したたかに行こう!
「…こんな簡単な仕事すら、満足にこなせないのか?」
見下すような目つきで、大げさにため息をつく。
「…すみません…」
振り絞った声で、なんとか返事をする。決して怒られて泣きそう、などというわけではない。イライラの頂点なのだ。
私は今、上司に頼まれてとったコピーの事で、ちくちくと文句を言われている。急ぎの仕事を片している最中にうるさく頼まれた上、コピーの仕上がりについて、濃度が濃いとか用紙の端が微妙に折れてるだとか、くだらないダメ出しを長々とされ、私の左足爪先は、上司の死角であるデスクの陰でエイトビートを刻んでいた。
「は~、やっと終わった」
「お疲れ様、ほんとに…」
ようやく説教が終わり(いびるネタ切れだったと思われる)デスクに戻ると、隣で同僚兼親友の絢子が困ったような笑顔で私を労う。
「恵、完璧笹原さんのはけ口になっちゃってるものね…」
「ほんとだよ、迷惑極まりない!ルックス良くて仕事も出来るのに、あれじゃあダメだわ。全て台無し」
「でも、実際ストレス溜まる仕事よね、笹原さんの今のプロジェクト…あっ、恵への態度を良しとしてるわけじゃないのよ。ただ、笹原さんも大変よね、と思って…」
両者を気遣い、焦る絢子。かわいいなぁ…そして、なんていい娘なんだろう。いつも思う。絢子の親友というポジションは、私の誇り&自慢だ。
しかし、ほのぼのとした空気は一瞬で壊れた。笹原のおでましだ。
「仕事の進みはどう?絢子ちゃん」
さぶいぼがたった。笹原は絢子のことを、ファーストネーム+ちゃん付けで呼ぶのだ。
「はい、明日までの仕事は午前中に終わりました」
「うんうん、さすが絢子ちゃん!迅速だね。そしたら、申し訳ないけどこれ頼める?ちょっと急ぐんだけど」
絢子のデスクの上に書類を広げ、説明を始める笹原。絢子は、はっきり言って、かなりデキる娘だ。かわいくて、人柄が良く、仕事もできる。パーフェクト超人かい、ってなほどだ。そんな絢子がモテるのは、自分のことのように誇らしい。しかし、笹原とくっつくのだけは許せない。こんな地上最低の生き物に、絢子は渡せない。まぁ絢子も、笹原の私への態度を知っているし、心配はいらないだろうけど。
そんなことを考えていたら、笹原がふと、私の向かっているパソコンの画面をちらりと見て顔を歪ませた。
「おまえさぁ…なんでまだそんなとこやってるわけ?急ぎだって言ったよなぁ!?遅ぇんだよ、ちっとは絢子ちゃん見習えっ」
ぷちん。
あのなぁ、この仕事が滞ったのは、あんたの長ったらしい説教のせいだよ。
そもそも、絢子ほどでなくとも、私だって仕事は早いほうだ。なのにこいつはいつもいつも、絢子と比べてばっかで、ちっとも私を認めようとしない。
あえて言おう。私はこいつが大嫌いだ。
入社したばかりの頃は、笹原は憧れの対象だった。自分にも部下にも甘くなく、しかし過剰に厳しくあたることもなく、頭の回転が速くきびきび働く姿は、本当にかっこいいと思った。ともすれば恋に発展しそうなほど、笹原への憧れは強かった。はずだったのに…。
いつからか、こんな状態になっていた。
「そうだ。高橋、お茶淹れて」
ぶちん。
何を言ってるんだ?こいつは。
急ぎの仕事をやらせといて、なぜお茶汲みに時間を割かせる?馬鹿か?馬鹿なのか、こいつは。幻滅ポイントは、こうやって日々増えてゆく。
「今、忙しいんですけど」
珍しく反抗してみる。だって、どう考えても私が正しい。
「だったら、とっととそれ終わらせろよ。そんでお茶な。ヨロシク」
ぶっちん。
「笹原さん、お茶だったら私が…」
そう言った絢子を、手で制した。
「わかりました、すぐ終わらせます。集中するんで、絶対話しかけないでくださいね」
ドスのきいた声で言うと、私はものすごい勢いでキーボードを打ち始めた。こうなったら、見返してやる。それしかない。絢子よりも…いや、笹原よりもデキる人材になって、見返すどころか見下してやる。
ほどなく仕事は終わり、私は早足で給湯室へと向かった。足元のゴキブリホイホイをじっと睨み、いつか混入してやろうと思いながらお茶を淹れていると、同僚の男の子が声をかけてきた。
「お疲れ、高橋さん」
「小島くん…どうしたの、こんなところで」
「いや…さっきのさ、見てたんだけど…」
「?」
さっきの?
「笹原さんさ…ちょっときついよな。うん、あれは誰が見ても、ただのイビリだよ。でも、気にしない方がいいっていうか…」
…じ~ん。
や、優しい。
私を励ますために、わざわざ後を追って…。
「うん、ありがとう。でも、大丈夫。気にしてないから」
おっと、思わず強がってしまった。本当はめちゃめちゃ腹立ってるのに。
「そっか…、ならいいんだけど。じゃあ」
そう言って、去っていく小島くん。本当に、それを言うためだけに来たんだ。いい人だぁ…。
同僚の、小島くん。入社当時は、なんだか冴えなくて頼りなさそうで、背も低いし地味だし軟弱っぽい…なんて、かなり酷いこと思ってたけど、実は最近ちょっと気になり始めてる。
笹原にいびられてる時、ちょっとよそ見をしてみたら、小島くんが心配そうにこっちを見ていた。デスクで仕事をしてる時も、視線を感じる。くすぐったくてちらりと見返すと、パッと視線をそらす。
お人好しで、頼まれると断れない、小島くん。
以前は『おいおい、嫌ならはっきり断れよ…』と呆れていたが、それも彼の人柄の良さなのだろう。
仕事もいまいち上手くこなせなくて、同僚からも文句を言われる、小島くん。
以前は『かっこ悪ぅ…』と呆れていたが、『そこがかわいい』と言う考え方もできるかもしれない。
なにより、小島くんは私に冷たくしない。悪く言わない。蔑まない。いびらない。少し考えて私は、棚から湯呑みをもうひとつ取り出した。
「お待たせしました」
無表情で、笹原のデスクに湯呑みを置く。
「ん」
短い返事を背に、私は小島くんのデスクに向かう。
「はい、小島くん」
コトリと湯呑みを置く。ちょっと驚いたような表情の、小島くん。
「さっきはありがと」
「あ…うん」
ちょっとキョドる小島くん。照れてるのかな。かわいいな。
それから少し2人で、世間話をした。他愛ない会話。面白くはないけれど、気持ちが楽。最近笹原の事でピリピリしてるもんな、私。こういう人が、相性いいのかも。ちょっとウキウキした語調になる。
「そういえば、中岡さんもうすぐ退職だよね。いいなぁ、寿退社!もう今月末だよね。送別会とかやらないのかなぁ…むしろ私が幹事やっちゃうとか!?」
「え?…送別会って、今日の夜…だよね?」
小島くんの台詞に、私は一瞬固まった。
「え…嘘。私聞いてないんだけど…」
途端に、重苦しい空気が流れ出す。
「メール、届いてなかった?一週間くらい前に…」
言われた私は、自分のデスクに駆けた。そして、即行でパソコンのメールボックスを確認する。小刻みにスクロールを繰り返すが、やはり送別会のお知らせなんて来ていない。焦り気味に、隣にいる絢子に尋ねる。
「絢子、中岡さんの送別会、今日あるの!?」
「え…うん。もしかして恵、知らなかった?」
「ちょっと、そのメール見せて!」
絢子が慌ててメールボックスを開き、一週間前のメールを探し出す。
「あった…あっ」
絢子が何かに気付き、口元をおさえる。私も、すぐに気付いた。
送別会の幹事は、笹原だった。もちろん、メールの発信元も。
意味と意図は、すぐにわかった。
わざとだ。
わざと私にだけ、メールを送らなかった。うっかりなんかじゃない。
「め、恵…」
絢子がおそるおそる私の顔をのぞく。
「はは…ははは…」
無表情で笑う私。もう、怒るとかいう領域じゃない。
タイミングよく、お昼休みの鐘が鳴る。
「絢子~、ランチしよっかー…」
「大丈夫?恵…」
「うん、平気。立ち直り早いの知ってるでしょ?もう今日の用事は外せないし、中岡さんには挨拶だけきちんとする。女性陣からのプレゼントもあるしね」
さて、笹原には何と抗議すべきか。あるいは、あえて何も言わないか。というか、話したくもないんだよな、正直。
とりあえず、優先すべきはランチなので、私たちは食堂に向かっていた。いつもはデスクでお弁当を食べるのだが、今朝は作る時間がなかったので、社食で済ますことにした。絢子はもちろん、お弁当を持参している。
「ラーメンでも食べよっかなぁ…」
「あ、いいなぁ汁物」
「小どんぶりに少し分けてあげるよ」
喋りながら歩いていると、笹原と小島くんが、屋上への階段を上っていくのが見えた。
「何、あの変な組み合わせ」
思わずギョッとした。
「なんだか、ここ最近ずっとああみたいよ。中岡さんの情報によると」
「2人で屋上ランチぃ?もしかして小島くん、昼休み中ずっと笹原の愚痴聞かされたり、厭味言われたりしてるんじゃないの?あの子仕事できないし、気ぃ弱いし」
そうは言ったが、実はあんまり心配していない自分がいる。うん…やっぱ小島くん、どーでもいい人かも。
対する絢子は、深刻な面持ちで喋り始める。
「それだったらまだいいんだけど…うちの屋上、一応立入禁止じゃない?もしかして、笹原さんに変なことされてないかな」
「変なこと?」
「うん。それともお互い、合意の上で…」
…始まった。絢子のビョーキが。
絢子はいわゆる、腐女子ってやつである。最初こそびっくりしたが、今ではすっかり慣れて、私も自ら話に乗っかって盛り上げたりもする。
「ないない、だって笹原、絢子のこと好きじゃん」
「えぇ?そんなこと言ったら、小島くんだって恵のこと好きじゃない」
「あ~、やっぱりそう思う!?なーんかそうじゃないかと思ってたのよね~、絢子も言うなら確定だわ」
「だとすると…両刀?」
真剣な顔つきで呟く絢子を見て、思わず吹き出した。
「あっははは、そりゃいーわ!2人とも両刀!決定!あー、おかしい」
笑い声が、廊下中に響き渡る。
「ねぇねぇ、そのネタ笹原の弱みにつながらないかな?もしかして私、形勢逆転できちゃうんじゃない!?」
「えぇ~、脅すのはちょっと…でも、小島くんも絡んできたらちょっと面白いかも」
「あはは!絢子のお許しが出た!どーしよ、本格的に計画立ててみよっかな~」
そのまま食堂に着いて、食事中もずっと、その話題で盛り上がっていた。
屋上。
体育座りをして向かい合う、笹原と小島。
「いい加減にしてくださいよ!!」
小島が叫ぶように言う。
「何やってるんですか、笹原さんは!今日なんてホント、最悪でしたよ!?」
「だってさ…」
小声で呟く笹原は、いつもの姿からは想像できない、まるで別人のようだった。
「だってじゃありません。なんですかあれは、コピーひとつでグチグチねちねち!」
「だってさ、できるだけいっぱい話していたいじゃん?同じ時間を共有、みたいな…」
「まともな話を振ればいいだけの話です!しかも、あんなタイミングでお茶淹れろなんて…どーゆー神経してるんですか!」
「だってさ、高橋の淹れたお茶、飲みたいじゃん?真心入りの…」
「真心なんて、入る余地もないです!大体高橋さん、真剣にゴキブリホイホイ見つめてましたよ!?危険な香りがプンプンじゃないですか!フォロー入れるのも大変なんですから…それから、絢子さんと比較するとか、マジありえないですよ!女の子は比べられるのが大嫌いなんですから!しかも名前呼びでべたべたべたべた…俺もあのくらいの行動力と勇気ほしいですよ!でも内気な俺は、遠くから見ることしかできなくて……じゃなくて!あれ絶対勘違いされますよ、完全絢子さん狙いに見えますって!」
「だってさ、男だったらやっぱ、ヤキモチ妬かれたいじゃん?」
「い・い・で・す・か、ヤキモチは好意ありきなんですぅ~!笹原さんは完全に対象外なんですぅ~!!…それから、なんで高橋さんに送別会のメール送らなかったんですか?忘れてたとは言わせませんよ」
「だってさ、好きな娘は仲間はずれにするのが定石じゃん?」
「…~っっ、小学生か、あんたはっ!!わかりにくいんだよ!何も伝わらねぇ!伝わるのは悪意のみ!!」
「……マジで?」
「当たり前です!ったくもう、おかげで高橋さんの中の俺の株、今急上昇してるんですよ!?笹原さんのせいで、異性に好意を持つハードルがめっちゃ低くなってるんです!俺を見る高橋さんの目、ほぼ恋しちゃってますよ!?それでいいんですか!」
「…ダメ…!!」
「そうです、ダメです!大体、高橋さんが本気になったら絢子さん絶対応援するタイプじゃないですか…それだけは…それだけはダメです!!はぁ~、俺は一体どうすれば…」
「恋愛って、難しいよな…」
「あんたに言われたくねぇ!!」
小島の怒号が、屋上中に響き渡った。




