとつだ。フランスの南端、地中海に面した古くから栄える港町で、気候もパリに比べるとずっと温暖だ。
数日前にかけた、ルイ・ヴリュノーとの電話を思い出していた。暗号でお互いの素性を確認してから、住所を聞いた。もちろん、ルイも組織から今回の任務を知らされていた。だが、気になったのは、ルイがあまり気乗りしない様子だったことだ。
ジョルジュも書いていたように、組織に参加して間がないのも気がかりだったが、その上、電話での話しぶりは、まるで社交辞令のようでやる気がうかがえなかった。
レジスタンス活動の任務というものは、掃き清められた道をしずしずと進んでいくようなわけにはいかない。進めば、必ず小石が落ちていて、歩くのを邪魔する。時にはどけることのできない岩に出くわして、迂回しなければならないこともある。そういったことは仕方のないことだ。だが、自ら予定外の重荷を背負って出発するのは話が別だ。会ってみないと分からないが、ルイの消極的な態度は、お荷物になりかねないと、豊には思えた。
車窓の外を流れていく田園風景を眺めながら、豊は考え込んでいた。
汽車がマルセイユ駅に着いた。ホームは人でごった返していた。機関車が吹き出す水蒸気が人の間を縫うように漂っていた。
豊は駅の近くのホテルに部屋を取った。荷物をホテルに置くと、街頭に出てルイ・ヴリュノーの家に向かった。どんよりと曇った日曜日だった。通りの店はほとんど閉じている。ルイの家は下町の一角、セリー通りの横丁にあった。
木のドアを拳でノックした。物音がしない。もう一度ノックした。「誰だ?」中から男の声がした。ルイだろう。「関豊だ。パリから来た」豊は言った。
ドアが開いた。ルイはガウン姿だった。金髪を短く刈り上げた、筋肉質で背の高い男だった。
「まあ、入ってくれ。遠いところをようこそ」
ルイに案内され、居間に行く途中、寝室が開け放たれていて中が見えた。若い女がベッドに横たわっていた。毛布をかぶっているが、裸らしい。
ルイがガウン姿である理由が分かった。豊は呆れた。昼間から、それもきょうは自分が来ると分かっているのに、この男は何をやっているのだろう。
「かけてくれ」そう言われて、豊はソファーに座った。
「さっきのは奥さんかね?」
「いずれそうなるが、いまは恋人だよ。エメだ。同じ通りに住んでいる。ここの通りの雑貨屋で働いていて、それで知り合ったんだ」
ルイは着替え始めた。
エメが白いワンピースを纏い、やってきた。先ほどはちらりとしか見えなかったが、改めて見ると、透けるような白い肌に、大きな青い瞳、鼻は高く尖っていて、美しい女性だった。
豊に言った。「お茶はいかが?」
「いや、結構」
ルイが身支度を調えた。
「本題に入ろう。ファルコ博士だが…」
ルイが制した。
「外で話そう」
ルイはエメを振り返り、抱き寄せて熱いディープキスを交わした。豊は咳払いをした。
ルイは豊に照れくさそうな表情を見せると、
「エメ、ちょっと出かけてくる」と言って、再び、今度は額にキスをした。エメは微笑んだ。そして、ルイは紺色のハンチング帽をかぶった。
ルイの家を後にし、二人は通りを歩き始めた。
ルイは少し申し訳なさそうに言った。「実はエメは『七月の狼』とは無関係なんだ。おれが参加していることも知らない」
それを聞いて、豊は、さっきファルコ博士の名前を口にしたことを軽率だったと反省した。
「明日、ファルコ博士をマルセイユから連れ出す」豊は告げた。
ルイは表情を曇らせた。
「そのことなんだが…、おれは今回の仕事から外してもらえないだろうか」
「なぜだ?」
「おれは、こんな大きな仕事をしたことがない…」
豊は苦笑した。「エメだな」
「えっ」ルイはうろたえた。
「エメを一人にしておくのが不安なんだろう?それが一番の理由じゃないのか?」
豊の言葉に、ルイは頬を赤くした。
「きみが思うほど大変な仕事じゃない。二、三日家を空けるだけだ。それにドイツはファルコ博士なんか気にもかけていない」
ルイは、ハンチング帽を取って髪を撫でつけ、またかぶった。動揺をごまかそうとしている。
「それとも、今まで、エメと二日も離れるなんて初めてなのか?」
「…実はそうだ」
「あれほどの美人だ。気持ちは分かる。だが、この仕事は、戦争の行方を左右するほど重要な戦略的意義がある。おれ一人では何かあったときに代わりを務める人間がいなくなる。どうか協力してくれないか」
ルイはしばらく黙って歩き続けた。
豊は重ねて言った。「マルセイユには『七月の狼』はきみしかいないんだ」
「分かった」ルイは答えた。
「よかった。予定では明日夜七時にファルコ博士の家に行き、明日からの手はずを説明することになっている。夜の六時半におれのホテルに来てくれるか」
ルイは頷いた。
4
翌七月十三日、豊は、ホテルで作戦の再確認をしていた。
ベッドの上には地図が広げられていた。
豊は、マルセイユから接触地点の近くロワヤンまで、ほぼ直線コースを走る鉄道で移動するつもりだった。最短であるだけでなく、フランス中心部と比べてドイツ軍が手薄な地帯で、安全と考えられる。
五時過ぎに、豊の部屋のドアをせっかちにノックする音が響いた。覗き穴からドアの外を見ると、ルイだった。豊はドアを開け、招き入れた。
「早いじゃないか」
ルイは汗をかいていた。走ってきたらしい。「大変だ。ドイツ軍が封鎖線を張り始めた」
「何」
「ドイツ軍がマルセイユ市街地を包囲しようとしているんだ」
窓の外を見た。ドイツ兵たちが大勢でd通りを闊歩している。
目的は何だろう。きょうの日中までは何事もなかったのに。
豊は焦った。戒厳令が出て外出禁止にでもなったら作戦が頓挫してしまう。ファルコ博士と早く落ち合わなければ。
ルイに言った。「ルイ、ファルコ博士に連絡しろ。すぐに家から出るように。フェラン通りで合流しよう」
ルイが電話をかけている間、豊はベッドの上に並べていた品々を手提げ鞄に詰めた。
ルイが振り返った。「博士もすぐ出るそうだ。急ごう」
二人はホテルから、合流場所へと急いだ。裏通りから裏通りへ、往来するドイツ兵たちの様子をうかがいながら、歩いたり身をひそめたりを繰り返し、次第に、フェラン通りに近づいた。
陽が傾き、町はオレンジ色の夕陽に染まっていた。
「ここだ」豊はそう言って、角を曲がった。
歩いていくと、途中の横丁の薄暗がりに人影があった。
「ファルコ博士?」豊は人影に声をかけてみた。
「そうだ。きみたちが『七月の狼』かね?」
「そうだ」
ファルコ博士は、通りに出てきた。資料では四十歳となっていたが、実際の年齢より老けて見えた。銀色の髪のせいだろう。物腰の柔らかな温厚そうな人物だった。
その後ろに女性と少女がいた。ファルコ博士の家族だ。三人とも、鞄を提げていた。
「妻のアトリスと娘のアネットだ」ファルコは言った。
アトリスも夫のルネと同じ数学博士で、アネットは十二歳だ。
「知っての通り、予想外の事態が発生した。理由は分からないがドイツ軍がマルセイユを封鎖しようとしている」
ファルコ博士が言った。「おそらく狙いは私だ」
「えっ。なぜ?」
「一度家を出た後、忘れ物に気づき戻ったのだよ。ところが、ドイツ兵が大勢押しかけていて、家中を捜索していた。あわてて逃げてきたよ」
なぜだ。ファルコの論文の存在に気がついたのだろうか。だが、そうだとしても、そう易々とエニグマとの関連までは辿り着けないはずだ。
豊は心を決めた。
「皆さん、予定を早めて、今夜マルセイユを抜け出すしかない」
「封鎖線をどうやって突破するんだ?」ルイが尋ねた。
「問題はそれだ。ルイ、ジープは手に入らないか?手薄な関門を探して、そこを強行突破しよう」
「知り合いに頼めば何とかなるだろうが、こうドイツ兵がうようよしていたら、訪ねていけるかどうか…」
「ちょっと、いいかな」ファルコ博士が口を開いた。「封鎖線の下をくぐり抜けてはどうだろう。地下の下水道だ」
ルイが言った。「それは良い。ユタカ、そうしよう」
豊も同意した。
一行は、すぐ近くのマンホールの蓋を外し、はしごを下って行った。最後に豊が入り、蓋を閉じた。
暗闇の中、ちょろちょろと水の流れる音が反響している。
「懐中電灯を持っている。ちょっと待ってくれ」豊はそう言うと、鞄の中を手探りで探した。そして、懐中電灯を取り出して点けた。
下水道は、直径十メートルほどの円筒になっていた。両脇に人が歩ける平らな通路があり、中央を水が流れていた。
懐中電灯の灯りで、湾曲した壁に五人の巨大な影がゆらゆらと映っている。
「ルイ、方向は分かるか?」
「ああ、任せてくれ、こっちだ」
ルイの先導で、五人は歩き始めた。
足音が反響する。誰も何も言わなかった。黙々と歩き続けた。
町の北端まで歩き、そこで五人は地上に出た。
涼しい風が吹いている。皆、新鮮な空気をたっぷり吸い込んだ。
あたりを見渡し、豊が言った。「どうやら封鎖線の外らしいな」
懐中電灯を消した。月明かりで足元はよく見える。
五人は歩き続けた。
5
「お父さん、疲れた…」それまでずっと黙っていたアネットがファルコ博士に言った。
五人は郊外の田舎道を歩き続けていた。
「おれが背負ってあげようか?」一番体格の良いルイが言った。
母親のアトリスが「ありがとう。でも大丈夫よ」とルイに言って、アネットを見下ろした。「頑張りなさい」
豊はルイに尋ねた。「朝までにヴィトローレまで着けると思うか?」
「何とかなるだろう。
ああ、エメには明日発つと言ってあったから、今頃心配してるだろうな。ドイツ軍が封鎖しているし、きっと不安な夜を過ごしてると思うよ」
「ヴィトローレの駅で電話をすると良い。きみの声を聞けば安心するだろう」
「そうだな。
ところで、ヴィトローレからはどうするんだ?」
「最初の予定では、ロワヤンへの直線路線で行くつもりだった。ドイツ軍が手薄だからな。
だが、事情が変わった。連中は、当然、逃げるなら手薄な南路線を選ぶと踏んでいるはずだ。わざわざドイツ軍基地が多数ある北方へ行くわけはないからな。
だから、その裏をかく。大きく北へ迂回してオルレアンまで行き、そこから南方へ向かう路線に乗り換えてロワヤンへ向かう」
「なるほど」とルイ。
本当は、このくらいの機転はきかせてくれないと困るのだが、経験の浅いルイにそこまで要求するのは無理というものだろう。
一行は黙々と歩き続けた。
* * *
七月十四日。陽が昇り、朝になった。五人は、何とかヴィトローレに着いていた。
駅に行く前に、豊は、鞄から偽造身分証明書を出して、ファルコ一家に渡した。
「こういう事態も考えて、パリで作ってきたものだ。あなたたちは、
夫、カミーユ・セルネ、
妻、ディアーヌ・セルネ、
子、コレット・セルネ、
そして、ルイはカミーユ・セルネの従兄弟だ。おれは、一緒に座るが、四人とは無関係の乗客になる。きみたちはオルレアンへ旅行に行く途中なんだ。いいね?」
四人は頷いた。
ヴィトローレ駅は小さな駅舎だった。幸いドイツ軍はいなかった。北行きの汽車の始発は七時ちょうどで、あと二十分ほどだった。
「エメに無事を知らせてくる」ルイはそう言うと、公衆電話に歩いていった。
豊は、戻ってきたルイに尋ねた。「どうだった?」
「とても怯えていたよ。夕べは一睡もしていないそうだ。だが無事と知って安心したらしい。親戚に不幸があって、急にマルセイユを離れたと言っておいたよ」
豊はにやりと笑った。「付き合ってどれくらいになるんだ?」
「まだ半年さ。ちょうど『七月の狼』に参加した頃に出会ったんだ」
今が一番楽しい時期なのだろう。ひとときも離れたくない気持ちは良く分かった。豊にも経験がある。
やがて、北行きの汽車がホームに入ってきた。六両編成だ。石炭の燃える独特の匂いがした。ホームの駅員が、手持ちのベルをカランカランと鳴らしながら、行き先を大声で告げていた。「ニーム、クレルモンフェラン方面行きです」
豊たちは列車に乗り込んだ。向かい合わせ四人がけの座席にファルコ一家とルイ、通路を挟んだ隣の席に豊が座った。
汽笛が鳴り、ガクンと軽いショックを感じた。ゆっくりと汽車は走り始めた。
ファルコ博士が青いノートを取り出して、何か書き始めた。
「それは?」隣のルイが尋ねた。
ファルコは小声で答えた。「私の理論を発展させて、エニグマ暗号を解読できる新理論を導こうとしているんだ。きみたちから最初に連絡を受けたときから手がけている。まだしばらくはかかりそうだが、何とか完成させねば」
走り出して一時間ほどで、セヴェンヌ山脈の峠を越えた。ここから先は、人里の少ないサントラル高地を抜けていくことになる。
夜通し歩き続けた疲れで、アトリスとアネットは眠ってしまった。ルイもうとうとしかけている。ファルコ博士だけが面々とノートに数式を書き綴っている。
豊はルイを見ながら思った。彼にはレジスタンスとしてはまだまだ経験が必要だ。多くのメンバーが命を落としている。常に緊張感を失わないこと、死ぬのは、この簡単なことができない者ばかりだ。
フランスは、国としてはドイツに降伏した。だが民衆は屈服していない。その象徴がレジスタンスだ。「七月の狼」を始め、いくつものレジスタンス組織が各地に生まれている。みな、国の再生のために、命を投げ出す覚悟を持っている。だが、同じ命でも、意味のある捨て方をしなければならない。本当に必要な瞬間までは、自分の命は守り続けなくてはならないのだ。
汽車はサントラル高地を抜け、クレルモンフェランに着いた。
豊は異変を感じた。停車時間がやけに長い。
そのうち、武装したドイツ兵を従えた、平服の男が乗り込んできた。秘密警察の私服警官だ。どうしてこんな田舎で検問を行うのか。
「身分証明書を提示してください」
フランス語でそう言うと、先頭の客から順に調べ始めた。
豊は通路向こうの四人に目をやった。みな緊張した表情をしている。ファルコ一家は、豊からもらった偽造身分証明書を取り出し、じっと見つめている。身分証明書のセルネ一家になりきるよう、頭の中で反芻しているのだろう。
やがて、豊たちの席の順番が来た。
警官が豊に「身分証明書を」と言った。豊は、証明書と、「これも」と言って、ナチスが豊に発行した取材許可証を見せた。同盟国である日本人で、しかもナチスからもお墨付きをもらっているのだから、これ以上の身分証明はない。
警官はうんうんと頷くと「ありがとう」と言って、証明書を返した。
そしてファルコたちの席に向き直り、調べ始めた。偽造身分証明書を見たが、何事もなく返した。
組織でも腕利きの職人に作らせたものだ。偽造と見破られることはまずありえない。
「それは何だね?」警官が、ファルコ博士の膝の上にある青いノートを指した。
しまった。豊は心の中で舌打ちした。数式の羅列を見られたらすぐに怪しまれる。警官はノートを受け取りパラパラとめくった。「何だ、これは」呆れたように警官がファルコ博士の顔を見た。
「娘が私に絵を描いてくれたんだよ」ファルコ博士が答えた。
ノートには、落書きがたくさん書いてあった。アネットが知らぬ間にすり替えたようだ。豊は安堵した。
次の座席に移ろうとした警官が、何気なく振り向いて、
「ああ、ファルコさん、オルレアンは初めてかね」と尋ねた。
豊は衝撃を受けた。罠だ。尋問の間はセルネ一家になりすましていたが、それが終わって、皆、緊張が解けている。秘密警察の常套手段だが、緊張の解けたところに気安く言われると、多くの人が引っかかってしまう。
アトリスが反射的に警官に微笑みかけようとした瞬間、隣のアネットが母の腕につかまって、「ファルコって誰?うちはセルネよ」と答えた。
「ああ、これは失敬」そう言うと警官は次の客の検問に移った。
豊はアネットの機転に安堵した。
検問が終わり、警官と兵士たちが下車すると、汽車はまた走り出した。
アネットがスカートの中から青いノートを取り出すと、父に渡した。ファルコ博士は微笑み、ノートを開くと式の続きを書き始めた。
6
汽車は北上を続ける。高地を抜けてからというもの、天気は打って変わって曇り空になっていた。
豊は考えていた。クレルモンフェランでの秘密警官の誘導尋問が気にかかっていた。”ああ、ファルコさん、オルレアンは初めてかね”
明らかにあの検問はファルコ博士を探すためのものだ。クレルモンフェランで停車した一本一本の汽車を、ああやって調べているのだろう。だがその上、オルレアンに行くことまで知っているらしい。ならば、このままオルレアンまで乗っているのは危険だ。
豊は、メモ用紙を出して「ヌヴェール手前のリノで下車」と書いた。それを小さくたたむと、トイレに立つのを装ってよろけた。通路反対側のルイにぶつかって「あ、失礼」そう言うとともに、メモをルイの膝に落とした。
トイレから帰ってきて席に着くと、四人とも(分かった)という表情で豊を見た。
ヌヴェールで路線は二手に分かれる。北に向かいオルレアンを通過する本線と西に向かう支線だ。だから、ドイツ軍が次に検問をするとすればヌヴェールの可能性が高い。これを避けるためにリノで降りてしまうのだ。
豊はもう自分たちだけでこの任務を遂行するのは難しいと思っていた。リノでジョルジュに連絡を取り、指示を仰ごう。緊急時以外は、ジョルジュへの電話は禁じられているが、いまがまさしく緊急時だ。
五人はリノに降り立った。
「ちょっと待っていてくれ」豊はそう言うと、パリのジョルジュに電話をかけた。この番号も毎月変わる。豊たちは、こういった情報は決して書き留めたりせず、すべて暗記する。
ジョルジュが出ると、ここまでの状況を話した。
「これでは、もう鉄道は使えない」
「そうか、分かった。そのまま少し待ってくれ」ジョルジュはそう言うと、席を離れた。
「ユタカ」ジョルジュが戻ってきた。「シャトルー郊外の仲間を手配した。そこから七十キロほど西の森に住んでいる。リノまで車で君たちを拾いに行くから、駅で待っていてくれ」電話は切れた。
豊は五人に説明した。
「シャトルー郊外から仲間が迎えに来る。一時間くらいだろう」
一行は駅のベンチで車を待った。ファルコ博士は時間を惜しむように懸命にノートに数式を書き続けていた。時々、アトリスに相談している。同じ数学者であるアトリスは、ファルコ博士にとって良き理解者であり、相談相手でもあるのだろう。ルイはエメに電話をかけにいった
一時間を少し過ぎた頃、一台の車が、駅前にやって来た。豊は歩み寄った。運転席の窓が開いた。運転していたのは金髪にグリーン色の眼をした中年女性だった。クリーム色のスカーフを被っている。豊は今月の合言葉を交わして、メンバーであることを確認した。
「マリー・バティーニュよ。窮屈でしょうけど何とか乗ってちょうだい」
五人は車に乗り込んだ。
「聞いたわ。夕べから大変な目に会ったようね」マリーは言った。
豊が答えた。「ああ。そうなんだ。何とかかわしてここまで来たよ」
「脱出は明日ね。今夜はうちでゆっくりしてちょうだい」
「助かるよ」
一時間走り続けて、マリーの家に着いた。道路の片側が森で、反対側は草原が広がっていた。マリーの家は草原の側にあった。母屋と納屋がくっついて建っている。
空は分厚い雲に覆われて、日没までまだ時間があるのに、早くも夜の帳が下りようとしていた。
「さあ、着いたわ。息子が夕食の支度をしているはずよ」
家に入ると少年が待っていた。
「いらっしゃい」母親と同じ金髪とグリーン色の眼をしている。
「息子のフェリクスよ」
五人は次々とフェリクスと握手した。
アネットが尋ねた。「私よりお兄さんみたいだけど、いくつなの?」
「十六だよ」
「子どもだけど立派なレジスタンスよ」マリーがフェリクスの肩に手を掛けて言った。
「失礼だが、ご主人は?」豊が尋ねた。
マリーは言った。「去年、ドイツ軍将校のパーティー会場を爆破する仕事をしたのよ。その時、現場で逮捕されて、それっきり帰ってきてないわ」悲しむべき事だが、マリーはむしろ誇らしげだった。
「さあさあ、みなさん、夕食にしましょう。お腹が空いているでしょう」フェリクスが言った。彼は野菜のシチューをこしらえていた。昨日から食事らしい食事は何も取っていない五人にとって、なによりのご馳走だった。ファルコ博士は食事の間も、ノートを書き続けていた。
* * *
食後、みな満足して余韻にひたっていると、マリーが突然、小声で叫んだ。
「しーっ!何か聞こえるわ」
豊も耳をすませたが、何も聞こえない。マリーだけが、神経を耳に集中させて音を探っていた。
「ドイツ軍用車だわ。フェリクス、みんなを隠し部屋に!」
「母さんも!」
「だめよ。今まで灯りが点いていたのだから、無人だと余計に怪しまれるわ。フェリクス、みんなをお願いね」
フェリクスが工具を持って、床板の一角に差し込んだ。板張りの床で、継ぎ目らしい継ぎ目も見あたらないが、引き開けると、ひとが一人通れるくらいの床板が開き、床下への穴が現れた。
「さあ、みなさんここへ」
促されて、豊たちは次々とはしごを下りた。最後にフェリクスが入り、蓋を閉じた。
マリーの耳は正しかった。やがて、家の前に車が停まり、ノックの音が聞こえた。
マリーがドアを開けると、男たちが荒々しい足音で入ってきた。ドイツ軍将校と兵士たちらしい。
「この一帯の誰かが、指名手配されているフランス人学者を救出したらしい。お前がそうか?」
将校の問いに、マリーは「いいえ、一日中家にいましたよ」
「何か資料を受け取っただろう」
「いいえ。誰も訪ねてきていません」
「探せ」
将校が命じると兵士たちは一斉に戸棚や引き出しの中身を床にぶちまけ始めた。さらに戸棚をずらせて隠し扉がないか調べた。
さらに、兵士たちは、機関銃の台座らしきもので、床中を叩き始めた。豊は緊張した。だが、床板から漏れる細い光に、はしごに乗ったままのフェリクスの表情が見える。彼の顔には自信がうかがえた。蓋となる床板にも頑丈な垂木が打ち付けてある。ただの床板だけなら、叩くとそこだけ軽い音になるが、これなら、他の場所と変わらないだろう。
「何も見つかりません」兵士が報告した。
「そうか」
「大尉、この女の夫は去年、放火事件で逮捕されています。レジスタンスです」
「ふむ」将校は少し黙って考え込んでいるようだ。やがて言った。「逮捕しろ」
「なぜ。容疑は何です」マリーが叫んだ。
「レジスタンスの疑いがある。それだけで充分だ」
フェリクスが目を閉じて悔しげな表情で唇を噛んだ。
豊には、涙が光ったように見えた。
家から皆が出て行き、外の車のエンジン音が聞こえた。それはうなりながら、遠ざかっていった。
フェリクスが地下室の五人に告げた。「見張りを残しているかも知れません。三、四時間はこのままで様子を見ます」
ファルコが豊に「懐中電灯を貸してくれるかね」と言った。豊が渡すと、灯りを点け、ノートの続きを書き始めた。
地下室にこもって三時間が過ぎた頃、近くでエンジン音が聞こえた。
フェリクスが言った。「今のは残ったドイツ兵ですね。あきらめて帰るようです。ただ、この一帯の民家は軒並み取り調べを受けたはずです。ここは一本道ですから近くの森にドイツ軍の偵察隊が潜んでいるかもしれません。
さあ出ましょう」
六人は次々と地下室から出た。
部屋は取り散らかったままだった。フェリクスは無言で片付け始めた。アネットが手伝った。
「フェリクス…母さんは…」豊がフェリクスの肩に手を掛けた。
「父は去年逮捕されたきり、もちろん帰ってきていませんし、どこにいるのか、生きているのかさえ分かりません。母もきっと同じでしょう」
豊はおもむろに振り返ると、拳銃を取り出し、ルイの胸ぐらをつかんで喉に突きつけた。
「説明しろ」豊の眼は怒りで燃え上がっていた。「なぜ次々と追っ手が来る。おれとお前の他に電話をかけたものはいない。おれはドイツ軍と内通していない。だとすればお前がナチスのスパイということになる」
「と、とんでもない」ルイは必死に弁明した。「おれだって、フランスを救うために『七月の狼』に入ったんだ。おれがナチスに内通などとんでもない。そんなことをするはずがない」
「ナチスに電話しなかったか?」
「神に賭けて誓う。そんなことは絶対にしていない。エメにしかかけてない」
豊はルイをつかんだ手を放した。
二人とも椅子に座った。豊は拳銃をテーブルに置いた。
「エメには二回電話をかけたな。一回目はヴィトローレの駅だ。何を話した」
「無事でいること、マルセイユから離れたこと、汽車に乗ること…だな」
「他には?」
「エメがどこにいくのかあんまり心配するので、オルレアン方面行きに乗ると告げたが……」
「じゃあ、リノでは何を話したか言ってみろ」
「リノにいること、友人が七十キロの西から迎えに来てくれること」
それで合点がいく。
なぜ、突然マルセイユに封鎖線が張られたのか?なぜ地方のいち科学者に過ぎないファルコ博士を逮捕しに来たのか。そして、なぜヴィトローレから北行きの列車に乗ったことが分かったのか。なぜクレルモンフェランで検問があったのか?さらには、ドイツ軍の裏をかいて、ヌヴェールの手前のリノで降りたのに、マリー・バティーニュの家まで捜査に来たのか。
豊は言った。「エメはナチスのスパイだ」
エメはルイが「七月の狼」であることを、とうに知っているのだろう。豊は最初にルイを訪ねたとき、エメもメンバーだと思い、つい「ファルコ博士」という名前を口にしてしまった。エメはそれをナチスに通報し、おそらく、その知らせはベルリンまで届いたのだ。ベルリンで専門家がファルコ博士の論文を調べ、それがエニグマと関係があることを知った。事の重大さに気づいたナチス・ドイツは、ただちにファルコ博士を捕らえるべく、マルセイユを封鎖したのだ。しかし、すんでのところで取り逃がしてしまった。
ところが、翌朝、ヴィトローレからルイの電話が入った。行き先を聞いたエメはこれを再び通報した。これにより、ドイツ軍はクレルモンフェランを通過する列車を一本ずつ検問し始めたのだ。
さらに、リノから電話を受けたことで、鉄道から陸路に切り替えたことを知った。そうでなければドイツ軍がこんな片田舎の民家を捜査に来るはずがない。
豊は、これを話し「だからルイ、エメはナチスのスパイだ」と告げた。
「そんなはずはない。エメはそんなことをする女じゃない」
豊は首をゆっくり振って、うつむいた。
「なんで行き先まで話した」
「あんまり心配するから……」
「いいか、きみの電話がどれもナチスに通報されているとしたら、つじつまが合う。なぜ、どんなに必死にドイツ軍の裏をかいても追っ手が現れ続けたのか。消去法で行くとエメ以外考えられない」
「……」
「エメと付き合い始めたのは『七月の狼』に参加した頃だと言ったな。エメはおそらくナチスの密命を受けて、きみに接近したんだ」
「そんな馬鹿な」
「いいや。こんなことを強いられるには、エメは何か弱みを握られている可能性がある。思い当たることは何かないか」
ルイは黙り込んだ。そして、はっと何かに気づいたような顔になった。
「……エメは、ユダヤ人なんだ。だが、堂々と外を出歩くし、度胸のある女だと思っていた……」
「それだ。収容所送りになるか、スパイとしてきみに近づくか、選ばされたんだ」
ルイは頭を抱えた。
「おれは……馬鹿だった。メンバーではないから一応用心して、『七月の狼』に関係する情報は一切伏せてきたのに、肝心なところで大切な情報を流してしまっていた。エメがおれを愛してくれているから心配するんだと思いこんで……」
「もういい。過ぎたことだ」豊はルイの肩を叩いた。
フェリクスたちが部屋を片付けている間も、ファルコ博士はテーブルで黙々とノートを書き続けていた。
片付け終わると、豊は一同をテーブルの周りに集めた。地図を広げた。
「明日の予定だ。われわれのいるところはここ。接触地点のロワヤン郊外はここだ。その間約二百キロ。車で朝出れば、充分時間までに間に合う。だがもしドイツ軍と出くわすと戦わざるを得ない」
フェリクスが言った。「武器はさっきの地下室に一通りそろえてあります」
「そうか。なるべくそれを使わずに済むといいが」
ルイが尋ねた。「フェリクス、車は何台ある」
「二台あります」
「ユタカ、おれは、一台で一足先に反対方向に逃げる。ドイツ軍が残っているとしたら、おれを追いかけてくるはずだ。そのあと、みんなは目的地に出発してくれ」
「ルイ……」豊は、ルイの眼を見た。そこにはもう弱気で不注意な新米レジスタンスの面影はなかった。
ルイは言った。「おれは、最初簡単に済むはずだったこの仕事を台無しにしてしまった。皆を危険に晒しているのは、このおれだ。だから償いをさせてくれ」
豊は頷いた。「分かった、頼むぞ」
フェリクスが「今夜は灯りを点けたまま、地下室で寝ましょう。窮屈ですが念のためです」と言った。
7
七月十五日の早朝になった。細かな雨が降りしきっていた。
ルイは支度を調えると「見ていてくれ。ナチス野郎を引き付けて、百キロは走ってみせる」と言った。
「ああ、頼んだぞ。これが終わったら、おれはパリに戻る。また会おう」豊はそう言うと、ルイと握手した。二人は笑い合った。
ルイは母屋から納屋に入り、納屋の外扉を開けた。
車に乗ると「じゃあ行くよ」と言って走り出た。道路を東向きに曲がり、そのまま走り去った。
ルイが雨で煙る丘を越えて消えた時、近くの脇の林から一台の車が現れて追いかけ始めた。ドイツ軍だ。やはり見張っていたのだ。
「二時間は様子を見ましょう」フェリクスが言った。
果たして、三十分を過ぎた頃、西からドイツ軍の軍用車が二台現れて、東に向かって行った。ルイを狩る応援だろう。
その二台の様子を見ていてフェリクスは「うん。たぶんもうこの辺りにはドイツ軍はいないでしょう。いれば一度停まってお互い何か話すはずです」と言った。
フェリクスはもう一台の車のトランクに散弾銃や手榴弾、爆薬などの武器を積み込んだ。車は黒いボディの38年式シトロエンだ。
ルイが出てから二時間後、五人はシトロエンに乗り込んだ。
「ここから海の近くまでは、ドイツ軍の駐屯地はありません。飛ばして行きますよ」と運転席のフェリクス。助手席に豊が乗った。後部座席がファルコ一家だ。
「では出発です」
フェリクスは車を発進させた。
振り子のようなワイパーが、フロントガラスに降りかかる雨を拭い続けている。
車は疾走する。一同は黙ったままだった。
ファルコ博士だけが、一心不乱にノートに数式を書き続けていた。ノートは三冊目に達していた。
三時間ほど走っただろうか。フェリクスが、バックミラーに映るはるか後方の二台の車を見つけた。猛烈なスピードで近づいてくる。
フェリクスがつぶやいた。「追っ手が来たようです」
豊は振り返った。確かに近づいてくる車が見える。ドイツ軍用車かどうかは判らないが、そうだとしたらルイが捕まったのかもしれない。ルイの身の上に何が起こったのかは考えたくもない。
「振り切れるか?」
「任せてください。こいつは見かけはただのシトロエンですが、改造して排気量を大幅に上げてあるんです」フェリクスが誇らしげに言った。「父が残してくれたものです。行きますよ」
フェリクスはシフトアップし、アクセルを深く踏み込んだ。エンジンが金属的な咆哮を上げた。全員ガクンとのけぞった。それまでも十分高速だったが、シトロエンは、そこからさらに爆発的に加速した。
後方の車両が見る見る小さくなっていく。やがて、地平線の向こうに消えた。
ファルコ博士が静かに何か言った。
「え」エンジンの轟音にかき消されて聞き取れなかった豊は、振り返って聞き返した。
「できたよ。エニグマ暗号の解析理論だ。元の理論から導き出すのにノート三冊を費やしたよ」
「素晴らしいわ」アトリスが微笑んでファルコ博士の手を握った。ファルコ博士も握り返した。
「おれはエニグマの難しい原理は何も分からないから、聞いても無駄だと思うが、それは従来のグリル・メソッドとかいう解読法とは、かなり違うのかね?」
ファルコ博士は笑った。
「グリル・メソッドは、現在使用されているタイプのエニグマには全く無力だ。この新理論は、内部で使われているローターの個数さえ仮定してやれば、元の平文(ひらぶん。暗号化されていない普通の文のこと)が得られる」
「すごいな」と言いながらも、豊はどうすごいのか良く分からなかった。だが間違いなくそのノートは連合国にとって大きな価値を持っていることだけは確かだ。
ファルコ博士は三冊のノートをアトリスの膝の上に乗せた。
「アトリス、このノートをきみに渡す。君ならこれを読みこなして実際の暗号解読ができるはずだ」
「なぜ、私に渡すの」
「私は一旦、ひとりで逃げる。追っ手をまいたら合流する。
ドイツ軍が欲しいのは私の脳みそだ。万が一、一緒に捕まったら、やつらは私は生かして利用するだろうが、他の皆は命の保証がない。また、きみたちの命と引き替えに私に理論を教えさせようとするかも知れない。そうなると、私は白状せざるを得ない。だから、別行動をとる必要がある。
そのノートの存在は、絶対にナチス・ドイツに知られてはならない。知られると、全軍の暗号機を回収して改造したものと交換されてしまう。連合国がエニグマを解読できるという事実は最高機密でなくてはならない。彼らが今のエニグマを使い続けることが重要なんだ」
アトリスはノートをぎゅっと握りしめた。
ファルコ博士はフェリスに尋ねた。「フェリクス、ロワヤンまであとどれくらいかね」
「三十分くらいです」
「ここで停めて、運転を交代してくれ。わざとスピードを落として、後ろから来るドイツ軍用車を引きつける。そして、ロワヤンの接触地点近くになったら、みんな飛び降りて身を隠せ。私はそのままドイツ軍用車を引き連れて北へ逃げる」
車は停まった。皆、車を降りて深呼吸をした。雨は止んでいた。フェリクスはトランクから武器を取り出してリュックサックに詰めた。
「心配だわ。必ず戻ってね」アトリスがファルコ博士に抱きついてキスをした。
豊は、ファルコ博士の袖を引っ張って、他の者たちから引き離した。
アトリスとアネットに聞こえないように耳打ちした。
「きみは拷問され、解読方法の洗いざらいを喋らされるぞ。自白剤も打たれるだろう」
ファルコ博士が豊を真っ直ぐに見据えながら答えた。「大丈夫。実は、シアン化ナトリウムのカプセルを持ってるんだ。いざとなればそれを使う。ナチスに情報を渡しはしないよ」
ファルコ博士は覚悟を決めているのだ。豊は無言で見つめた。ファルコ博士は頷いた。
「お父さん、いやよ。一緒にいて」アネットが抱きついて泣き声で訴えた。
「いつも一緒だよ。アネット、お前は良い子だ。これをあげよう」小さなカードをアネットの手に握らせた。
ファルコ博士が運転席に座り、一行は再び乗車した。スピードを抑え気味に走り続けると、再び、はるか後方に二台の車が現れた。もう午後も遅い。二台はライトを点灯していた。
「来たな」とフェリクス。「間違いない。あれはドイツ軍です」
「フェリクス、ロワヤンはまだかね?」とファルコ博士が言った。
「もうそろそろです」
「よし、ブレーキを踏むから、みんな飛び降りるんだ」
ファルコ博士が減速した。
四人はドアを開けて、一斉に飛び降りた。あたりは草むらで、勢いでごろごろと転がる四人にはクッションになってくれた。シトロエンは、ドアが開いたまま、エンジン音を高鳴らせてスピードを上げ、走り去った。
豊たちは、草むらに隠れた。十分ほどして、二台の車が猛スピードで通り過ぎていった。やはり、ドイツ軍の軍用車両だった。
(逃げ切ってくれ…)豊は祈った。絶望的な期待だった。
午後六時。ロワヤン郊外の草原を掻き分けて進んでいくと、ふいに海が開けた。次々と白波が打ち寄せていた。曇ってはいるがビスケー湾に沈む夕陽のせいで、そちらの方角の雲が薄赤い光をぼんやりと放っている。
「止まって。身を低く」フェリクスが手で皆を制した。双眼鏡を取り出し、海岸線右の丘を注視した。
「新しく歩哨詰所ができている。情報では存在しないはずなのに」
豊も双眼鏡をもらって覗き込んだ。屋根の付いた小さな東屋があり、人がひとり立っている。ヘルメットのシルエットでドイツ兵と判った。
フェリクスが悔しそうに言った。「この半月の間に新設されたんだ。よりによって接触地点のすぐ近くだなんて……」
豊が言った。「始末するか」
「だめです。何もなくても一時間毎に基地から詰所に電話がかかってくるんです。歩哨が殺されたら、一時間以内に発覚してしまいます」
「一番近くの基地は?」
「サントの駐屯所です。距離にして約七十キロ。つまり歩哨を殺しても最長でも二時間後にはドイツ軍が駆けつけてきます」
豊は険しい表情を浮かべた。潜水艦からのボートを誘導するためには、こちらから光で合図を送らなくてはならない。だがボートがそれを見つけて海岸まで漕ぎ着くには三十分はかかるだろう。それを歩哨に発見されたら、電話で基地に通知され、無線連絡で、この海域のドイツ駆逐艦が急行してくる。潜水艦そのものが危険にさらされてしまう。
「どうする?」
フェリクスは、人差し指で鼻の頭を掻きながら考え込んだ。アトリスとアネットはしゃがみ込んだまま不安げに見つめるばかりだった。辺りは、刻一刻と夕暮れから闇に移り変わっていく。
フェリクスは決心した表情で言った。「よし。ぼくがナチスを引きつけます」
皆がフェリクスを唾をごくりと飲み込んで見つめた。「今から八時までかけて、歩哨詰所を超えて、できるだけここから離れたところに行き、この……」背負ったリュックサックを軽く叩いた。「このプラスチック爆弾を爆発させます。そうすると歩哨がジープで確認に行くはずですから、詰所を離れたのを確認したら海に向かって発火筒で合図を送って下さい。潜水艦からボートが迎えに来ます」
「それならおれがやろう」豊はフェリクスのリュックサックに手を掛けた。
「いや、ぼくじゃなきゃだめです。ユタカさんは時限信管を埋め込んで爆薬を爆発させたことはありますか?」
「やったことはないが、手順を教えてくれたらできるだろう」
「だめです。万が一不発に終わったらどうするんですか。ぼくなら何度もやっていますから確実に爆破させられる」
アトリスがフェリクスに尋ねた。「あなたはどうするの」
「事を確かにやり遂げて何とか逃げますよ。父も母も勇敢に戦った。ぼくも両親に胸を張りたい。ユタカさん、ここから先はあなたが頼りです。お二人をお任せします」
豊は頷いた。こんな若い少年が命を賭けようとしている。やはり戦争というものは狂っている。
爆発を起こせば、歩哨は電話でサントの駐屯所に連絡をしてから確認に行くだろう。ドイツ兵が集まってくる。逃げ出せるかどうか分からないのは、フェリクスが一番よく理解しているはずだ。
豊は言った。「幸運を」
「みなさんも」そう言うと、フェリクスはきびすを返して、茂る草に隠れ、身をかがめて走り出した。
まだ歩哨がいるので、懐中電灯が使えない。時計を見ることができないので、待つ時間が無限のように感じられた。
もしや、途中でドイツ軍に捕まったか、と訝しみ始めた時、丘のはるか向こうで火柱が上がった。光はたれ込めた雲を一瞬明るく照らし出した。少し遅れて、腹に響くような激しい爆発音が聞こえてきた。
歩哨詰所の脇で灯りが点いた。ジープのヘッドライトのようだ。車は、エンジンを噴かして爆発の起こった方角へ飛ばしていった。
豊は、発火筒を持ち、岩に先端を擦りつけた。発火筒は着火し、眩い黄緑色の閃光を放った。豊はそれを海に向かって、頭上で大きく振った。
ずっと振り続けていると、闇から浮かび上がるように、ボートらしきものが現れた。最初は小さかったそれは、次第に近づいてきて、水兵たちが漕ぐゴムボートだということが判った。やがて、ボートは着岸し、ベージュ色の米軍の軍服を来た士官が降りてきた。
豊に尋ねた。「あなたがファルコ博士ですか?」
「いや、私はレジスタンスの者です。こちらは夫人のアトリスと娘のアネット。
ファルコ博士は、まだ到着していません」
「米国潜水艦S47から救出に来ました。海軍少尉ヘイフォードです。
まずいな。博士はあとどのくらいで到着しますか?」
「……目処は立っていません」
「艦長から、すぐ戻るように命令されています。敵駆逐艦が巡回しています。ここはジロンド川の河口のため浅瀬で、迎撃に必要な深度を取れないのです」
豊は少し考えて、アトリスに言った。
「私はファルコ博士を待ち、国内に潜伏するよう手はずを整える。あなたたちは、少尉とともに潜水艦に行くんだ」
アトリスは首を振った。
「そんなことはできないわ。私はルネを待ちます」
豊は、三冊のノートを持っているアトリスの両手を、上からしっかりと握り、ノートをアトリスの胸に押しつけた。
「このノートを活かせるのはあなたしかいない。アトリス、行くんだ」
ヘイフォードが尋ねた。「そのノートは何です?」
「逃亡中にルネ・ファルコ博士が導き出した、エニグマ暗号を解読するための新理論です。これを使いこなせるのは、同じ数学者で、ファルコ博士の理論にも精通している夫人しかいません。
だから、アトリス、すぐに行くんだ」
「でも……」
「ルネ・ファルコ博士は最善を尽くした。ここであなたが行かなければ、それが無駄になってしまう」
アトリスは考え込んだ。そして決心したように頷いた。
「そうね。そうだわ。ユタカ、主人のこと頼みます」そう言うと、アトリスは、豊と抱き合い、頬を重ねた。
豊はしゃがむと、アネットとも抱擁した。アネットは、父からもらったカードを差しだし、
「ユタカ、私からはこれをあげる」
懐中電灯で照らした。
「jgxcqaq…?何語だろう?読めないよ」
「簡単な暗号よ。お父さんがよく遊びで作ってくれたわ。この場合は公差が2の等差数列、つまり偶数で文字をスライドさせてるの。
最初はゼロだからそのままJ。
次は2だからgを2つ戻してe。
次は4だからxを4つ戻してt…
そうやって解読すると、jgxcqaqは、jetaimeになる。つまりJe t'aimeになるでしょ」
豊は驚いた。さすが数学者夫妻の娘だけのことはある。
「ありがとうアネット。きみのことは忘れないよ」
ふたりは、水兵たちの手を借りて、ゴムボートに乗り込んだ。四人の水兵がオールで漕ぎ出した。
ボートは岸を離れた。
豊は、手を振って、叫んだ。「アトリス、必ずファルコのノートを活かしてくれ」
アネットが、伸び上がって叫び返した。「ユタカも幸運を」
やがて、ボートは凪の海の闇に溶け込んでいった。
豊は、ひとり残った。今回の仕事では、大きな犠牲を払った。ルイは、マリーは、フェリクスは、そしてファルコ博士はどうなったのか。
道路まで出て、脇のくぼみに身を潜めた。ドイツ軍車両が何台も爆音を立てて通過していく。フェリクスを捕らえに向かう追っ手だろうか。
そしてファルコ博士はシアン化ナトリウムを使ったに違いない。いまは遠くなった潮騒を背に、豊は博士の冥福を祈った。