点になる
木漏れ日の中に、風鈴の音を聞いた。公園で私は君の隣に立って笑ってた。あたたかい光の中で、涼むために木の下にいた。ハンドタオルで顔を煽いで、木の葉の緑を仰いだ。そうしているうちにどこからともなく、風鈴の音が聞こえてきた。たまに通りかかるらしい。自転車の後ろに棚をつけて、風鈴を吊り下げた、風鈴屋さんが、通るらしい。君は見たことある? そう訊くと、君はどこにもいなかった。
帰ったのか
やっと気が付いた。天井に拳を掲げて、私は目が覚めた。
しばらく使っていなかったヤカンに水をためて、温める。いつもより時間がかかったけれど、ちゃんとお湯になった。明日から始まる新生活に不安と期待を背負って。
何事も無く一日目を終えた。二日目も三日目も過ぎていった。充実していて振り返る暇もない。そんな毎日が過ぎた。
二か月経って、ふと、帰り道で、虹を見た。
それは昼下がりのことだった。体調を崩して早退した日の帰り道で、雨が降り出しそうだから早く帰ろうと思った。空を見上げたら黒い雲が迫ってきて、押し潰されそうで、逃げるように走って。ちょうど、太陽の光が差し込んでくる方向の反対側に、真っ黒い雲に描かれたような虹が出ていた。足を止めて、新しくした携帯電話で写真をとる。本当に病気なのかな。あの日の虹はきれいに見えた。けれど私には、かすれたペンで書かれた乾ききった虹だった。それでも、きれいと思った。何時間も見とれて、辺りを見回した時には夜になっていた。街灯の下にぽつりと立って、何もない夜空を見ていた。虹もなくなって、星も見えなくて。耳をすますと、雨の音。目を凝らすと、滲んだ景色。霧靄のように真っ暗になって、光が飛んできては過ぎていく。聞こうと思えば、聞こえるのか。車の音が五月蠅かった。
風をこじらせた。何日もお休みして、ようやく外に出られた。数日前と変わらない路で、駅まで行って、電車に乗って、終点まで行く。終点は、山の麓にあって、自然が豊かな土地だから。ホームに出て、疲れた。椅子はアリの通学路になっている。座れないな。重い首をよっこらしょ。電線が黒い。そうだ。そのとき、私は空が青いものだと、やっと知った。木の葉が緑になったのを、今更知った。幼い頃には無かった。新しい景色で、ほとんど発作のように感動していった。胸が張り裂けるように痛んだことにすら、感動した。涙が出てきて、どうしようもなかった。駅員さんが走ってきて
「大丈夫ですカ?」
と声をかけてきた。
「大丈夫ですよ。」
「え?」
駅員さんは聞き返してきた。聞こえなかったのかな。
「大丈夫ですよ!」
今度は大きな声を出した。耳を傾けていた駅員さんはびっくりした。
「ああ、はい。」
そして彼を呼ぶ別のお客さんのところにかけていった。
「体調が悪くなりましたら、いつでもお声をお掛け下さい!」
元気のいい新米の人だろうか? そう言って、彼の姿は無くなっていった。変な人だって思われてないかな。いや、変な人だ。私は変なんで、おかしな人で、人とは違う人で、でも、そんな人でも、悲しいことや、苦しいことが、たくさんあるわけで、その中の一滴がとんでもない毒だったりして、私にとってはあの夢のせいだったりする。今日が三年か二年か、そのあたり。逃げ出しても、この間の雲みたいに、私を押し潰そうとして追ってくる。もうやだ。もう嫌だ。嫌だ。嫌だよ。やだよ。夜だよ。
「夜?」
「もう夜だよ。」
私の目の前にいたのは知り合いの人だった。
「今日は何で休んだの?」
休むつもりは無かった。
「すいません。体調不良です。」
「体調不良、また? いい加減直しなよ。このままじゃやめなきゃならなくなるよ。」
その人はぶつぶつ言ってどこかへ行った。無責任な人だ。さよなら。人ごみに紛れて消えていった。夜。街灯。私の家。終電で家に着いた。じゃあ、今日は始発で帰ろう。おかしな考え。私の家が、家じゃないみたい。
空の端っこの色が若干明るくなる頃、私はヤカンに水を入れてお湯を沸かす。湯気になって消えていく水に思いを馳せていると、いつも空焚きになって火が消える。そうすると、ちょうど始発の時間なのだ。かばんを持って出て行く。目的地まで、いつも行けてないけど、私は今日も終点までは何とか行く。誰かに声をかけられて帰る。帰って寝て、ヤカンに火をつけて、燃えるのを眺めて、一日が終わる。昨日も今日も明日も何事もなかったかのように過ごして、今日が終わる。そうだ、私はいつも何をしているのだろう。疑問を抱えながら、ある日、駅に行った。ちょうど、駅員さんに声をかけられた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「今日もお早いですね。」
始発できてるからね。駅員さんは慣れたように会話している。
「お仕事ですか?」
「はい、でも、今日は忘れ物したんです。」
「そうですか。では、少しお待ちください。」
私は手の中に、ペンと紙があることに気が付いた。
「絵描きさんが忘れ物をするなんて珍しいですね。」
「今日はそんな日なんです。」
私は絵を描く人だったっけ?
「このように粗末なものですが、よろしければお使い下さい。」
「良きに計らえ。」
渾身のギャグが滑った。
「いつも、お上手な絵をお書きになってますからね。」
「そうですか。毎日売れていますか?」
気になった。
「長蛇の列ができる日もあります。今日はそんな日だと、僕は思います。」
私より彼の方が私の事をよく知っている。でも、多分知らない。それより、私はここに来て、いつの間に絵を描いていたんだろう。どんな絵を描いているんだろう。私は何を考えて、絵を描いているんだろう。駅員さん、教えてよ。
「えと、どんな絵が人気ですか?」
「そうですね、モノクロとカラフルの間のような絵が一番売れています。」
じゃあ、簡単だ。
「では、今日はそれにします。」
「それでは、僕は失礼します。今日も頑張ってください!」
そう言って、彼はどこかへ行った。私はようやく見えてきた白い紙とペンの感触を注意深く確かめた。何を描こうかな。見渡すと、古い駅のホームに、電車が一台止まっている。大きな電鉄ではなくて、箱みたいに小柄な電車が一両、ぽつりと発車の時を待っている。かわいらしいので、それを描こうと決めた。
せっかく用意してもらったペンだけど、インクがかすれて色が出ない。いつもこうなる。絵描きになんてなれないのに、どうして絵なんて描いてるのかな。教えてくれる人もいない。君はどう思う? 生きていて、意味あるの?
「……。」
電車は黙ったまま。
「君に乗って来たんだよ。」
「雨の日も風の日も。」
「明日も来るね。」
駅の改札口で人が流れていく。彼らの残した残像が天の川みたいに束になって、それぞれの色を放つ。眩しく怪しく狂おしく、一日の哀しみを払い落としていくように。希望を持った人が、少ないみたい。みんな、諦めか無知か、どっちかだ。それでも、彼らが羨ましい。
「お客さん、終電ですよ。」
駅員さんに呼ばれて気が付いた。もう暗い。
「今日も、沢山の方が来られましたよ。」
「それはそれは、皆さん喜んでましたか?」
気になったので訊いた。これでも一応絵描き。
「大変喜んでおられました。わざわざフランスから来られた方もおられました。」
フランス。どこにあったっけ。
「日本から何時間かかるのでしょうか。」
私がそう尋ねるころには、ヤカンから水蒸気があふれていた。
今日は雲一つない晴天のよう。日射しは弱いけど、私はせっせと絵を描いた。今日は電車が二両止まっている。目で見たそのままの風景を、紙の中に閉じ込めていく。私だけの世界が出来た。売る前に駅員さんに確認してもらった。
「きれいな絵ですよ。今日も大勢の方がお越しになるでしょう。」
紙が黒いから、あえて白をたくさん使った。久々に描ききった気がした。
「どうしたら、こんなに綺麗な絵が描けるのですか?」
急にどうしたんだろ。
「えと、見たものをそのまま描いたらそうなります。」
「すごい才能をお持ちですね。僕には出来ません。」
褒められた。
「でも、私はそれを才能だと思っていないです。才能なんかじゃなくて。」
病気だから。
「一度見た景色を、ずっと見ていられるんです。」
「あ、あの。」
駅員さんが私の顔を覗き込んできた。私は戸惑った。目のやりどころに困った。ホームから微かに外の世界が見える。赤く燃える夕陽が、光って、私を、彼を取り囲んでいた。どうしよう、かな。
「どこかで、お会いしたことありますか?」
会った。
「いいえ、ここでしか会ってないです。」
そんなわけない。
「そうですか。人違いですね。」
「たぶんそうです。」
違うよ。すこし、いじめたくなった。
「今日もあと少しですが、お仕事頑張ってください。」
彼は背を向けて遠ざかっていく。夕靄の中を、どこかへ消えていく。夢みたいに嘘みたいに消えていく。かすれていた色彩が一度に冴えてくる。わすれていた時間が滑らかに動き出す。
「待って!」
君と木の下。夏のこと、あれは君だった。紛れもなく君だった。どうしてどこかに行ってしまったのか、ずっと考えていた。ぎこちなく動いていた時が、コンマ一秒ぐらいで動くようになった。風鈴の音。風と木漏れ日。やっと、会えた。
もう何も見えなくていい。どうせ何もかもなくなるのなら、それは君の中で。
彼の胸に飛び込んだとき、私は世界との接続を全部切った。感触も味も匂いも、何も感じなくなって、空の泣き声も虹の色も、私には何もなくなった。死んだわけじゃない。でも、彼にとってはほとんど死体同然で。いつかはどっちみちこうなってしまうのだから、今、そうなった。それが、私の運命っていうもの。
はじめは時間に疎くなって、瞬間瞬間を拾い集めるようになる。気を付けていないと、何日も同じことをしてしまう。ひどくなると、自分と人との距離が測れなくなって、車とかにぶつかる。そのうち、色が分からなくなって、私の世界は線になっていく。私の感じるもの、五感がそうなっていく。一つのことしか出来なくなって、見えていた世界がなくなって、聞こえていたものがなくなって、触れていたものが消えていって、川のせせらぎの香りも、味も、それがなくなって、空っぽのヤカンが、私の家を燃やす頃だろう。
そしてすべてが点になる。