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批評家になろう  作者: 八雲 辰毘古
観察篇
5/13

文章を味わう2

 言葉を知るとは世界を知ることであります。何か漠然とした「もの」を、言葉で示すことを「名付け」と呼んだりしますが、自分の内側にある思考やら観念やら感情やらに「名」を与えていく作業が、例えば今こうして私が文章を書いていることであったり、普段何気なくやっているおしゃべりであったりします。何かもやもやとしたものを言葉にするだけでも、何か心が爽快になれることもあるような気がしますね。

 しかし、一方で、言葉にすることで失われる「もの」も多くあります。もう古いのですが、アルフレッド・コージブスキーの有名な文句に「地図とは土地そのものではないように、言葉は物そのものではない」というものがあります(詳しくは岩波書店刊行、S.I.ハヤカワ著『思考と行動における言語』参照)。詳しく言うと、「椅子」とは、例えば事務用の背もたれのないものかもしれないし、木製のアームドチェアかもしれないし、はたまたパイプ椅子なのかもしれない。仮にパイプ椅子だったとしても、畳まれていたり、傷付いていたりするわけで、つまりそういった細かい情報が言葉にしたときに隠れてしまう危険性があるのです。前に挙げたコージブスキーの比喩を借りると、ある「土地」の情報を「地図」に仕立てたとき、少なくとも「地図」からその「土地」の実情に迫ることはできません。なぜなら「地図」には、例えば左端に載っている工場が老朽化しているとか、この土地の景観が美しいなどという「土地」の情報があまり要らないからなのです。同じように言葉は、物を巡る雰囲気を伝えることはできるでしょうが、先ず百パーセント己れの思考や感情を伝えきることはできない、と断言していいと思います。

 では、だからと言って言葉が嘘だとするのはまたそれは極論だと思います。確かに言葉は「偽装」することができます。ここは現代においてよくよく考えて欲しいことです。マスコミによる誤報や、ネットに行き交う情報のなかを生きるためには、こうして「偽装」されたものが何であるかを多少なりとも考えないと危ないだろうなと臆測します。現代のテクノロジーは、もはや映像や写真、肉声や身体すら改造・改変することができます。或る意味では、吾々が言葉の「偽装」効果に対してある程度の注意を払うことは、全体としてのメディア・リテラシーにつながるのではないでしょうか。逆にその「偽装」を創造的に使ったものがフィクションとしての小説であるわけです。私は敢えて「偽装」と書きましたが、偽ること自体は悪いことではありません。偽った結果誰かが傷付いたり、迷惑を掛けたりしたらそれは悪いことでしょうが、そうでなければ使い道があり得るとも思うのです。「人が為す」と書いて「偽」と読むのです。偽物がなにもかも悪いものとは限ったことではないでしょう。『源氏物語』螢の巻に展開される「物語論」で、光源氏は仏典の「方便」を引合いに出して、物語を(ただ)に虚妄と断ずるのは良くないだろうと言っています。

 ……前置きが長すぎましたね。今回は「比喩」です。言葉は、物そのものではない代わりに、物そのものではできないことができると書きたかったのです。その最たるものは、「イメージ」です。それはある物と物を言葉によってつなぎとめる、言葉独特の力なのです。しばしば言葉には魔力がある、言霊があると言われますが、それはこうしたイメージを操作できてしまうから起きるのではないかと考えられます。この物に対するイメージ操作の一つに、比喩があります。


「彼女はそれをとうもろこしでも齧るみたいに片っ端から読んでいった」(村上春樹『羊をめぐる冒険』講談社)


「吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍(しょうがい)を置いた。最初の(おん)がうまく出ない。その最初の(おん)が、私の内界と外界との間の扉の(かぎ)のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が()びついてしまっているのである。」(三島由紀夫『金閣寺』新潮文庫)


「夕飯の時Kと私はまた顔を(あわ)せました。何にも知らないKはただ沈んでゐた(だけ)で、少しも疑ひ深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんは何時もより嬉しさうでした。私だけが(すべ)てを知つてゐたのです。私は鉛のやうな飯を食ひました。」(夏目漱石『こゝろ』岩波版全集より)


 他にも「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」(都々逸 『ことだま百選』より)のようなものもあり、とにかくたくさんの比喩が、言語表現のなかに含まれていることに気付かれるでしょう。小田雅久仁の『増大派に告ぐ』(新潮社)という小説は、ある賞の選評(http://www.shinchosha.co.jp/prizes/fantasy/21/selection.html#contentAnchor2)のなかで豊富な比喩を讃えられています。比喩表現一つ作者や登場人物のものの見方が鋭く垣間見えるものなのです。

 思えば秀れた表現というものはいつもこうした比喩による、イメージのつながりではないでしょうか。一見そうでない二者をつなぎとめたり、逆に密接であるものを引き離したりする、そうした操作ができるのは、ひとえに言葉の持つ力だと感じます。そもそも私がこうして物を書いていること自体がなかなか不思議なことだと思いませんか。私の思考は、(確実に表現できているか否かは別として)こうして言葉にすることで余人の目に触れるようになります。そこには私の思考だけではなく、根も葉もない気分や感情や主張なども()い交ぜになっています。こうしたものを言葉に(しぼ)り出してしまうのです。もちろん言葉足らずで誤解も招くことも往々にしてありますし、言葉がすべて表し切ることは不可能でありますが、言葉にした時点で話者(及び作者)の心は、どんな形であれ、すでに表現されてしまっているのです。ここから「文は人なり」の(ことわざ)が現れるのであります。

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