1-1
この世界にはモンスターが跋扈している。
◆第一週 一日目?◆
………。
――ぐほぉっ!?
という突然の衝撃がやってくる。
意識が覚醒する前に襲ってきた痛みは背中から。
すぐに何事かと情報収集を行うが、瞼を開けるとその視界はすぐに霞がかっていった。
1秒にも満たない僅かな時間で瞳が映した景色の感想は、暗いな、というもの。
最後に人の姿が視界の端に見えたような気がしたが、その時には既に視界も意識も闇の中にどっぷりと浸かる所だった。
◆第一週 二日目?◆
身体中を覆うヌメッとした感触。
次に覚醒した時、そんな不愉快な状況が真っ先に襲い掛かってきた。
普段であれば目覚めの時は微睡みを楽しみつつゆっくりと脳を覚醒させていくのだが、そんな状況で夢現に寝惚けていられる訳もなく。
即座に意識を覚醒させる。
気絶していた。
すぐにそう判断する。
仮想世界の中で色々と千切れた侍の姿を見下ろしていたのは、つい先ほどのこと。
一転して、衝撃。
苦痛。
ぼやける視界。
意識を失う。
そんな流れか。
記憶をより深く探るのは一端止めて、現実に意識を向ける。
自分の身の安全を確保する為、回りで何が起きているのかを確認するのが先決。
回想するのは後だ。
瞼をパチリと開き、情報を少しでも貪るべく周囲を見回す。
まるで現在進行形でスライム風呂にでも浸かっているかのような異色の浮遊感に悩まされながら視界に映した景色には、一人の男性の姿があった。
男はゲッソリと痩せこけた頬をしており、驚きの表情とともにこちらを覗き込んでいた。
何故か頭が思う様に動かず胸より上しか見えなかったが、神官服らしき服を着ている事からして神職にある身なのだろう。
だがその服は既にボロボロであり、神に仕える者にしては随分と清潔感と高貴さが足りていない。
落ちぶれ神官、もしくは浮浪者か。
第一印象の推定年齢は二十代後半。
だがそれは見た目があまりにあれなので、実は十代だという可能性もある。
どうやら男は俺の姿を映し、大変に心外なのだが、俺に対し驚いているようだった。
しかしその表情もすぐに苦虫を噛んだものに変わり、すぐに覚悟を決めた顔へと変わる。
そして懐から尖った何かを取り出し、祈るように何事かを呟いたと思ったら、男は信じられない行動を取ってきた。
歪で角張っていたが先の尖った物を心の臓器目掛けて振り降ろされれば、誰だろうが否応なしに理解する筈だ。
男は俺を殺そうとしていた。
理解するよりも先に、生存本能が身体を動かす。
だが予想以上に俺の身体は動きが悪く、鋭い切っ先が振り降ろされるよりも前に動き始めたというのに、その攻撃を完全に回避する事が出来なかった。
それは今現在俺が浸っているヌメヌメしたプールが俺の動きを阻害したというよりも、元々まともに動く事が出来ない身体だった、と言った方がしっくりくる動きの鈍さ。
以前の俺……というか、体感でほんの数分前の俺であれば、思わず欠伸がでてしまうくらいに軽く避けられただろう。
その数分の間にいったい何が起きたのか。
ザクッという聞きたくない鈍い音が肩口から鳴り、一瞬遅れて意識が飛びそうになる程の痛みが脳へと伝えられた。
視界が白黒に瞬く。
慣れている筈の苦痛が俺の精神を盛大に蝕む。
何とか致命傷は回避できた。
が、理不尽な状況は変わらない。
刺された肩から発する激しい苦痛に苛まれるのも束の間、浮遊感までがやってきた。
攻撃を受けた事で俺が浸かっていた浴槽っぽい物のバランスが崩れ、空中に放り出される。
視線の高さが男の腰の位置だったので、何となく高い位置にいるなとは思っていたが、宙を飛んだ事で全く嬉しくない情報が手に入る。
投げ出された自分の四肢が小さい。
まるで赤ん坊の様に。
冗談じゃない。
更にこの上、空中に放り出されて回避行動すら許されないなど、どうぞ殺してくれと言っているようなもの。
もし本当にこの身体が赤ん坊のものなのであれば、落下の衝撃で死んでしまうという可能性もある。
俺は転生したのか?
一瞬そんな言葉が脳裏を過ぎったが、悠長にそれを考察する様な時間は無かった。
いつもならば考えるよりも先に身体が動いてくれるのだが、麻痺毒でも受けている様に全く身体が反応してくれない。
先ほど男の攻撃を辛くも避けられた事自体がまるで奇跡であったかのように身体が動かない。
舌打ちではまるで足りない億劫な状況。
死が死神と約束されでもしているのか。
この状況下ではあまり嬉しくない事に、脳だけは以前のそれと変わらないようで、加速した思考が今この瞬間この一瞬一瞬をまるでスローモーションの様に処理していく。
いっそ脳のスペックも低下していれば、こんな絶望的な状況を克明に把握することなくアッサリと死ねたというのに。
激しい肩の痛みをじっくり味わうという巫山戯たプラス処理もかなり鬱陶しい。
重い頭が重力に引かれる。
いよいよ死が確実になろうとしている。
この高さでも頭から落ちればただでは済まないだろう。
一刻も早くこの状況を打開しなければ本当に死んでしまう。
それだけは何としてでも避けなければ。
無事だった方の腕へ、何でも良いから掴めと命令を出す。
幸いにしてなんとか手先は動かす事が出来た。
そしてその手がヌルっとした液体を掴む。
[スキル【ライフスティール】が自動発動。
対象より極小の体力をスティール。
追加効果発動……成功!
《小悪魔・混血種》〝名称未定〟はスキル【溶解耐性】を対象よりスティール]
巫山戯ているのか!
と怒鳴りたくなる気持ちを必至に抑えて、視覚・聴覚・嗅覚・触覚を総動員し全身全霊で生き残るために努力する。
なんか妙なアナウンスが響いたが、今はそれどころではないので一端無視。
咄嗟に悪態だけは吐いてしまった訳だが。
掴み所のない空気とヌルッとした液体以外に何も触れられないまま、長い長い落下が続く。
致命的なことに敵の姿は視界から外れ、これまた致命的なことに空中に投げ出された身体はやはり緩慢にしか反応してくれず回避行動など夢のまた夢。
諦めるつもりは毛頭無いが、覚悟を決めておく。
ダメならダメで即死である事を願いたい。
幸いなのかどうかは別にして、次に襲ってきたのは地面との衝突によるそこそこの痛みだった。
頭から落ちるなどという愚は犯さなかったのだから当然と言えば当然なのだが。
ただ、身体の自由がほぼきかないので受け身もまともに取れず、赤ん坊という虚弱な身体へのダメージそのものは大。
あまり痛みと感じなかったのはまだ神経が発達しきっていないのか、それとも肩傷の痛みに比べればという言葉が先につくからなのか。
とりあえず俺は生きていた。
瀕死状態ではあるが。
幸いだなんてとんでもない。
バランスを崩した拍子にどんな抉られ方をされたのか、肩傷が伝えてくる痛みが増量していた。
情けない事に、何度か声にならない悲鳴をあげていた。
だが一難去ってまた一難。
涙目になりながらも周囲の状況を確認すると、あろう事か男の背中がこちらへ倒れてくるではないか。
遅れて回復した聴覚が、男の弱々しい悲鳴をキャッチ。
男は何者かに現在進行形で襲われていた。
理解が追い付かない。
この一瞬の間にいったい何があったというのか。
そんな事よりも、俺の方へと倒れてくるのだけは勘弁して欲しい。
普通に襲い掛かってきてくれ。
たまたま事故で死ぬより、故意に殺される方を俺は好む。
状況はどうあれ、戦って死ねるなら本望。
死ぬつもりは毛頭ないが。
そんな願いも虚しく、男の背中が俺の肩に刺さっている武器目掛けて倒れ込む。
その光景が意味するところをすぐに理解したが、まるでスローモーション再生のように刻一刻とその時がやってくるのを俺はただ見ている事しか出来なかった。
そして、想像を絶する痛みがやってきた。
既に半ば千切れかかっていた腕が、その一撃で以て完全に胴体から切り離された。
斬るというより断つに等しい強引な手段で腕が分離させられた瞬間、強烈な痛みが俺の精神を隅から隅まで蝕んでいく。
と同時に、身体の一部を失ったという酷い喪失感が襲い掛かってくる。
肉体の一部を失う体験は仮想世界の中で何度も経験した事があるが、そんなものとは比べようもないほどの無が、思わず恐怖してしまうような空前絶後の感覚がそこにはあった。
それでも俺はまだ生きていた。
この苦痛も喪失感も、生きているからこそ感じられるもの。
これも幸いなのかどうかは別にして、武器がクッションとなった事で、倒れてきた男の体重から繰り出される衝撃がそちらに吸収され事なきを得た。
ただ、物凄く痛い。
実は死神ではなく痛みを司るどこぞの神にでも俺は愛されてしまったのだろうか。
さっきから少し酷くないか?
苦痛に苛まれつつも残っている腕と両足を必至に動かして、赤ん坊の身からは巨人としか思えない男の身体の下から這いずり出ようと抗う。
その頃には自分がどういう状態にあるのかを何となく察していた。
俺が今、赤ん坊だというのは間違いない。
それは妄想でも何でもない。
身体がまともに動かないのは全身の筋肉がまだ未発達で、情報伝達すらもままならない状態にあるからだ。
視界に映った自分の身体が以前とはまるで別物だった事でその現実を受け入れるのに随分と時間を要してしまったが、そもそもそんな余裕を目覚めてからまともに与えられなかったのだからしょうがないと言える。
そしてやはり現実はそんな俺の待ったを聞いてくれはしない。
既に死んでいてもおかしくない俺の上で暴れ続ける巨人ならぬ大人の男性が、ただでさえ瀕死に扮している俺の生命を削っていく。
男のピンチは未だ続いているらしかった。
男は何者かに襲われていた。
それは男の口から零れる切羽詰まった悲鳴から間違いない。
意識がまだあるなら。
身体がまだ動くなら。
例えどれだけ困難であろうとも自らの命がかかっているならそこから逃げだそうとする筈だ。
俺が今そうであるように、男も今まさに死に瀕しているが故に、その死から逃れようと必死になっていた。
必死にもがいていた。
その動きが俺に対する攻撃にもなっているという、ただそれだけのこと。
しかしそれはそれで俺も下敷き状態から逃れやすいというもの。
時々、肘撃ちや掌打が俺の頬や頭にヒットしていたが、片腕を失ったダメージに比べたら微々たるもの。
たぶんだが。
そうしてようやく安全圏内まで逃げ出した後――ぶんぶんと振り回される腕が届かないだけの距離ではあったが――少しでも気を抜けば意識が飛びそうになるのをぐっと我慢しながら、男の身に何が起こっているのか確認する。
そこには、蠢く液体によって捕食されている哀れな男の姿があった。
うん、スライムだな。
男がスライムに喰われている。
男は必至にそのスライムの魔の手から逃げだそうとしているが、スライムはまるで拘束するように男の四肢に絡みつき離そうとしない。
男はスライムの身体を引き剥がそうと身体に絡みついている液体を必至に手で掻き出すが、スライムの身体は重力を無視し一瞬で元の状態に戻ってしまう。
形状を記憶する流体とでも言わんばかりに、男の努力はまるで報われなかった。
その間に、男の着ている服は少しずつ少しずつ溶かされていた。
だが男の肌は溶かされている様子がない。
あのダブル特性は凶悪過ぎるだろう……捕食している相手が男性である事が非常に残念であったと思うのは御愛嬌。
いったい誰トクなのか。
俺にそういう趣味はない。
それはそれとして、そんなものに俺は先程まで浸かっていたという事実に気が付いて、背筋に冷たいものが走った。
俺がそれまで浸かっていただろう浴槽。
そこから俺と一緒に零れ落ちた液体は何処に行ったのか。
地面に水溜まりはなかった。
液体は、あのヌルヌル動めくスライムだけ。
そして俺は真っ裸。
水風呂っぽいものに浸かっていたので俺が服を着ていないというのは分かっていたが、それがもし別の要因だったとしたらどうだろう。
それは水ではなく、スライムだったとしたら。
スライムプールに浸けられていたとしたら、その後はいったいどうなるか。
服を溶かすぐらいだから、人の肉もきっと時間を掛ければ溶けていく。
今、男の肌が溶けていないからといって、そのスライムの酸が服だけしか溶かさないという謎特性を持っていると考えるのはあまりにも都合が良すぎる。
そんな戦慄する思いを更に上回る出来事が男の身に襲い掛かった。
スライムが、まるでそうすれば簡単に男の息の根を止める事が出来ると知っているかのように、男の口と鼻をその液体状の身体で覆ったのだ。
男は呼吸を塞ぎにきたスライムの身体を掻き出そうと藻掻くが、先程同様にスライムの身体はすぐに元の形状へと戻るためほぼ千日手状態。
何とか息継ぎする一瞬は確保出来てはいたが、それも時間の問題だった。
男の動きがだんだんと悪くなっていく。
コポッという音と、男の口から出てくる気泡。
飲み込んでしまったのか、それとも肺に入ってしまったのか。
男は喉を抑え……そして力尽きた。
酸欠に陥り呼吸が止まる。
俺を殺そうとした敵は、別の敵によって殺された。
それからの出来事はあっと言う間だった。
今までは遊んでいただけなのか。
それとも後でゆっくり食事を行うために手加減をしていたのか。
ぐったりとして動かなくなった男が着ていた服が、突然にシューシューといって勢いよく溶け始める。
否。
服だけでなく肉も溶かされていた。
溶かされた皮膚の先から血が溢れ、スライムに混じっていく。
溢れ出る血もスライムの身体と混じり合いながら吸収されていく。
筋肉が剝き出しになった肌がブクブクと泡を発生させながら溶けていく。
時折にブシュッと血飛沫があがり、その血が俺の頬を濡らす。
肉の次は骨。
白い骨が現れ、やはりこちらもブクブクと泡を生み出し、シューシューという耳障りな音を響かせる。
骨が溶かされ人の形が失われていく。
人の姿から肉の形に。
肉の形から血泥の液体に。
液体となった元は人だったものは、スライムの身体と交じり合い、そして吸収される。
少し前までは最強エロスライムと思っていた存在が、本来在るべき能力の強化版を見せつけてきた事で俺は悟った。
やはりここで俺が殺されるのは確定事項なのか、と。
大人の男性から殺されそうになるだけでも絶望的な状況だというのに、掴む事すら出来ない強酸性の液体生物から逃げ果せる術を赤ん坊の俺が持っている訳がない。
その方法を全くもって思い付けない。
せめて近くに火でもあれば少しは戦いになるというのに、それらしき光源は見当たらなかった。
どころか、光蘚などの光源そのものがまるでなかった。
気になるのは、瞳に映る景色の形は分かっても、その色はまるで分からなかった事だろう。
光源の一つでもあれば目の前にいるスライムが何色をしているのか分かったというのに――やはり水色なのか、はたまたポイズンっぽく毒々しい緑色でもしているのか――俺の瞳はスライムの形状や周囲の凹凸は分かっても、色という情報は黒一色だけしか得られなかった。
不思議な事もあるものだと思う。
まぁ、もし分かったとしても、男を喰ったばかりのスライムの色など見たくはないが。
ちなみに、スライムに喰われた男を初めて瞳に映した時だけは薄い光があった。
ファンタジーな予想を言えば、恐らく魔法か何かで生み出した光源があったのだろう。
スライムがいるのだから魔法があってもおかしくない筈だ。
見渡す限り、ゴツゴツとした地面と壁と天井。
手を加えられた痕跡のない壁と天井はどう見ても自然に出来たモノにしか見えないし、肌から伝わってくる地面の感触も人工的に作られた床のそれには程遠い。
そこは狭い部屋だった。
洞窟の中のような、閉じられた空間。
逃げ道と思しき出入口が何故か見当たらない。
閉じた世界。
逃げ道を探そうとしてその事に気付き、再び俺は愕然とする。
殺戮者たるスライムと密室空間で二人きりならぬ一人と一匹という状況。
そのスライムが男を喰った事で満腹感に満たされ、暫く大人しくしてくれるという淡い期待など欠片も求めるつもりはない。
が、この状況はあんまりにも理不尽過ぎる。
最悪を越えて最悪だった。
捕食者が次なる獲物を求めて、遂にこちらへと振り向いた。
スライムに前後があるのかどうかは甚だ怪しいものだが、たぶん振り向いた。
そんな感じがした。
スライムから必至に逃げようと後退りし続けていた俺の背中が壁へとぶつかる。
まだ残っている左腕と両足で地面を押し、引き続き右側へと逃げようとするが、ゾル状の液体が一足先に俺の足先へと到達する。
逃げたところで助かる見込みはないが、だからと言って俺は諦めるつもりは毛頭ない。
毛頭ないが、現実と言うのはいつも過酷だ。
スライムの腕が伸び、俺の足を掴んだ。
逃がさないとばかりにゾル状の液体がゲル状っぽい固体へと変わり、俺の足をその場に固定する。
スライムがニタ~っと笑うようにプルプル震える。
まるでナメクジが這うように足先から俺の身体を徐々に浸蝕を開始する。
肌から伝わってくる何とも言い難い感触に壮大な怖気が走る。
そこに追い打ちとして、俺の瞳が、ある光景を映し出す。
それは、いつの間にかスライムの中に埋もれていた俺の右腕だった。
光が無いのにスライムの中身が何故か見えるという謎事象はこの際どうでもよく、徐々に溶かされ小さくなっているという事実だけが見て取れた。
ちょっと本気で泣いた。
この世は弱肉強食。
食物連鎖の鎖からは逃れる事は出来ないらしい。
抵抗を止めるつもりは更々なかったが、既に多大な出血で体力の限界を迎えていた事もあり、泣いた事で遂に体力が底を尽いたのだろう。
――俺の意識はそこで闇の中へと沈む。